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和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

リベラルを称する人々が、相対主義や多元主義を標榜し、「一人ひとりを大切にしよう」「それぞれの民族を大切にしよう」と声高に叫ぶが、自らの立場は高見の見物よろしく価値中立を決め込んでいる場合がある。

どの立場にも属さない立場ほど無責任な立場はない。

公正や正義という観念がときにどちらの立場にも属さない抽象的な論理語として響くならば、それにはさしたる意味はないと言わざるを得ない。

()の方からものを言うのはたやすいが人間はつねにすでにどこかの内に存在している。つまり、内からものをいうしか方法はない。このことをまずははっきり認識しておかなければならない。

問題は内から、外のものとの間に存在する対立を調停する原理をどうやって語る?ということ。

つまり内にいながらにしていかにして外に立つか?ということ。

現在その解決方法として主に採用されているのは「自己決定権」という概念。

誰しも自分の行動は自分で決める権利がある、という論理。

これは調停原理としてある程度の効果は期待できる、が、あくまで他者の《承認》の論理ではなく、他者との《無縁》を決め込む論理。

他人と無縁を決め込み、無知であることを理由に口を閉ざす僕は人間としての価値があるのかな?

2012/2/19

 

 ゲーテがファウストを書き終えてから170年余り経過した現在、我々人類は自然を完全に捉えることができているだろうか。
答えはノーに決まっている。
ファウストは作中で髑髏に対して、「貴様の脳髄もかつておれのと同じように思い惑いながら、軽やかな日を求めてかえって重苦しい薄暗がりの中で、真理を追究しつつ惨めにさまよった」。のだと語りかけている。
また、書物に示された事実は著者自身の精神に、「時代が影を映している」に過ぎず、己自身の「魂の中から湧き出すもの」でなければ「爽やかな生気」は得ることはできないとある。
ゲーテの時代から我々の時代にいたるまで、人間と科学の関係は全く変わっていないようである。
また、変わることもないであろう。


 認識できない事への絶望と認識しているだけで何になるのかと言う絶望による板挟みの苦しい状態から抜け出すためファウストは自我の無限の行為者となる事を望んだ。
そして、自身の中に二つの魂が共存していると自己の心境を表現している。
一つは理性と認識の世界である現世に執着する魂、
一つは無制約の行為の世界へ憧れる魂である。
ファウストを読む以前、正確にいえば現在において私は前者が存在しないとは言わないにしても、後者の魅力が圧倒的であるため、葛藤には陥らないと考えている。
なぜか。
今日の個人主義において、人生の財産として最後に残るのは自分という人間だけだと考えるからである。
なるほど確かに、人生は選択の連続であると考えるとすると、選択肢は究極的には前述の前者か後者かのどちらかであって、選択は自身の自由である。
しかし私は迷わず自分を磨き、高みへと引き上げてくれる後者を選ぶに違いないし、そうありたいと常に思っている。



 それでは、無限の拡張を悪魔の手を借りて達成し、認識できない事への絶望と認識しているだけで何になるのかと言う絶望による板挟みの苦しい状態から抜け出したファウストはどこへ向かったのであろうか。
その手掛かりは、ファウストがメフィストフェーレスに賭けに負けたことを示し、魂を売り渡す際に発する言葉、「留まれ、おまえはいかにも美しい」にあるのではないだろうか。
ちなみに「おまえ」とは時間であると思われる。
原文を引用しておくと分かりやすいであろう。
Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! "
直訳すると、「その瞬間が来たとき、私はその瞬間に対して叫ぶであろう、とどまれ、お前は最高に美しい」。
つまりこの言葉を発するときは、人生における最高の瞬間である。
その瞬間に対してそのままであれ、と願うのである。



 ではどういうときが人生の最高の瞬間なのか。
この問いは「ゲーテにとって」人生における最高の瞬間がどういったときなのか、と言い換えることができよう。
ゲーテは、科学、法学、文学など多方面にわたり、まるで作中のファウストのごとく活動を行なってきた。
その中でゲーテ自身も「この瞬間がいつまでもそうであってくれ」と願うことがあったのであろうが、その願いはかなうことは一度もなくその続きを生き続けいたのではないだろうか。
一般的に続編が前作を超えることが稀であるように、そういった瞬間を超えるたびに、次の瞬間を迎えるのは困難になる。
それでもゲーテは真の最高の瞬間を求め続け生きてきた。最高の瞬間とその続きによる絶望を繰り返す中でゲーテが見出した唯一の答えは「死」ではないか。
つまり、死ぬことこそ最高の瞬間を止める唯一の方法なのだ、とゲーテは『ファウスト』のなかで主張したかったのではないだろうか。


