クラーク博士帰国後の人生 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

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2016年11月12日の放送テーマは、クラーク博士帰国後の人生でした。

 

 

 

 

                    

 

 

明治初期、札幌農学校に赴任してきたクラーク博士。現在でも様々なところに銅像あり、札幌の象徴的な存在として多くの人々に認識されています。有名なboys be ambitiousという言葉も「少年よ大志を抱け」と約され幅広く浸透しています。

 

しかし、クラークが北海道で過ごした後、アメリカに帰りどのように過ごしたかについては、語られることは少ないかも知れません。

 

ウィリアム・スミス・クラークは、1826年にアメリカ・マサチューセッツの小さな村で、医者の子として生まれています。高校を主席で卒業し、名門アマースト大学に進学。さらに、25歳でドイツの大学に留学しています。

 

博士号を取得した彼はアメリカにもどり、母校・アマースト大学の教授に就任しました。その後クラークは37歳の時、マサチューセッツに農学校を設置しています。

 

その頃、日本も明治初期を迎えていました。北海道では、外国の文明を取り入れるのに懸命でした。北海道開拓長官・黒田清隆は、開拓の根幹として札幌農学校を設立しました。設立時のお手本はマサチューセッツ農学校でした。

 

黒田はクラークに、札幌農学校で生徒を指導してくれるように要請します。クラークは北海道行きを快諾しました。1876年・明治9年5月、クラークは50歳で北海道に入っています。そして、札幌農学校の生徒たちと教育を通して様々な交流を図っていきました。

 

クラークが札幌を去ったのは、翌年の明治10年4月。彼は8ヵ月間しか北海道に住んでいません。帰国寸前の東京では、関係者から盛大な送別の会が実施され、多くの賛辞の中、彼はアメリカに帰国しています。

 

1877年・明治10年7月、クラークは故郷アマーストに着きました。このとき、町の人々は、home sweet homeをバンド演奏して歓迎したといいます。

 

クラークはこれに対して、謝辞を述べると共に、日本にも善良な人々がいることを伝え、場合によってはアメリカが劣っているところさえあるとしています。

 

彼は帰国後、マサチューセッツ農科大学の学長に就任しました。日本との交流は引き続きあり、本や実験道具、種子や農業機器など様々なものを送ったりしています。西南戦争に従軍した黒田のために、双眼鏡を送ったこともありました。

 

また札幌農学校の生徒からの手紙もあり、それを読むのを楽しみにしていたといいます。特に誰かが新たに洗礼を受けたという報告は、とても彼を喜ばせ、周囲の者に手紙を読み聞かせるほどであったと伝わります。

 

クラークはアメリカの各所で、日本についての講演も行っています。そこで彼は、日本の持つ自然や美、豊かな土壌や天然資源について好意的に話しました。札幌農学校の生徒たちについては、正しいと考えることを完全に実行できる人々と絶賛しました。

 

そのように故郷での暮らしを続けていったクラークでしたが、彼が就任したマサチューセッツ農科大学は、深刻な財政難に直面していました。

 

乏しい資金に対するクラークの苛立ちが大きかったと同時に、世間からも大学とクラークに対する風当たりが厳しくなっていきます。結局彼は、就任から1年半ほどで、学長を辞任することになります。

 

クラークは、次の仕事に取りかかりました。それは全く新しい構想の洋上大学でした。内容は学生と学びながら世界一周するという壮大な計画でした。

 

企画をクラークに持ち込んだのは、ジェーンズ・ウッドラフという実業家。事務所はニューヨークに置かれました。

 

クラークはこの構想を打ち上げ、アメリカで知られる存在になります。明治12年春に日本に出した手紙には、来年幸運にも洋上大学をひきいて日本に行けることになれば、できれば札幌に立寄りたいと記しています。

 

しかしこの洋上大学は希望者が充分には集まらず、企画者のウッドラフが急死するという不運に見舞われ頓挫してしまいます。

 

明治13年、クラークは黒田に宛てて手紙を書いています。6月1日で現在の職務から開放されますので、良い機会があったら札幌か何処かで働けると非常に嬉しいと思います。クラークの失意が伝わる文面とも感じられます。

 

その後クラークは、転身を果たします。新たに実業界に進出、ニューヨークで鉱山経営のスター・グローブ銀鉱山会社を設立しました。共同経営者はジョン・ボズウエルという人物でした。実は元々詐欺やギャンブルで、問題のあった男と伝わります。

 

明治14年、会社はネバダ州で採掘を開始。会社は破竹の勢いで利益を上げていきました。会社は、凄まじい伸びを示すし、この年の秋までにカナダからメキシコにかけて7つの鉱山を所有するに至ります。

 

クラークが手にした金は、1年足らずで25万ドルともいわれました。人々は彼の成功を話題にし、クラークも日本への手紙の中で、日本へ行くことの希望と牧師を雇う資金として100ドルの送金もしています。

 

しかしそれがクラークの絶頂期でした。明治15年5月、クラークの会社はあっさりと倒産します。ボズウエルは行方をくらまし、クラークは投資者に対して何の補償もできませんでした。

 

新聞は、希望を抱き快活な性格で、心に疑いを抱くことがまったくないクラークに、金を渡すことは賢明ではなかったと書きました。

 

その後クラークは裁判沙汰に巻き込まれ、心臓を病んでしまいます。あわせて家に引きこもりがちになり、あまり人と接触することはありませんでした。そんな中でも札幌の思い出はクラークの癒やしになっていて、生徒たちからの手紙を楽しみにし続けました。

 

1886年・明治19年3月、クラークは失意のうちにこの世を去りました。享年は59。死の間際に、札幌で過ごした8ヵ月間こそ私の人生で最も輝かしい日々だったと語ったといわれます。

 

クラークの訃報を聞いて、札幌農学校では追悼会が実施されました。既に卒業した人々も多く集まりました。

 

アマーストに眠るクラークの墓には、札幌から移植されたエルムが立っていたと伝わっています。

 

 

 

 

出典/参考文献

幕末維新えぞ地異聞 北国諒星 北海道出版企画センター 2009年

インターネット資料