ファウストは作中で髑髏に対して、「貴様の脳髄もかつておれのと同じように思い惑いながら、軽やかな日を求めてかえって重苦しい薄暗がりの中で、真理を追究しつつ惨めにさまよった」。のだと語りかけている。
また、書物に示された事実は著者自身の精神に、「時代が影を映している」に過ぎず、己自身の「魂の中から湧き出すもの」でなければ「爽やかな生気」は得ることはできないとある。
ゲーテの時代から我々の時代にいたるまで、人間と科学の関係は全く変わっていないようである。
また、変わることもないであろう。
そして、自身の中に二つの魂が共存していると自己の心境を表現している。
一つは理性と認識の世界である現世に執着する魂、
一つは無制約の行為の世界へ憧れる魂である。
ファウストを読む以前、正確にいえば現在において私は前者が存在しないとは言わないにしても、後者の魅力が圧倒的であるため、葛藤には陥らないと考えている。
なぜか。
今日の個人主義において、人生の財産として最後に残るのは自分という人間だけだと考えるからである。
なるほど確かに、人生は選択の連続であると考えるとすると、選択肢は究極的には前述の前者か後者かのどちらかであって、選択は自身の自由である。
しかし私は迷わず自分を磨き、高みへと引き上げてくれる後者を選ぶに違いないし、そうありたいと常に思っている。
それでは、無限の拡張を悪魔の手を借りて達成し、認識できない事への絶望と認識しているだけで何になるのかと言う絶望による板挟みの苦しい状態から抜け出したファウストはどこへ向かったのであろうか。
その手掛かりは、ファウストがメフィストフェーレスに賭けに負けたことを示し、魂を売り渡す際に発する言葉、「留まれ、おまえはいかにも美しい」にあるのではないだろうか。
ちなみに「おまえ」とは時間であると思われる。
原文を引用しておくと分かりやすいであろう。
「Werde ich zum Augenblicke sagen: Verweile doch, du bist so schoen ! "」
直訳すると、「その瞬間が来たとき、私はその瞬間に対して叫ぶであろう、とどまれ、お前は最高に美しい」。
つまりこの言葉を発するときは、人生における最高の瞬間である。
その瞬間に対してそのままであれ、と願うのである。
ではどういうときが人生の最高の瞬間なのか。
この問いは「ゲーテにとって」人生における最高の瞬間がどういったときなのか、と言い換えることができよう。
ゲーテは、科学、法学、文学など多方面にわたり、まるで作中のファウストのごとく活動を行なってきた。
その中でゲーテ自身も「この瞬間がいつまでもそうであってくれ」と願うことがあったのであろうが、その願いはかなうことは一度もなくその続きを生き続けいたのではないだろうか。
一般的に続編が前作を超えることが稀であるように、そういった瞬間を超えるたびに、次の瞬間を迎えるのは困難になる。
それでもゲーテは真の最高の瞬間を求め続け生きてきた。最高の瞬間とその続きによる絶望を繰り返す中でゲーテが見出した唯一の答えは「死」ではないか。
つまり、死ぬことこそ最高の瞬間を止める唯一の方法なのだ、とゲーテは『ファウスト』のなかで主張したかったのではないだろうか。
2012/2/16