私には世界の中で知らないことがまだまだたくさんある。最高の瞬間というものを自覚したこともない。ならば、まず先人たちのことばである書物を用いて教養を身につけなければならない。教養とは体系を持つ知識であり雑学とは性質を異にする。この行為のなかで、自分も最高の瞬間を止める手段について考察できるようになれば、これ以上の喜びはないであろう。

2012/2/16

一昨年の八月某日。
鳩山総理は本当に国民を裏切ったのか?
自民党が野党に転落し、歴史的政治改革などと騒いでいたのはいつの日だったか…
現在目下首相支持率下降中
注目は一日中報道といっても過言ではない沖縄米軍基地移設問題
首相が沖縄訪問をしたのも日が近い、今日この頃
首相は海兵隊の抑止力についての知識が浅はかだったいい、最低県外移設をあっさり断念。

三市長は首相との話し合い拒否
徳之島では滑稽とも言えるほど繰り返し報道される反対集会

少々解釈が飛躍するが、政治的性質を失ったプロパガンダのように思う。
しかし、これは今現在の移設問題に限ったことではない。
民主党が与党になったときの報道がいい例である。
テレビでの出来事は一種の劇であるということは今日よく言われていることだ。
自分自身は日常を淡々と生きている。
テレビの中では処理できないほどのスピードで情報が流れつねに非日常の連続である。
このせいで日常と非日常の距離がよりいっそう広まったと言われている。

この議論はここまでにして本題に戻ろう。
確かに政権公約を変更したこと、アメリカはそんなに慌ててないのに自分で自分の首を絞める発言をしたこと(期限を設けたこと)には鳩山総理に負い目があるだろう。
そもそも政権公約は歴史的観点からみてみると、原点は政党区別にあったはずだ。
他とは違うことをします、と強調する中で誇張に到ってしまったんだと思われる。

人のミスを批判することは簡単だ。
それゆえ、ボロを出せば、政界(に限ることでない)ではすぐに、あいつはあんなことしてるぞ、だからダメだ。と批判を浴びる。
また、ボロを出さない人間は存在しないことも自明だろう。(ある分野において完全な人間はいるかもしれないが)
しかし、否定するだけでは何の解決にもならず、結局自分が非難している人物に依存している。
ここに、人が人を支配することの限界が見えるように思えるが、ここでは深く言及はしない。

いま、人の揚げ足をとっても事態は前進しないと言った。
だから、どうにかしてポジティブなほうにベクトルを持って行かなければ。

まずは歴史的観点からいって見よう。(しかし、私も沖縄米軍基地に関する歴史に関して浅はかな知識しか持ち合わせていないことはご了承願いたい)
戦後まで歴史を遡ると、沖縄県民の意見を聞きましょう。と言った手段で米軍基地関連の問題を解決しようと試みたのは今回の鳩山由紀夫政権が初めてであるということが結果がどうであれ、大きな意味を持つことは明らかだろう。

続いて、社会的観点からみてみる。
なんといっても、表面上ではあるが、国民の関心が高まっているということ。
屁理屈や言い訳のように聞こえるかもしれんが、人が人を支配している以上しかたないことである。歴史も似たことを繰り返して来たのである。
話にならないから話をしないのでは前進しないのは当たり前だ。
その問題を乗り越えるしかない人間は乗り越えるしかない。
だから、この問題の解答用紙に解答作成中の過程を出来る限り客観的(完全には無理に決まっている)に見てみたい。と言ってみたかったわけだ。

何より母国日本の問題であり、他人事には今後行かなくなるに決まっている。
母国と言ってみたが日本人のアイデンティティは歴史的に島国であったため西洋に比べ相対的に劣る。しかし、現代は島国にもくそもない。情報は光の速さで地球を駆け巡る。日本人にも日本人たらしめる何かが必要な時代になりつつあるのかもしれん。
どうやってそれが形作られていくかはわからない。でも、いつかは全国民が獲得するんだろ。そしてまたこんな問題が出されたら別な答を出すんだろう。