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和して同ぜず

頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

どうかKappaと発音してください。
「河童は我々人間のまじめに思うことをおかしがる、同時に我々人間おかしがることをまじめに思う」
「僕は笑うどころか、あわててある河童をつかまえようとしました。それは僕の油断を見すまし、その河童が僕の万年筆を盗んだことに気がついたからです。しかし皮膚のなめらかな河童は安易に我々にはつかまりません。」
出産
「お前はこの世に生まれてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」
  
「遺伝子義勇隊を募る!!
 健全なる男女の河童よ!!
 悪遺伝子を撲滅するために
 不健全なる男女の河童と結婚せよ!!」
芸術
「芸術は何ものの支配を受けない、芸術のための芸術である、従って芸術家たるものは何よりも先に善悪を絶した超人でなければならぬ」
「何しろ音楽というものはだけはどんなに風俗を壊乱する曲でも、耳のない河童にはわかりませんからね。」
「ロックは僕の影響を受けない。が、僕はいつのまにかロックの影響を受けてしまうのだ。」
家庭
「親子夫婦兄弟などというのはことごとく互いに苦しめ合うことを唯一の楽しみにして暮らしているのです。」
「ああいう家庭の様子を見ると、やはりうらやましさを感じるんだよ。」
「あすこにある卵焼きはなんと言っても、恋愛などよりも衛生的だからね」
恋愛
「やっと起き上がったのを見ると、失望というか、後悔というか、とにかくなんとも形容できない、気の毒な顔をしていました。」
「しかしわたしもどかすると、あの恐ろしい雌の河童に追いかけられたい気も起こるのですよ。」
政治
「その職工をみんな殺してしまって、肉を食料に使うのです」
「職工屠殺法があるのですから」
「あの演説はもちろん、ことごとくうそです。が、うそということはだれでも知っていますから、畢竟正直と変わらないでしょう。」
「泣き笑いに近い表情をしました。僕はそういう顔を見ると、いつかこのガラス会社の社長を憎んでいたことに気がつきました。」
「僕はこの時のゲエルの微笑を—軽蔑することもできなければ、憎悪することもできないゲエルの微笑をいまだにありありと覚えています。」
反感
「いえ、あまり憂鬱ですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」
哲学
「阿呆の言葉」
刑法
「刑法第千二百八十五条『いかなる犯罪を行ないたりといえども、該犯罪を行わしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を処罰することを得ず』」
「この国の死刑は日本よりも文明的にできているでしょうね?」
「ただその犯罪の名を言って聞かせるだけです。」
宗教
「我々河童はなんと言っても河童の生活を全うするには、とにかく河童以外の何ものかを信ずることですね。」
「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(もっともあなたがたはそのほかに遺伝をお数えなさるでしょう)」
「何か砂漠の空に見える蜃気楼の不気味さを漂わせたまま。」
「椰子の花や竹の中に
 仏陀はとうに眠っている
   
 道ばたに枯れた無花果の花と一しょに
 キリストはもう死んだらしい

 しかし我々は休まなければならぬ
 たとい芝居の背景の前にも。」
(その背景の裏を見れば、継ぎはぎだらけのカンヴァスばかりだ?)

「河童 他二編」芥川竜之介 岩波書店

酔った状態で作った子供は「酩酊児」と呼ばれ、15%の確率で奇形や脳に障害があると、アメリカの医師によって報告されている」「MEITEIZI/酩酊児/男子が酩酊状態で性交をし、そのときに受精して妊娠した児をいう。精神薄弱・痴呆・性格異常等先天性異常時を生む確率が多い。精神医科用語」(「酔いどれ天使」渡辺淳一)
この事象に対して我々は真偽を明らかにすることはできない。いや、フィクションであるかノンフィクションであるかの判断も怪しいところだ。というのは、妊婦の飲酒による奇形児や脳に障害のある児の出産の事例は数多く報告されているからである。

科学的であるとは確率論であり、大雑把に言ってしまえば多数決原理である(有力学説という言葉の存在がそれを示していると言える。)。科学者にとっての「可能性は極めて低い」は複雑な因子が絡み合う現実社会に投下された時点で意味を失う。
科学者は可能性を無限に分割できるのに対し、当事者(社会における大衆)は0か1しかない(ここでは病気が発症するか発症しないか)。この決定的なひずみは社会と科学の集合の共通部分で生まれる。(科学が科学で閉じていれば何の問題もない。)

この確率論的歪曲と同時に科学が社会に出会うことでもう一つ厄介な問題が生じる。それは「価値」の問題だ。「線引き」の問題と言い換えることも可能だ。つまり、リスクを恩恵と比べ、どの程度までテイクするか。
例えば今回の福島の原発における想定内とか想定外とかの問題がよく当てはまっているように思う。冷却システム、非常用電源うんぬんがいくつ必要か議論したところで核心(どこまでリスクテイクするか)を捉えなければ前進はしない。
「安全だと言ってくれ。そしたら安心するから。」とリスクを回避してきた国が「安全だから安心とは限らない」というリスクテイクをどのようにやりくりするかがわれわれが直面している問題なのかもしれない。
また、私自身が日本人であることを考えると上記の問題は、プロセスの遂行、一回性を理想とする主体客体の未分化な日本社会に対する、機械設計、再現性を理想とする主体客体が分化し主体が客体をコントロールする欧米社会の思考回路の洗脳ともとれなくもない。物心二元論が招いた現代の現状を考慮すると背筋が凍る思いがするのも事実である。

政治問題、歴史問題に関しては、「沈黙は発言だ」。


まず、価値判断が学問の中に含まれていることを前提とする。
これは立場を取るため(研究の対象とする事象を決めるため)です。


僕は社会の中にいるのだから、発言することは社会に働きかけているということになる。

現実に現在進行している問題に対して賛成も反対もしないことはありえない。
少なくとも民主主義社会では、沈黙することは、現在進行している問題の容認であります。





専門家でないからといって意見できないとするなら、問題を容認することになりますが、それも専門外の行動だからできません。
したがって沈黙は僕にはできない。
話すこともできないし、沈黙することもできない。




なんてこった。お手上げです。






だから、専門外のことで意見はありません、というのは嘘。
僕は虚構にすがりつき、判断停止に陥っていた。

判断停止は、政治社会問題においては、現状維持に傾く、つまり、保守主義が強くなるということ。


政治に無関心を決め込み、中立的でありたいと願った私は、保守への指示発言を常にしていた。


政治に失意を抱けは抱くほど、『現状維持に私は助力します』と僕は躊躇なく声高らかに叫んでいたのか…





さて、これからは能動的に発言しなければならなくなった。