和して同ぜず -8ページ目

和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

自己は他者の理解によりはじめてアイデンティティ(意味)を獲得する。
逆に他者もそれ以外の他者との関係によりアイデンティティを獲得する。

自他の差異は、シニフィアン・シニフィエ体系の分節化により、あらわれるものであることを前提とすると、自他は相互補完的(或は相互依存的)に存在する。
そして、相互補完的であることを認め合うことが、自己のアイデンティティを確証することにつながる。

自己がどのようなフェティッシュな基盤に存在しているか、つまりどんな社会的な分節化に基づいているかを認識することは原子論的主観が行うことではなく、すでに共同主観がはたらいている。
つまり、単なる自己観察ではないということ。

このように自分を共同主観から布置化できたときにはじめて、人は自己のアイデンティティを獲得できる。
今求められているのは、旧来の自己だけ他者だけに閉じこもる思考ではなく、システム論的に全体構造を一望できる共同主観の地平に自他を構造的に布置、そのうえでアイデンティティを確立する手法だ。

疎外の結果をしっかり掴み経済学批判 疎外が生起してくる内的-心理的な過程を追跡

ハインリッヒ・リッケルトの科学認識論

普遍的に妥当する関係概念としての法則を追求するような認識方向

普遍的な(歴史的な)意義を持つ個性的な事物概念としての個体を把握しようとする認識方向 

 

個体の把握において予測不可能性、計測不可能性は社会科学、自然科学に寄らない 

人間の意志の自由(非合理)

人間行動における目的-手段の連関(テレオロギー)と原因-結果の連関(相互に本質的なかかわりあいを持つレールみたいなもの(平行線)

目的手段客観的文脈において一つの原因結果 「理解的方法」動機の意味理解/追体験(自然には意味なし) 

 

寺院は建築自体として孤独を暗示

観念の具象化 観念自体に及ぶことはない

庭園、林泉は自然の模倣→創造

林泉、茶室 善的な仮説の上に建設された空中楼閣

庭や建築に「永遠なるもの」を作ることはできない相談

無きに如かざる精神 中途半端を排撃

無きに如かざるの冷酷な批判精神

無きに如かざるの芸術

 

叱る母もいない、怒る女房もいないけれど家へ帰ると叱られてしまう

悔いや悲しさ

孤独で誰にも気がねのいらない生活の中でも決して自由ではない 

覆面は加害者の心理による。
仮面は被害者の心理による。

現代における比較的街中で装着しやすいマスクの性質はどうか。
装着を見咎められることのない季節において、その存在が希薄になる一方で象徴的意味は顕在化する。
一方的に「見られる」のではなく、一方的に「見る」存在となり、
自らの表情を覆い隠すことで得られるなんとも言えぬ優越感を手に得る。
(例えば、人前ではできないような表情をしてみたい衝動に駆られる。)
さすれば、マスクは覆面であり、加害者の心理に属するのであろう。


顔の通路の一部制限による、道幅の増設。
はて、顔という通路は狭くなったのか広くなったのか。
答えは残念ながらどちらともいえない。
一方通行の道は無限に増殖する一方で相互通行の道は無限に遮断されるからだ。

ただし、現代に関しては、とりわけ一方通行の無限増殖が日の目を見る。
これはネットの匿名性が現実社会にも適用されていることを意味する。
「見る」側に立つ人間のみの社会とはすなわち対象が存在しない社会。
まさに唯脳論者あるいは唯識論者が語る世界。

現実社会と「感じている」社会が仮想現実に飲み込まれる日はそう遠くはないかもしれない。
さらに、その日の到来を知るものは決して現れない。

誰も「その」人が生きている「その」社会を現実社会と認識する方法を持ってはいないのである。