キリシタンと蝦夷地調査 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

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2016年12月24日の放送テーマは、キリシタンと蝦夷地調査でした。

 

 

 

 

                    

 

 

蝦夷地は多くの人々にとって未開の土地でした。それは同時に、将来性に期待できるということでもありました。このようにあまり知られていない土地については、その情報獲得が重要です。それはキリシタンたちにとっても同様でした。

 

1613年・慶長18年、徳川家康によってキリシタン宗禁教令が発布されました。日本でのキリシタンの活動は一切許されず、外国人神父は国外追放。国内の宗徒には、棄教が命じられ、これに逆らうものは処断するという内容でした。

 

この禁教令でキリシタンの迫害が京都を中心として行われます。国内各地で布教活動をしていた外国人神父は、国外退去を命ぜられます。彼らは長崎に集められ、便船でルソン島やマカオに送られました。

 

また、高山右近や内藤如安らのキリシタン大名も、逮捕され国外追放になりました。その時、京都・大坂の宗徒が多数逮捕され棄教を迫られています。しかし、それに応ずる者はいなく、全員津軽に流されることになりました。

 

この棄教しないキリシタンたちは京都・47人、大坂24人の男女と子供でした。1614年・慶長19年4月初旬、彼らは津軽外ケ浜に流されることが決定します。

 

5月1日、彼らは裸馬に乗せられ大津に向い、琵琶湖から北上して敦賀に入り、船を待ち5月21日に津軽藩の船で出帆。6月17日に西津軽郡の鯵(あじ)ケ沢に着き、現在の弘前市である高岡に到着しました。

 

これらのことは、長崎にも知らされました。長崎のキリシタンたちは金品を集め、津軽に送ろうとします。

 

それを1人の神父が請け負います。国外追放を受け、長崎で船を待っていたジェロニモ・D・アンジェリス神父でした。彼は1568年生まれ。当時49歳。1602年から日本で布教活動を行っていた人物です。

 

アンジェリス神父は、自分が津軽に赴くことを人々に提案しました。アンジェリス神父は現在の秋田から松前を経てから、津軽の流刑キリシタンを見舞おうとしたと伝わります。

 

神父にとっては、それも大切な任務でした。しかし彼は、もっと重要な仕事を蝦夷地で果たそうとしていました。

 

彼はあわせて蝦夷地にわたり、調査を行うことも検討していきます。元々、アンジェリス神父の属するイエズス会は蝦夷地に注目していました。

 

アンジェリス神父の目的は、松前で蝦夷地がダッタン半島の1つの岬なのか、それとも島なのかを調べることだったといいます。これはマカオに駐在している彼の上長・アフォンソ・デ・ルセナ神父の指示によるものでした。

 

その結果によっては、日本とヨーロッパの通信が可能になるのではないかとの期待がなされていたといいます。

 

1618年・元和4年、アンジェリス神父たちは秋田から乗船し出帆しました。しかし風向が悪く、思うように蝦夷地には向かうことができません。

 

船は蝦夷地ではなく、青森県西津軽郡の深浦に着いてしまいます。

 

神父はここで松前に行くことができる風を待つことにします。彼らは浜に小屋を建て、22日間風待ちして、6月にようやく出帆。松前に向かいましたが、今度は海上が荒れ、波に翻弄されます。

 

船は目的地には着かず、ツガという港に着いたといいます。ツガという地名は、現在の上ノ国付近と推定されます。彼らは上ノ国から松前まで徒歩で移動しました。

 

アンジェリス神父は、松前に10日間滞在しました。その間、松前で15人程のキリシタンたちと逢い、福音(ふくいん)を与え若干洗礼を授けました。また、数多くのアイヌ民族にも会い、蝦夷地の状況も調べています。

 

後日松前藩の重臣も訪ねています。彼は松前藩主の言葉として、神父が松前へ来ることは問題ない。何故なら天下が神父たちを日本から追放したが、松前は日本ではないと伝えています。

 

当時の松前藩は、禁教令が発布されているにもかかわらず、寛大な態度を取っていたことが伺われます。

 

彼は、その後秋田に渡り10月に調査の詳細を上司に報告しています。しかし、アンジェリス神父の調査はこれだけに留まりませんでした。

 

1621年・元和7年には、第2回目の蝦夷地訪問が行われています。上長達が、より正確な蝦夷地の情報を望んでいるからでした。また、1人でも多くの信者を獲得することも急務でした。

 

この2回目の調査では、蝦夷地の地理、地図上から見た蝦夷地と諸国・諸外国との関係、松前への交易物資、原住者の衣服・装飾、原住者の信仰といったことが13項目にわたって調査されました。

 

これらと蝦夷国地図がまとめられて、上司であるパ-ドレ・フランシスコ・パシェコ神父に送られていました。

 

当時、アンジェリス神父や外国の神父たちは、詳細な蝦夷地の総合的な情報を欲しがっていたことが伺えます。

 

報告書は1年後、ロ-マ法王庁内のイエズス会本部に届きました。そこで関係者に大きな注目を集め、5年後の1626年・寛永3年、イタリアのミラノで印刷され、ヨ-ロッパ各国に配付されました。

 

当時、日本でも津軽の北に蝦夷地という島があり、僅かな和人とアイヌ民族が住む島という理解しかありませんでした。しかしこの時点で、ヨ-ロッパ人たちは蝦夷地の詳細を知っていたことになります。

 

アンジェリス神父は、1622年・元和8年にも蝦夷地に渡ったと言われています。しかし、それを裏付ける記録はありません。

 

キリスト教の布教という蝦夷地の文化に大きな影響を与えた神父たちですが、情報獲得も重要な任務でした。

 

逆にそれは彼らしかできなかったことかも知れません。

 

 

 

 

出典/参考文献

福島町史

インターネット資料