札幌・行啓通 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

hokkaido history walker

FMアップル「北海道歴史探訪」
毎週金曜日20:00〜21:00
FM76.5MHZ YouTubeでも放送中
北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

 

 

 

FMアップル「北海道歴史探訪」

毎週土曜日11:00~12:00

FM76.5MHZ インターネットでも放送中

 

 

 

 

 

2016年8月13日の放送テーマは、札幌・行啓通でした。

 

 

 

 

 

 

                     

札幌の中央区南14条界隈。ここには、古くから行啓通と呼ばれてきた通りがあります。この名の由来は、皇族が通られたことに始まりました。

 

ところで行幸という言葉は、天皇陛下唯一人だけの為の用語として使われてきました。行啓という言葉も、わずか数名の皇族のための言葉として、使われてきたという歴史があります。

 

そのわずかな人々というのは、天皇の祖母・天皇の母・天皇の妻・皇太子すなわち天皇の後継者・皇太子の妻・天皇の孫といった方々。それらの方々が何処かに訪れる際、行啓という言葉が使用されてきました。

 

行啓通は、正式には南14条中央線といいました。本来は地下鉄・幌平橋駅の手前から、西20丁目までの通りを指します。

 

しかし地元では、南14条西6丁目から西11丁目の石山通まで約600mを行啓通と呼んできました。

 

ことの発端は、天皇の北海道行幸でした。大正天皇の父・明治天皇が1881年・明治14年に北海道へ行幸されています。このとき天皇は、札幌農園をご覧になり、真駒内では牧畜耕作をご覧になりました。

 

そのあと明治天皇は、山鼻村に入られ山鼻小学校でご休憩。南14条の通りで木をご覧になり、その名前を尋ねられています。その樹木は槲(かしわ)。その木は暫くの間、公園内にお声がかりの槲といわれ残っていきました。

 

続いて1911年・明治44年に皇太子・嘉仁親王のちの大正天皇が、北海道を行啓されることになりました。その際、南14条の通りを歩かれることになります。

 

当時、この通りは道幅が狭く、きちんとは整備されていませんでした。家も通り沿いに数件が立ち並ぶ程度。また、周囲も果樹園や畑、雑草が生い茂っていました。昼間でも通行人はまれであったとも伝わります。

 

札幌市では通りの改修を行っていきます。まず動いたのは、屯田兵村の地主たちでした。彼らは道路沿いの土地を寄付していきます。

 

明治44年、嘉仁親王は中島遊園地から南14条通りを西に進まれました。そして、父・明治天皇と同じように屯田兵の仕事の視察を行っています。実は皇太子のお目当ては「お声がかりの槲」であったともいわれます。

 

これ以降、通りは行啓通と呼ばれるようになりました。一躍日本中に知られるようになった行啓通。この機とした発展が期待されます。

 

しかし、通りが本格的に発展するには、さらに数年の月日が必要でした。

 

大正7・8年になって、行啓通は徐々に人々の幹線として利用されるようになっていきました。その結果、沿線を中心に人家も増え始めます。また、東屯田通・西屯田通と中島遊園地・ススキノを結ぶ道路という条件から商店も現れ始めました。

 

1922年・大正11年、大正天皇に続いて、皇太子・のちの昭和天皇の行啓が行われました。これにより、行啓通は皇族ゆかりの通りというイメージが決定付けられました。

 

さらに、大正12年にも通りにとって大きな出来事が起きました。電車・山鼻線が行啓道路まで開通。行啓通が終点になったため、東屯田通と行啓道路の交差点を中心に急速に商店が増えていきます。

 

それらの動きは、商店街としての形成を進行させます。大正14年、山鼻開村50年祝賀会が催され、祝賀パレードが行われました。この頃から商店街としての形が整い、多くの人々を吸引しています。

 

大正15年7月、南14条郵便局が開局。昭和元年の街路照明会の発足により、商店街としての機能がさらに充実します。

 

昭和2年10月、行啓通初の商店街組織として「行啓通共和会」が創立。昭和3年には横断街路灯が設置され、明るい街並みを実現しています。

 

また、行啓通は先進的な企画にも取り組みました。昭和10年、現在の北海道神宮である札幌神社の祭典で、札幌市で初めての子供神輿を企画しました。このとき、100名以上の子どもたちが参加しています。

 

6月13日~15日の3日間にわたり、行啓通を中心に南11条から南16条を渡御し、行啓通の名を高めていました。この企画は札幌名物となり、戦争によって中断される昭和15年まで続けられました。

 

やがて戦争の時代に突入し、全ての産業が停滞しました。多くの商店街と同じように、行啓通もその波にのまれていきます。しかし戦後、行啓通は札幌市で商店街団体復活の第1号の商工会が発足。その先進性気質を証明しました。

 

その後も周辺の人々を中心にして、通りは発展をとげていきます。地下鉄幌平橋も近くにでき、多くの乗降客を集め札幌市近隣のベッドタウンとなっていきました。

 

現在でも下町的な雰囲気の商店街が健在ですが、近年のマンション建築ラッシュで、都会的な雰囲気も漂うようになり、逆に通りの商店街は衰退しているとも伝えられ、人々の心配も集まっています。

 

いずれにしても通りの発展は、皇族の訪れに端を発しています。そのような通りは札幌でも稀ではないでしょうか。そんな思いを持って訪れてみたいものです。

 

 

 

 

出展/参考文献

札幌市中央区HP歴史の散歩道 地名・通り編

さっぽろわくわく商店街HP

インターネット資料