大坂の陣と松前藩 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

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2016年12月10日の放送テーマは、大坂の陣と松前藩でした。

 

 

 

 

                    

 

 

北海道の歴史というと幕末の出来事が多く、戦国時代の記録はほとんどないと思われるかも知れません。確かに本州ほど多くの歴史は残っていませんが、北海道にも戦国時代の記録が散見されます。

 

大坂の陣という歴史上重要な出来事についても、北海道・蝦夷地の松前藩が関係していたことが記されています。

 

1590年、豊臣秀吉は関東小田原攻めを行いました。その頃、蝦夷地・松前には蠣崎慶広という人物がいました。彼はこのとき43歳。秋田檜山城の安東家の代官として、松前を中心に蝦夷地を統括していました。

 

慶広は秀吉に取り入り、1593年に秀吉から朱印状をもらうことに成功しました。内容は、蠣崎慶広の許可がなければ蝦夷地での交易ができないとされています。この朱印状を背景に、蠣崎家は安東家からの独立を果たしていました。

 

慶広が只者ではないとわかるのが、同時に徳川家康にも接近したことでした。彼は秀吉から朱印状をもらった2日後の1月7日、家康に新年の挨拶に趣いています。家康が慶広の着ている蝦夷錦を珍しがると、その場で進呈したといいます。

 

1596年に大坂城に参勤した時は、嫡男の盛広を伴い家康にも謁見。家康との距離を着々と縮めていきます。

 

1598年8月、秀吉が没しました。慶広は翌年、嫡男・盛広、次男・忠広を伴って家康に挨拶に行きます。さらに蠣崎の名を松前に変えました。これは家康の旧姓・松平と前田利家から1字ずつをもらったという説もあります。

 

そして1604年、慶広は家康から黒印状を授かりました。内容は慶広が蝦夷地の支配者として認定し、交易の独占権を与えるものでした。松前藩は幕府に認められた大名として正式に本領安堵となりました。

 

江戸幕府が成立した後は、徳川家が体制作りを本格的にすると共に、豊臣秀頼と徳川家康の確執が日に日に強まっていった時期でもありました。各地の大名は、豊臣家と徳川家の冷戦に注目していきます。

 

豊臣家の恩に忠実に生きるか、徳川家に付くか。大名の中には、内部でも意見が別れることがあったとも伝わります。実は松前藩の内部も波乱含みでした。

 

慶広には8人の息子がいたと伝わります。その中の4男は由広という人物で、幼名を数馬といいました。

 

数馬・由広は1594年生まれ。長兄の盛広になかなか嗣子が生まれなかったため、兄の養子に迎えられました。これは数馬・由広にとってはいい話でした。

 

慶広の息子たちは、ほとんど兄・盛広の家臣になっています。養子になるということは、兄の後継者になるということでした。いずれは、松前家を背負っていくという未来が開けていました。

 

しかし、兄に世継ぎとなる公広が生まれると養子関係を白紙に戻されてしまいます。彼は、明るい将来が突如真っ暗になったと感じたのかも知れません。このころから数馬・由広の粗暴な行動が目立つようになります。

 

そして、彼は松前家の徳川家に従うという方針を無視して、豊臣家との接近を図っていきました。

 

1612年、彼は母の菩提を弔うために、紀伊・高野山に詣でました。彼はその帰りに大坂に立寄り、豊臣方の武将・大野治長や片桐且元と面会しています。その面会の内容は、記録としては一切残っていません。

 

しかし、豊臣家と徳川家が緊張状態にあった時期の行動としては、あまりにも目立ちすぎました。父・慶広は、数馬・由広と豊臣家重臣との面会を、ずっと重大なこととして記憶していきます。

 

その後、数馬・由広の行動は益々粗暴になり、常に父・慶広や甥・公広と反目するようになりました。そんな中、事件がおきます。1613年、数馬・由広の家臣に過ちを起こし、奉行の小林良勝によって成敗されてしまいます。

 

このことに数馬・由広は怒り狂いました。我を忘れた彼は、小林良勝を殺害するという暴挙にでました。数馬・由広が、これを契機に豊臣家へ出奔しようと考えたかどうかについては判然としません。

 

これに対し父・慶広の考えは明快でした。少しでも家康の疑念が残ることになれば、家はどんな仕置をされるかわからない。とにかく、松前家を安泰にしていくことが必要との判断をします。

 

父・慶広は、数馬の成敗を決心します。1614年12月26日、数馬・由広は命を落としました。新羅の記録によれば、父・慶広と甥・公広によって成敗されたとされ、寛政譜によれば父・慶広の命を受けた工藤祐種によって討たれたとあります。

 

数馬・由広の享年は21。江戸時代初期とはいえ、あまりに短い人生を閉じています。そしてこの年、大坂の陣が勃発していました。数馬・由広の一件があったためか、松前家は大阪冬の陣には参陣できていません。

 

しかし翌年1615年の大阪夏の陣には、松前慶広は63歳で参陣しています。その傍らには36歳の次男・忠広が伴われていたといいます。

 

忠広は獅子奮迅の活躍をしました。傷を負いながらも敵将の首を上げたと伝わります。彼らの活躍もあり、大坂の陣は徳川家の勝利で終結しました。

 

戦のあと、慶広は家康に7尺のラッコの皮を献上しています。また次男・忠広は、継続して旗本として幕府に仕えていくことになります。これにより、松前藩と徳川幕府のつながりが強いものになりました。

 

大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、緊張の糸が切れたように戦の翌年1616年4月17日に死去しました。松前慶広も、家康の後を追うように、同年10月12日に息をひきとっています。

 

各地の大名たちが、全神経を研ぎ澄まして挑んだ大坂の陣。蝦夷地は関東・関西との距離から、全く無縁であったと感じられるかも知れません。しかし、松前藩にも家存続のために大仕事があったことは間違いありません。

 

いずれにしても、この戦で江戸幕府も松前藩も安泰となりました。

 

 

 

 

参考文献

北海道の商人大名 山下昌也 グラフ社 2009年

北海道戦国史と松前氏 新藤透 洋泉社 2016年

インターネット資料