FMアップル「北海道歴史探訪」
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2016年11月19日の放送テーマは、昆布でした。
昆布はそのままでも美味しく、ダシをとるのにも欠かせない食材です。今や全国で楽しまれている昆布は、北海道で生産されたものが全体の90%以上にもなり、北海道の名産として長い間君臨しています。
昆布は古くから文献に登場しています。確認できる最古の文献は、700年後半の続日本記。その中で、蝦夷の昆布貢献の文字が見られます。当時から、昆布の生産地が北海道であることが記されています。
また、14世紀に書かれた庭訓往来という文書には、全国の様々な産物が記されており、その中に宇賀の昆布という記述があります。
宇賀の昆布とは、津軽海峡に面した道南地域およびその周辺地で生産された昆布を指します。この昆布は日本海を交易ルートとして、北陸地方経由で京都・大阪方面まで流通していました。
その流通の拠点と考えられるのが、道南地域にあった志海苔館。14世紀頃から和人・小林氏の活動拠点でした。昭和43年に、館の近くから38万枚もの銭が出土していることから、その利益は莫大であったと推測されます。
それ以降も、全国的に昆布は生活の必需品となっていき、様々な形で食べられていきました。仏教の教えで肉食が禁止され、海のものが食生活の中心になったことも影響があったともいわれます。
また昆布は、乾燥させてしまえば保存食にもなりました。その側面からも重宝する食材として認識されていたと考えられます。
保存食ということからは、戦国時代の武将たちの兵糧としても利用されていきます。特に縁起をかつぐ戦で利用されました。
戦国武将の間では、出陣や帰陣の時、打鮑(うちあわび)・勝栗(かちぐり)昆布の3品が欠かせないものになります。これは「打ち勝ち喜ぶ」という縁起のいいゴロ合わせから作られたものでした。
ちなみに打鮑はアワビの肉を細く切って干したもの。勝栗とは、栗の実を干して臼で殻と渋皮をとったものです。
この昆布を記録上、活発な流通システムに乗せたのは松前藩でした。藩は昆布の漁業権を守る必要がありました。彼らは場所請負制を採用して、そこに運上屋を取引場所として交易を行わせる方法をとりました。
この方法だと、許可した運上屋のみが昆布漁業を実施していけることにもなります。運上屋の数は、時代と共に増えていきました。それはそのまま、松前藩の根幹をなす経済体制にもなっていきます。
国内の流通は、主に近江商人たちが中心になって運営されました。彼らは、各地の商品流通も活発にしていきます。
近江は米の集散地でした。また、日用品も多く集まっていました。商人たちは米や日用品を松前に届け、その帰りに昆布を本州に運んでいきました。やがて昆布の品質も問われるようになり、松前からの昆布が標準品としての取引が行われたと伝わります。
市場が形成されると同時に、やがて昆布の加工も行われるようになります。江戸時代中期には、昆布を加工した昆布菓子が登場しました。
江戸本町の桔梗屋では花昆布が発売され、京都松前屋ではおかし昆布という商品が売られるようになりました。
関西でも昆布は浸透して、地元の商人たちの組織にも影響しました。大坂では、海藻商人の株仲間・昆布商仲間が生まれます。
青昆布仲間・細工昆布仲間といった組織が出始め、次第に昆布商売の独占体制を強めていきました。そのようにして昆布といえば、上方といわれるようになります。
また、昆布は強力な輸出品でした。輸出先は対岸の清国。目的は当然外貨の獲得でした。その量は莫大で、1698年・元禄21年の記録では7.5トンにもなったと伝わります。
その反面、北海道は生産の地として位置づけられ、消費が伸びないという状況になっていきました。
蝦夷地では昆布の生産を維持するために、昆布養殖も実施しています。1863年・文久3年、門別町沙流の場所請負人・山田文右衛門という人物が、約32万個の投石で昆布の漁場を増やす試みをしています。
養殖は明治に鳴っても続けられ、1891年・明治24年から20年間、坂田孫六という人物が自費で、現在の函館湯川町に投石による人口の礁(しょう)を造成しました。結果は良好。その後、渡島地方各地に人口礁がつくられるようになります。
明治維新前夜、海援隊の坂本龍馬が蝦夷地に渡ろうとした記録があります。多くが蝦夷地での開拓はロマンと捉えての入植希望と考えられてきました。
しかし、そのことに関して違う見方もなされ始めています。龍馬の狙いは、昆布での商売ではなかったかという指摘です。
当時、龍馬の連携していた薩摩藩では昆布を仕入れ、それを海外に売るなどの実績があったと伝わります。
それを見ていた龍馬が、自分の新たなビジネスとして、蝦夷地での可能性を探ったという考えです。
確かに脱藩をして貿易会社を設立し、綿畑の確保と輸出などの壮大な仕事を描いた龍馬が考えそうなことかも知れません。今となっては答えの出ないことではありますが、大いに好奇心を刺激される話です。
現在昆布は、函館から室蘭にかけてのマコンブ・室蘭から三石にかけてのミツイシ昆布・浦幌から根室近海までの長昆布などの多くが生産されています。
しかし依然として、その漁法は昔ながらの小さな船によるものが中心です。また昆布の干し方も変わっていません。
それを見ていると、これからも変わらない人々と昆布との付合いが続くことを願ってやみません。
参考文献
北海道なんでもルーツ 吉岡道夫 1989
函館市編『函館市史銭亀沢編』函館市
インターネット資料