神社 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
FM76.5MHZ YouTubeでも放送中
北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

FM76.5MHZ インターネットでも放送中

 

 

 

 

 

 

2017年1月24日の放送テーマは、神社でした。

 

 

 

 

                    

 

 

神社は昔から人々の暮らしと密着してきました。北海道では、遅くても中世・鎌倉時代から室町時代には神社が建立されていたといいます。神社を創建したのは、渡党と呼ばれた人々でした。

 

渡党は、中世に蝦夷地へ渡った和人ではないかという説があります。多毛であり、和人の言葉が通じたと記録されています。

 

神社は、渡党たちの本拠地であった道南の漁業拠点に建てられました。信仰は山岳信仰や岬信仰が主体。また神道や密教が混在していたとも考えられています。

 

現在最も古い神社とされているのが、北斗市にある意冨比(おおひ・おおい)神社です。箱館戦争の激戦地としても知られているこの神社は、創建年代は不詳ですが、平安時代1060年の銘が入った鰐口が保管されています。

 

また、有名な神社としては姥神大神宮があります。道南・江差にあり、社伝によれば1216年・建保4年の創建とされます。

 

中世時代、蝦夷地に割拠する豪族は安東氏の管領でした。彼らは館とよばれる砦を構え、それぞれの勢力がしのぎを削っていました。生活の安定や各勢力との争いなど、息が抜けない生活だったとも考えられます。

 

そんなことからか、彼らは自分たちの館中に神社を建て、館神として祀っていたといいます。祀っているのは八幡大菩薩が中心でした。

 

江戸時代初期、豪族・蠣崎氏が松前藩を成立させました。藩は寺社町奉行を置いて、宗教について統制を行いました。

 

江戸期は蝦夷地にとって変革の時期でもありました。蝦夷地の各地へ和人が入っていきました。それとともに各地で次々と神社が創建され、蝦夷地には松前以外でも140の堂社があったといいます。

 

また松前では修験者が現れ、世襲で神職を務めるようになりました。松前氏の本拠・福山城では、城の守りとして後の松前八幡宮を建立します。

 

その宮司は代々白鳥氏を名乗りました。白鳥氏は、藩から国中社頭御役にも任じられています。

 

この白鳥氏によって神職や神事が整えられていき、松前神楽が1662年・寛文2年に初めて奏されたと伝わります。

 

神楽は歴代の松前藩主によって保護され、1681年・延宝9年には、大神事規約も作られました。

 

江戸時代になってからは、次第にロシア人が蝦夷地に注目していきます。1700年代を迎えるとその動きも本格化しました。江戸幕府もその状況を打開すべく動きました。それは松前藩に大きな影響を与えます。

 

1799年・寛政11年、蝦夷地の一部を幕府直轄領とします。さらに箱館奉行所を設けて、ロシアの脅威に対抗しようとしました。

 

このときの蝦夷地警備は、東北地方の諸藩によってなされました。蝦夷地のあらゆる所に警備の武士たちが派遣されます。当然、彼らも心のより所を必要としました。その結果、武士たちによる神社創建が、次々と行われていきます。

 

武士たちに創建された神社は、武神・八幡神が祀られました。これらが後世、八幡神社となっていきます。

 

また、海産物を目当てに蝦夷地へ往来していた和人の中には、沿岸部に番屋を設けて商売を行う者も現れました。彼らの願いは海神・水神や漁獲・商売の安定。そういう思いから、自然発生的に、恵美須堂、弁天社、金比羅社などが建てられていきました。

 

さらに江戸時代後期になると、蝦夷地で稲作が試みられるようになります。稲作への試みとともに増えたのが農業移民。彼らによって建てられたが稲荷社でした。これらは道南から道央にかけて多く建立されました。

 

大きな神社創建は明治になってからでした。1869年・明治2年9月、東久世通禧が北海道開拓使長官に任ぜられました。このとき、明治天皇から開拓三神として三柱の奉遷が下されました。

 

東久世の名代として実際に札幌に赴任した島義勇は、開拓神勅祭社創建の計画を建てました。島はほどなく罷免されますが、神社創建の事業は進められました。1871年・明治4年に札幌神社と命名された神社が建てられます。

 

例祭日は今も続く6月15日。当日は全道民が休業し参拝するように開拓使によって布告されています。

 

この時期、人々に対し蝦夷地各地への入地が推奨され、全国から数10戸から100戸を超す団体が蝦夷地に入るようになりました。

 

多くの場合、彼らは出身地ごとにまとまって入植しました。彼らが開拓した土地では故郷の産土神(うぶすながみ)を祀る傾向がありました。

 

入植当初は、切り倒した大木の切り株に神棚を祭り、祭神名を記した棒を建てて、簡素な鳥居を設けた神社が建てられました。これらを切株神社とか棒杭神社と称することもあったといいます。

 

こうした神社は無願神社と呼ばれました。無願神社は、小神社を統廃合しようとする国策に反するものでした。

 

しかし、開拓地では公認神社まで参拝するには距離があり、短時間で参拝をするために小さな神社は必要でした。

 

国も事情を汲んで、無願神社の取締はあまり行わなかったそうです。

 

 

 

 

出典/参考文献

インターネット資料

北海道神宮HP