真珠湾攻撃と単冠湾 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

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2016年12月17日の放送テーマは、真珠湾攻撃と単冠湾でした。

 

 

 

 

                    

 

 

太平洋戦争の堰を切ったといわれる真珠湾攻撃。昭和16年12月8日未明、開戦通告の1時間前にハワイ・オアフ島で行われた日本軍の空襲により、アメリカ艦隊が大きな被害を受けた戦いでした。この戦いと北海道の関係は余り知られていません。

 

真珠湾を攻撃した航空戦隊は、北海道の東・択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)に終結し、そこから出港しています。

 

真珠湾のアメリカ海軍基地は、明治41年に設置されました。以来、日本海軍にとっては脅威となっていました。基地はオアフ島要塞と呼ばれる要塞群で守られていて、上陸可能な死角もありませんでした。

 

日本海軍は、基本的な対米戦略を漸減邀撃作戦(ぜんげんようげきさくせん)としていました。真珠湾から日本に向けて侵攻してくるアメリカ軍に対して、潜水艦と航空機の攻撃で次第に減らしていき、日本近海で艦隊決戦を行うと考えていました。

 

そのためハワイでの攻撃は、早くから検討されていたといいます。連合艦隊司令長官・山本五十六は、もしも日本が対米戦を行うのであれば、よほど思い切ったことをしなければ勝利できないと語っています。

 

当時アメリカ軍は、日本軍はアジア方面・特にフィリピンへの進出を企図しているとし、ハワイへの攻撃はしてこないという見方が多くありました。そういった背景を逆手にとって、オアフ島の基地を叩くことが決定されます。

 

しかも攻撃の主目的は戦艦・空母とされ、副目的は航空基地・敵飛行機となりました。参加する隊である第一航空艦隊・第二航空艦隊・第五航空艦隊・戦艦の第三戦隊・第八戦隊などが集められます。

 

極秘での作戦のため、ハワイまで近づくルートに細心の注意が払われました。アメリカに気づかれるては万事休す。当初、出発基地は父島か厚岸が候補になりました。その後、過去10年間に及ぶ太平洋横断船の航路が調べられます。

 

その結果、11月から12月にかけて北緯40度以北を航行した船は皆無なことが判明します。真珠湾攻撃の隊も、困難な北方航路が選択されました。

 

日本軍は出撃基地として単冠湾に目をつけます。湾の入り口と奥行きが、共に約10キロと長大。また全長250mを超える旗艦・赤城が停泊できるだけの水深もありました。

 

しかも、近くの天寧(てんねい)を合わせても住民は60戸程度と少ない。最高機密の機動部隊が身を隠すにはうってつけの湾でした。

 

昭和16年11月22日、赤城・加賀・蒼龍・飛竜・翔鶴・瑞鶴を旗艦とする日本海軍空母機動部隊が、択捉島の単冠湾に終結しました。これらの艦隊を択捉島の住民は間近に見ています。

 

22日早朝、全長数百mの軍艦が4~5隻あったのを住民が見つけ大いに驚きます。人々は、ただならぬ雰囲気に見てはいけないと言ったと伝わります。軍艦は音を発せず、集落も静寂に包まれたままでした。

 

そして午後になると、軍艦は数10隻に増えていました。夜にはそれらから青白いサーチライトが空に放たれました。単冠湾はさながら不夜城のようになりました。

 

上陸してきた士官は住民に、これから湾内に何も浮かべるな。電話も電信も遮断せよと

命じました。食料品や日用品は当時、郵便局の電話か電信で北海道に依頼していました。軍は、11月21日から5日間郵便局を監視しました。

 

この間、越冬用物資の輸送手配ができません。そのため住民は大いに困惑しました。記録には、作戦秘匿のために単冠湾に住んでいる住民が一時的に強制疎開させられたという記述もあります。

 

11月26日8時、機動部隊はハワイへ向けて単冠湾を出港しました。奇襲攻撃のため、全ての艦船は無線通信が禁止されていました。モールス打鍵器にはロックもかけられていたと伝わります。

 

日本軍は囮の艦船を派遣して偽装通信を頻繁に行い、艦隊が南方に向かっているように見せかけもしています。

 

12月8日午前1時30分、ハワイ近海に達した部隊は、180機以上の爆撃機を飛び立たせます。午後2時45分には、さらに170機の飛行機が攻撃に参加しました。日本軍の波状攻撃で、アメリカ軍戦艦は大打撃を受けました。

 

戦艦から吹き出す黒鉛で、視界がなくなるほどだったと伝わります。トラ・トラ・トラ=我レ奇襲ニ成功セリの電信がうたれます。これに対してアメリカ軍はAir Raid Pearl Harbor This Is Not Drill !!!=真珠湾空襲、演習にあらずとの電文をうっています。

 

おかしなことにアメリカ軍や一般の人々の中には、真珠湾攻撃がなされても軍の演習だと思っていた者が多かったといいます。

 

一方の単冠湾では静かな日々が戻っていました。26日早朝、単冠湾に軍艦の姿は1隻もなくなりました。何のために集まり、どこへ行ったのか。そのことを知る住民は一人もいませんでした。

 

人々が、戦艦群は真珠湾攻撃の部隊だったと知ったのは、12月8日に真珠湾攻撃の知らせが全国を駆けめぐってからでした。

 

当時、日本の石油禁輸などアメリカの厳しい対日政策に不満があった人々にとっては痛快な出来事だったようです。

 

そのことは北海道議会でも顕著に現れました。この時、議会は昭和17年度の北海道地方予算案を審議していました。

 

北海道興農公社への出資金をめぐって紛糾していましたが、真珠湾のニュースに議場の空気は一変。代表質問も、宣戦布告によって質問応答の無意味を痛感するとし、予算案はスピード審議で原案通り可決されました。

 

歴史的な戦争の出発点となった北方領土択捉島・単冠湾。終戦直後まで日本人の集落があったといわれますが、現在ほとんど人は住んでいません。かろうじて、日本軍が敷設した軍民共用の滑走路が当時の面影を残すだけになっています。

 

 

 

 

出典/参考文献

北海道新聞記事

インターネット資料