唖の論理 | 和して同ぜず

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頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

リベラルを称する人々が、相対主義や多元主義を標榜し、「一人ひとりを大切にしよう」「それぞれの民族を大切にしよう」と声高に叫ぶが、自らの立場は高見の見物よろしく価値中立を決め込んでいる場合がある。

どの立場にも属さない立場ほど無責任な立場はない。

公正や正義という観念がときにどちらの立場にも属さない抽象的な論理語として響くならば、それにはさしたる意味はないと言わざるを得ない。

()の方からものを言うのはたやすいが人間はつねにすでにどこかの内に存在している。つまり、内からものをいうしか方法はない。このことをまずははっきり認識しておかなければならない。

問題は内から、外のものとの間に存在する対立を調停する原理をどうやって語る?ということ。

つまり内にいながらにしていかにして外に立つか?ということ。

現在その解決方法として主に採用されているのは「自己決定権」という概念。

誰しも自分の行動は自分で決める権利がある、という論理。

これは調停原理としてある程度の効果は期待できる、が、あくまで他者の《承認》の論理ではなく、他者との《無縁》を決め込む論理。

他人と無縁を決め込み、無知であることを理由に口を閉ざす僕は人間としての価値があるのかな?

2012/2/19