「思想地図βvol.2」を読んでいて改めて思うことは、全て対象に対する後付けの理屈であるということ。
いたるところで行われるこの作業(犯罪者の動機付けや書籍の批評など)は対象が思想に先立つことを意味する。
ただし、世の中には例外というものがつきものである。
小説、音楽、絵画、彫刻といったいわゆる芸術作品は頭の中のイメージの抽出作業であるという意味でモノとしての対象は存在しない。
芸術作品の普遍的価値はどうやらこのようなところから生まれるものらしい。
また、対象が思想に先立つ場合、必ずと言っていいほど「私」の論理体系では解釈に苦しむ箇所が存在する。
他人の思考を追体験したり筆者の執筆をなぞることは可能だが空想の域を超えることはないからである。
しかし、「私」の論理体系でものごとを捉えないことには、ものごとに対して説得できる(納得など到底無理)理由を見出せないこともまた事実である。
さて、それではものごとを理解するということは恣意的なものなのであろうか。
なぜ<あの檸檬>でなければならなかったのだろうか。それは病気を患い、借金まみれの主人公が確固たる<具体>を欲していたからだ。じっくりと観察し、手触りを確かめ、臭いを嗅ぐことで執拗にその存在を確かめていく。果物屋の描写は存在する<モノ>に焦点をあわせる機能を果たしたと言える。丸善で本に実際に触れ、感じ、檸檬が完全なる<一個>の<具体>であることを確信する。
公房先生が動いているのを拝見することができ光栄です。
年末の番組を見るならこれを見るか、映画を借りてこようと思う。
年末の番組を見るならこれを見るか、映画を借りてこようと思う。