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和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

読み終わった後、いてもたってもいられなくなり、自転車をこいだ。
腹の下のほうでぽっかり穴があいたみたいだ。
冷たい夜風が身体を具現化する。
街が鳴いている。
私の身体はそこに「あった」のだ。
空は澄んでいる。

山椒魚」を読んだ太宰治もいてもたってもいられなくなったというが、これは井伏鱒二の作家活動を通してのテーマである「悲しみ」に感化されたからだという。山椒魚は悲しんだ」は有名な書き出しである。


は僕は何に感化されたのだろう。
いつはおそらく「愛」だ。
そぅ、こんなイエス・キリストのような愛があってたまるものか、と思っていることがなによりの証拠だ。

乗的愛、普遍の愛、隣人愛。前はどうでもいい。
こんな観念がもし本当に在るのなら、屈服しざるおえまい。

もそも絶対なものを他と比較することがナンセンスだ。比較とは共通項があって初めて成り立つのだ。

或は、この「愛」を主体と距離をおいた客体と見なすことが間違っているのかもしれない。
化論について是非を議論してるようなものだ。
化論とは一つの枠組みとして機能してるのだから。
沢賢治がこの「愛」を客体として見ていたならこんなものかけるはずはない。


震災時仙台にいた僕にとって、原発に話題を持ってかれた地震被災者の気持ちはよく理解できる。
僕たちはもうトップニュースじゃないんだと。
仙台市役所に流れる、
枝野官房長官の原発に関する記者会見が溶けた水銀みたいにしつこく残る。
あのときの違和感が忘れられない。
地震発生1、2日後のことだった。
仙台から津波被害があった多賀城方面へ行った。
興味本位といえばそれまで。
ただ、自分のこの目に刻んでおきたかったのだ。
体が頭に先行した。
大丈夫。
階段でこけた、杖をもった老人に「すぐに」寄り添うことはできないけれど。
まだ人間として生きてはいる。
自転車で1時間
国道を走った。
突然だった。
景色が一変した。
海岸線のほうでは黒い煙が上がり、空を覆った。
レスキュー隊が僕らがいるところから担架を持ち、煙へ向かった。



「何かしなくちゃいけないと思うのは人間だけ。

他の生きものたちはみんなそこにいるだけで満足しています。

いのちはただ生きているだけが基本。

ただ生きているだけでは満足できなくなった人間は、

いのちプラスアルファのおかげで不幸になりましたね。」

谷川俊太郎

 

芸術的思考とは、常に自分を突き放して、対象に対して思考することだ。

今回の震災(東日本大震災)に関しては日本経済、復興のための都市設計(効率優先)、トランス・サイエンス(科学と社会の共通部分の問題)、「がんばろう、東北」の標語。

学問に関しては哲学、研究医学、宇宙物理学、現代数学、経済学など。

 

建築的思考とは、常に自分に引き付け、対象に対して思考することである。 

震災に関しては、個人の資産、復旧のための都市設計(人間優先)、子供を持つ母親の心情、地区レベルで異なる住民の心情など。

学問に関しては、文学、臨床医学、古典力学などが挙げられる。

 

二つの思考のバランスによって自ずと、趣向、もっと言えば就く職業さえ決定してしまう。

私は芸術思考に偏っているのは間違いない。

しかし、こいつが厄介なのだ。

諸悪の根源は身体が常に建築的であることだ。

いや、むしろ建築そのものと言ってもいいくらいだ。

身体を芸術思考のほうへ傾けることは、身体の放棄、即ち死を意味する。

 

死後の世界を信仰するのであれば意味はあるが、死を無への帰還と捉えるならば救いようがない。

この極限状態を乗り越える方法の一つとして宗教は有効のようだ。(残念ながら哲学に救いはない。)

神に対する信仰により無条件にあらゆる形而上学的な問題がクリアされるからである。

建築的思考には「生きる意味」は存在しないが、芸術的思考にとっては「生きる意味」は大問題である。

 

宗教だけが建築的思考と芸術的思考を結ぶツールならば、発狂するか、神に祈るか。

生きるとはこの二択に換言されうるかもしれない。

  

ただし、宗教の代替案を考えるならまず候補として挙がるのは言語に違いない。