高須四兄弟展 | 土方歳三資料館日記 (Hijikata Toshizo Museum Blog)

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土方歳三の生家跡に設けられた資料館にて運営に携わる子孫の綴る日記。

先日、新宿歴史博物館の
「高須四兄弟展」

を見に行きました。

高須四兄弟展


高須四兄弟とは、
尾張徳川家の分家である高須松平家に生まれた、

二男/徳川慶勝(よしかつ)
五男/一橋茂栄(もちはる)
七男/松平容保(かたもり)
八男/松平定敬(さだあき)

の四人のことを指します。
(皆さんそれぞれ沢山名前を変えているのですが、
ここでは代表的な名のみ掲載しました)


四人とも母は違えど、
皆、高須松平家の江戸上屋敷(現在の新宿区荒木町あたり)で生まれました。

同じ屋敷で生まれた四人が、それぞれ幕末という時代の流れに翻弄されて、それぞれ全く違った人生を送ったことを紹介したのがこの展示。


二男・慶勝は高須松平家の本家である尾張徳川家を継ぎ、十四代当主となりました。
(後に再び十七代当主)
幕末・維新期を通して徳川一門の重鎮として公武双方から尊ばれた人物です。


五男・茂徳は高須松平家十一代当主となったあと、兄・慶勝のあとを継ぎ尾張徳川家の十五代当主となり、将軍家茂の側近的な役割を果たし、若き将軍より信頼される存在でした。のちに慶喜が将軍となると一橋家十代当主となり、実に高須松平家・尾張徳川家・一橋家と三家の当主を務めた人物です。


七男・容保は、会津松平家の養子となり嘉永5年に九代当主となります。
会津松平家は家祖・保科正之から代々将軍家を支えることを重んじた家柄でした。
文久2年には京都守護職を拝命、孝明天皇から実大な信頼を得るものの
幕府瓦解とともに朝敵の汚名を着せられます。
会津戦争の鶴ヶ城篭城戦など、説明はいりませんよね。

ちなみに歳三さんと同じ天保六年生まれでした。


八男・定敬は14歳の時に桑名松平家十三代当主となりました。のち、元治元年京都所司代に任命され、兄・容保と共に幕府と朝廷のパイプ役として奔走しました。


一橋慶喜、松平容保(会津)、松平定敬(桑名)で京都警備にあたった
「一会桑(いっかいそう)体制」の一橋慶喜は、ほか二人の従兄弟にあたります。


新選組の歴史を追っていくと、
登場するのは容保と定敬が多いのですが、
血縁関係でみてみると、お兄さんや従兄弟を含め
こんな間柄だったんだ~キラキラと新鮮に感じました。


同じ家で育った四人が幕末維新を乗り越え、
明治11年に銀座で記念写真を写すんですよね…。
その時の集合写真が展示のメインの写真です。

画像
(画像は新宿歴史博物館さま展示公式HPより)

四人のお顔には、それぞれが歩んできた人生がにじみ出ているようで、
各人各様の個性が出ています。


展示を拝見してからその写真パネルを眺めると、
何とも言えず感慨深いものがあり、
「この写真撮影のとき、四人で何を話していたのかな…」
と想像してしまいました。

また、この新宿歴史博物館は高須松平家の江戸上屋敷があった目と鼻の先。
津の守坂(つのかみさか。高須摂津の守の御屋敷があったことからそう呼ばれたそうです)を通る帰り道、当時の御屋敷の様子を想像しながら、容保公はここで生まれたのだと思うと、また一歩容保公に近づいた気がしました。

津の守坂1

津の守坂2

生まれた場所、京都での居場所(黒谷や御所近辺など)、鶴ヶ城と、これまで私は松平容保公ゆかりの場所を随分訪ねたものだなああせると思います。

そして閑静な小径の歴史博物館界隈から、
帰りに四ツ谷三丁目駅を目指して歩いて甲州街道に出たら、
目の前にどーんとパンチ!すごい交通量の道路と賑やかな大都会の看板が…目
現実に引き戻された気分でした。


ゆかりの地(高須松平家あと)を訪ねるおまけ付き「高須四兄弟展」。
幕末に興味のある方には、絶対おすすめの展示です。

図録も秀逸ですよ^^

図録


☆おまけ☆
新宿歴史博物館の常設展示コーナーの甲州道中(ここのみ撮影可能カメラです)。
手前が内藤新宿。

内藤新宿

四ツ谷の大木戸~音譜
四ツ谷大木戸

オリジナル手ぬぐいがもらえるスタンプラリーも開催中宝石赤

スタンプラリー

なんと台紙の裏は「高須四兄弟すごろく」アップ
近藤さんらしき人も登場してる!!
すごろく

企画された新宿歴史博物館の学芸員さんのお茶目ゴコロベルに脱帽キラキラ星キラキラ星キラキラ

素敵な展示をありがとうございました虹
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