樺太アイヌ強制移住 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

hokkaido history walker

FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
FM76.5MHZ YouTubeでも放送中
北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

FM76.5MHZ インターネットでも放送中

 

 

 

 

 

2016年9月3日の放送テーマは、樺太アイヌ強制でした。

 

 

 

 

 

 

                    

 

かつて北海道・樺太では、先住民であるアイヌ民族の居住地を、強制的に変更させるという負の歴史がありました。最終的な移住地が現在の江別市である対雁になり、多大な損害が出てしまった出来事です。

 

この出来事は、樺太アイヌ強制移住といわれます。北海道においてもあまり知られることのないこの事実は、1875年・明治8年から翌年にかけて起こりました。

 

樺太の面積は7万6400平方キロ。大きさは北海道より僅かに小さいですが、広大な土地を有しています。その中にアイヌ民族やウィルタ民族(オロッコ)、ニブフ民族(ギリヤーク)などの先住民族が暮らしてきました。

 

明治初年頃、樺太南部の各地にはアイヌの人々が2,400名ほど暮らしていました。彼らは、他地域との交流で、独自の文化を発展させていました。

 

特に樺太と対岸の宗谷は、アイヌの人々と和人による交易が盛んだったといわれています。さらに樺太アイヌたちが南下したことは想像にかたくなく、函館まで行って交易していたという話も伝わっています。

 

樺太アイヌと和人が盛んに交流している時期に、ロシア人も次第に南下。樺太北部に次第に勢力を拡大していきました。そのような状況の中、日本とロシアの国境についての話し合いが行われます。

 

1854年・安政元年、日露通好条約が結ばれました。この条約では、これまでと変わらず樺太はいずれの国家にも所属せず、諸民族雑居の地とされました。千島列島については、クナシリ島とウルップ島の間が国境線になりました。

 

ところが明治維新成立後、樺太での国境も確定することになりました。この交渉の結果、1875年・明治8年に千島樺太交換条約が締結されます。

 

推進したのは榎本武揚。全権を握った彼は、千島列島を全て日本領とし樺太全域をロシア領としました。

 

樺太に住んでいる和人については、日本国籍のままで、これまでどおり樺太に住み続けることが許されました。

 

しかし、アイヌ民族については樺太に住むならロシア国籍を取得しなければならない、日本国籍を選ぶならば樺太を離れ、日本領土に移り住まなければならないということになりました。

 

国籍選択の猶予期間は3年。日本政府は、アイヌの人々を北海道に移住させる計画を策定します。行き先は対岸の宗谷とされました。この計画を推進したのが、北海道開拓の中心人物・黒田清隆でした。

 

アイヌの人々の中では意見がわかれたようです。残留を希望する人もいれば、北海道へ渡るという人もいました。黒田は、来ようと思うものは連れていく、イヤだという者はそのままにしておくと語ったといいます。

 

その結果、樺太北部の人々は残留となり、108戸・854人の人々が宗谷に渡ることになりました。

 

1875年.明治8年9月から10月、アイヌの人々は順次函館丸に乗り込み、樺太を離れました。行き先は対岸の宗谷。

 

宗谷に着いたアイヌたちは、各地に分散して急ごしらえの小屋を建てて暮らしました。これまでの生活を取り戻そうと、海で魚をとり、野山で焚き木を集めて樺太での日常に近い暮らしをしていきました。

 

しかし、日本政府には樺太から宗谷に移る前から、アイヌの人々を対雁に移住させる計画がありました。移住してまもなく、政府は人々を農業に従事させるため、移住させようと説得を始めます。

 

しかし人々は、樺太から遠い対雁には行こうとしませんでした。そこで松本十郎ら役人が小樽から宗谷に向い、アイヌたちと話すことになりました。

 

松本は、アイヌ民族に理解の深い判官でした。彼はアイヌの人々の説得が難しいと判断して、移住地の変更を黒田に上申します。しかし、それは却下されました。

 

1875年・明治8年10月下旬、アイヌ民族の長たちが石狩方面に出向き、現地である対雁を視察することになりました

 

視察の結果、代表たちは不服と結論付けました。代表は11月下旬に宗谷に戻ります。アイヌの人々は宗谷で冬を越しましたが、その間も役人たちによる説得は続きました。政府は、移住にあわせて石狩・厚田の漁場も与えると提案しましたが不調におわります。

 

翌年4月、アイヌの長たちは松本十郎宛てに、皆が反対しているので移住を強行しないでほしいという嘆願書を提出しました。彼らは自分たちで船を作って、樺太に帰る覚悟でした。波に飲まれて死んでも構わないとまで記しています。

 

松本は、彼らの嫌がる対雁ではなく、海がある枝幸への移住案を提出しましたが、これも却下されました。

 

ついに黒田は松本を無視し、強権を発動してアイヌの人々を対雁まで移送することを決定します。この強制移住は、松本が出張で留守の時に行われました。銃を持った巡査30名がいる中、船からの砲撃も行い、アイヌの人々を脅して船に乗せました。

 

彼らはまず、小樽に移動させられました。アイヌの長・アツヤエタークは仲間に責め立てられたともいいます。そのため彼は小樽で喀血し亡くなりました。

 

その後、現在の江別対雁に移住したアイヌの人々は開墾に従事していきます。しかし、慣れない生活様式や風土の違いにより、病死する者が続出。1879年・明治12年にはコレラが大流行。その後も病気が猛威を奮い、300名以上もの犠牲が出ました。

 

このことをきっかけに、松本十郎は判官を辞職しました。彼は二度と役人の仕事就くことはなく、1人の農民として静かに暮らしていきました。それに対して、黒田はその後も開拓使の重鎮として、北海道の開拓を進行していきました。

 

国の政策が人々の暮らしを一変させる、そんな恐ろしい現実を見せつけた樺太アイヌ強制移住。

 

それからわずか100数十年しか経過していません。

 

 

 

出典/参考文献

幕末維新 えぞ地にかけた男たちの夢 北国諒星 北海道出版企画センター

インターネット資料