物心二元論の行く末 | 和して同ぜず

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頭の中の整理、アウトプットの場として利用さしていただいています。書籍の解釈にはネタバレを含みます。

酔った状態で作った子供は「酩酊児」と呼ばれ、15%の確率で奇形や脳に障害があると、アメリカの医師によって報告されている」「MEITEIZI/酩酊児/男子が酩酊状態で性交をし、そのときに受精して妊娠した児をいう。精神薄弱・痴呆・性格異常等先天性異常時を生む確率が多い。精神医科用語」(「酔いどれ天使」渡辺淳一)
この事象に対して我々は真偽を明らかにすることはできない。いや、フィクションであるかノンフィクションであるかの判断も怪しいところだ。というのは、妊婦の飲酒による奇形児や脳に障害のある児の出産の事例は数多く報告されているからである。

科学的であるとは確率論であり、大雑把に言ってしまえば多数決原理である(有力学説という言葉の存在がそれを示していると言える。)。科学者にとっての「可能性は極めて低い」は複雑な因子が絡み合う現実社会に投下された時点で意味を失う。
科学者は可能性を無限に分割できるのに対し、当事者(社会における大衆)は0か1しかない(ここでは病気が発症するか発症しないか)。この決定的なひずみは社会と科学の集合の共通部分で生まれる。(科学が科学で閉じていれば何の問題もない。)

この確率論的歪曲と同時に科学が社会に出会うことでもう一つ厄介な問題が生じる。それは「価値」の問題だ。「線引き」の問題と言い換えることも可能だ。つまり、リスクを恩恵と比べ、どの程度までテイクするか。
例えば今回の福島の原発における想定内とか想定外とかの問題がよく当てはまっているように思う。冷却システム、非常用電源うんぬんがいくつ必要か議論したところで核心(どこまでリスクテイクするか)を捉えなければ前進はしない。
「安全だと言ってくれ。そしたら安心するから。」とリスクを回避してきた国が「安全だから安心とは限らない」というリスクテイクをどのようにやりくりするかがわれわれが直面している問題なのかもしれない。
また、私自身が日本人であることを考えると上記の問題は、プロセスの遂行、一回性を理想とする主体客体の未分化な日本社会に対する、機械設計、再現性を理想とする主体客体が分化し主体が客体をコントロールする欧米社会の思考回路の洗脳ともとれなくもない。物心二元論が招いた現代の現状を考慮すると背筋が凍る思いがするのも事実である。