マンオブザ北海道・内田正練 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

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2016年8月20日の放送テーマは、マンオブザ北海道・内田正練でした。

 

 

 

 

 

                     

かつて札幌で泳ぎを研究しオリンピックに出場、若くして戦争に赴いたアスリートがいました。彼の名は、内田正練(うちだまさよし)。彼は近代的な泳法を探り、北海道に新しい水泳を根付かせた人物です。

 

正練は1898年・明治31年に、浜松で生まれました。生家は浜松の名家。父は実業家で、母は女医として産科婦人科を開いていました。また、兄・千尋も水府流の師範として活動していました。

 

その影響で、正練も中学に入学した後、水泳に親しみ浜名湾游泳協会で技を磨いていきます。彼の泳ぎ方は、当時誰もが行っていた日本泳法。当時彼は最強の泳者といわれ、水泳大会で中長距離の選手として活躍していきました。

 

1916年・大正5年、正練は同郷の先輩に当たる北大教授の勧めで北大予科に入学します。有名な河童が北大に入学した、そう北大水泳部15周年記念誌に書かれるほど話題になったといいます。

 

北海道に来ても、正練は水泳の練習を欠かしません。豊平川や中島公園の池で、泳ぎ続けます。

 

その様子が、北大水泳部誌に記録されています。「その早いこと豪快な水しぶきをあげて向こう岸まで泳ぎきった。見ていた豊平川の河童連は、一様にド肝を抜かされて唖然とした」とあります。

 

練習に励んだ正練は、アジア大会の前身である第4回極東大会に個人で参加しました。結果は、3種目全てにおいて1位。もはやアジアで、彼に対抗できる選手はひとりもいませんでした。

 

1920年・大正9年、正練は横浜で行われたオリンピック国内予選で優勝。日本最初のオリンピック水泳競技代表選手に選ばれ、ベルギー・アントワープオリンピックに出場することになりました。

 

種目は100m自由形と400m自由形。彼の活躍を多くの人々が期待しますが、結果は惨敗でした。予選で敗退し、優勝者に1分以上の大差をつけられます。

 

それもそのはず、正練が行っていたのは日本泳法。この泳ぎ方は、小抜き手と呼ばれる水面に顔をつけない方法や、横泳ぎなどが主流でした。それに対して海外勢はクロールを駆使します。

 

彼はレースが行われる静水のプールでは、クロールが有利で日本泳法では勝てないと痛感しました。またプールの水温が低いことにも驚いています。

 

正練はオリンピックの経験から、考えを全く変えていきました。水泳で世界と戦うには、クロー ルを会得する事が必須であると認識します。彼はアンントワープにおいて、近代クロールを会得して帰国しました。

 

彼は帰国後、早くプールを作り実践的なクロールを練習することを提唱します。しかし、当時は日本泳法の重鎮たちが水泳界を牛耳っていました。重鎮たちは日本泳法を極めれば、クロールには負けないと強弁しました。

 

そんなはずはない。そう考える正練の戦いが始まっていきます。

 

正練は、水泳界首脳を一掃するか、別の組織をつくるべきという意見を持つに至ります。そして、日本水泳界の上層部のクロール不要論を尻目に、自ら先頭に立って各地で講習会を開催してクロールを広めていきました。

 

札幌では、現在の札幌一中の生徒を集め、中島公園の池で、クロールを披露したと伝わります。

 

1921年・大正10年には北大水泳部を立ち上げ、第1回全道中等学校水泳大会を開催して、北海道の水泳を盛んにしています。正練はあらゆるところでクロールの講習を行い、着実に成果を残し水泳ニッポンの近代化の礎を築いていきました。

 

北大を卒業後は、北海道拓殖銀行に就職。1925年・大正14年にはクロールを教えた函館中学が全国優勝を飾っています。

 

銀行では、返済が滞った農家の土地査定を担当しました。しかし、その仕事は彼の性分には向いていませんでした。まるで弱い者いじめのようだと感じて退職しました。

 

その後、彼は元来のチャレンジ精神を発揮して転身。昭和7年に、家族を連れてアルゼンチン・ブエノスアイレスの郊外に移住して、苦労をしながらも大規模農園を経営していきます。

 

しかし、正練の母の死のために帰国。その年に太平洋戦争が始まっています。この戦争が彼の運命を左右しました。同郷の鈴木陸軍大佐の呼びかけに応じて、ビルマ独立義勇軍に入って活動していきます。

 

昭和16年2月、ビルマはイギリスの支配下にありました。当時、日本は連合軍がビルマを経由して中国に物資を支援することに頭を悩ませていました。日本はビルマを独立させ、物資運搬ルートを遮断しようとし南機関という工作機関を発足させます。

 

南機関を率いたのが鈴木でした。正練は南機関の中枢メンバーと交流し、物資調達の役割を担っています。

 

そんな中でも渡河作戦中に、仲間がみている前で鮮やかな泳法で、たちまち対岸まで泳ぎ渡ったと、水泳選手の面影を伝えるエピソードも残しています。

 

南機関は、ビルマ独立義勇軍と一体となって首都ラングーンに進軍。首都は陥落し、彼らは熱狂的な歓迎を受けました。

 

しかし、すぐビルマは独立にはならない状況となりました。そんな中、正練はビルマを離れニューギニアに向かいます。

 

ニューギニアは激戦地でした。重なる転進と敗走、栄養失調の中で、皆から慕われた正練は食糧を勧められても将来ある若い人にあげてくれと固辞したと伝わります。

 

彼は、ニューギニア島サルミの名もない山中で倒れました。最後は餓死だったと伝わります。享年47歳。水泳で鍛えた身体は、見るに忍びない有様でした。

 

オリンピックでの苦い経験から、泳法の革命を日本にもたらして近代水泳の基礎を築いた内田正練。現在では知られることが少ない人物かも知れません。それでも彼が日本の水泳の先駆者であることは疑いようもありません。

 

 

 

出典/参考文献

北海道新聞

内田正練とその時代 北海道大学理学部PDF

インターネット資料