「誇り」と「虚栄心」の違いとは何か | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

A.J.Wietz: Rosine a sa toilette (1847)  

ヴィーツ作「化粧するロジーヌ」

 

最近様々なウェブサイト上で「プライドが髙い」等と言った表現を何度も見て、余は個人的に著しい違和感を覚え、そして此の表現に対し疑問を感じている。

現代の若年層が「誇り」と「虚栄心」を混同している傾向が非常に強いのではないかと思われてならない。

そこで此度、余は此の主題に於いて両方の大きな違いについて書き記して行く事にしたのである。

人間誰しも多少なりとも他人から「愛されたい」「認められたい」とか「称賛されたい」「尊敬されたい」ないしは「注目されたい」等と云う欲求はある。

しかし此の人間のNegatives Charakter(負の性分)が度を過ぎてしまうと、真実を偽ったり、捻じ曲げてでも、自分を実際以上に見せたり、騙ったりする様な事態に陥ってしまうのである。

先ず「誇り」と「虚栄心」の語源についてであるが、国語辞典では「誇り」を「自ら名誉とする感情」、そして「虚栄心」を「上辺だけの見栄を張りたがる心」と説明している。

英和辞典では英語の”Pride”は、そして独和辞典ではドイツ語の”Stolz”は、それぞれ「誇り」、場合によっては「高慢」とも訳されている。 

Hieronymus Bosch: "SUPERBIA"(Hochmut) von "Sieben Todsünden"  ボス作「7つの大罪」より「高慢」

 

更にラテン語では「誇り」は”SUPERBIA”と言う。

一方ドイツ語の”Eitelkeit”とは「虚栄心」とも「空虚さ」とも訳されているし、英語の虚栄心=vanityの語源であるラテン語の”VANITAS”とは「空虚」「虚しさ」「虚無」等の意味があり、人間の「虚栄心」とは如何に無意味で無価値であるかを象徴しているのである。

 

次に「誇りのある人」「虚栄心だけの人」の定義として、両者の決定的な違いについて説明して行きたいと思う。

「誇りのある人」は「潔さ」と「廉恥」の心を共有しているのに対し、「虚栄心だけの人」潔さ」と「廉恥」の心が欠けているのである。

又、「誇りのある人」は「向上心」があり、「自己反省」の出来る人で、「虚栄心だけの人」は「向上心」が無く、「自己反省」も出来ない人なのである。

「虚栄心」だけで「誇り」の無い人のよくある傾向として以下の例が挙げられる。

・財力も社会的地位も無い男が分不相応な高級車に乗り回す。

・同様の女が分不相応な高級ブランド品ばかりで着飾る。

・大した知能も学歴も無い者が矢鱈「知ったかぶり」をしたり利口ぶる。

・凡庸な能力しかない者が、脚色、尾鰭を付けた自慢話(ホラ話)を得意げにする。

 等

「貴族」や「富裕層」に非ず、「天才」「秀才」に非ず、「偉人」「英雄」に非ず、「人傑」「エリート」にも非ず、「美男」「美女」に非ず、と言った有象無象の者共が、虚勢や見栄を張ったり、大言壮語をした処で何の功徳も利益も無いのではなかろうか。

寧ろ余は此の様な者共を半分滑稽、半分哀れに思えるのである。

何故なら心理学的に考察すると、凡下な俗物風情が虚勢や見栄を張ったり、大言壮語をする事自体、自らに実力の無い事、そして其の事にKomplex(劣等感)を抱いている事を示唆しているからなのである。

故に余は此の様な輩に対しては「本気で取り合わない」「決して認めない」「なるべく関わらない」、所謂「3ない対応」をする事にしている。

(相手にする事自体、心の無駄、時間の無駄である。)

余は思うに、自分が名門の血筋や富裕層の家に生まれているとか、才能があって高学歴で教養も高いとか、美しい容姿や健康や体力に恵まれている、ないしは立派な業績、名声、地位、特権、等と言った何かしら非凡、又は優秀な要素を持ち合わせていたら、そもそも劣等感も起きないし、虚勢や見栄を張ったり、大言壮語をする事すら必要無いのではなかろうか。

かのドイツの大天才にして大文豪のJ.W.v.Goethe先生

※>Begabter Man muß lieber bescheid und schweigsam sein. Doch seine Begabung wird selbst auffallen.<(能ある者は兎角(とかく)謙虚に黙って居よ。 其れでも其の才能は自(おの)ず()から目立つ。)と言われている位である。 

(※日本の諺「能ある鷹は爪を隠す」の同義語である。 

真逆の意味の諺に「能無しの口叩き」がある。)

 

滑稽で馬鹿げた譬え話になるのだが、つい此の間ある動機で小学校の時に親類の同級生から聞いた「ばばたんご」と言う方言を久し振りに思い出した。

此れは元々大阪の言葉で「肥溜め」ないしは「野壺」の意味があるらしい。

今でこそこれ等は殆ど見かけないのだが、もしある人が不注意で此の中に落ちたとする。

そして地元の農家の人に助け出された時に、どの様に弁明するかによって、其の人の人格、度量が分かると言うものである。

「ご迷惑をおかけして申し訳ありせん。 私の不注意で落ちてしまいました。 お恥ずかしい限りです。」等と言える人は誇り高き人である。

其れとは逆に「糞ったれ!こんな所に肥溜めなんぞ作った奴が悪いんだ!」等と言う人は虚栄心だけの人である。(※心理学的に診断すると、此の様に考える人は他罰的で身勝手な歪んだ人格であると言わざるを得ない。)

人を家に譬えると、優秀な能力と誇りを兼ね揃えている人は外観、内装共に優れた「豪邸」であり、無能で虚栄心だけある人は、見掛け倒しで中身の劣化した「あばら家」である。

其の他、金属に譬えると、優秀な能力と誇りを兼ね揃えている人は「純金」であり、無能で虚栄心だけある人はメッキをした「ちんけな金属」である。

前記の有象無象の者共がどんなに上辺だけ繕った処で、「貴族」や「富裕層」にも、「天才」「秀才」にも、「偉人」「英雄」にも、「人傑」「エリート」にも、「美男」「美女」にも決して成れないのである。

そう言う意味で誇り」とは、其の人の有する優れた才能能力から起因していると言っても過言ではない。

 

第2次世界大戦の末期、日本でもドイツでも民間で同じ様な以下の言葉を発する人々が増えて来た。

「人間が真実を受け入れる時、場合によっては勇気が必要である。」

>Wenn man die Wahrheit zu nehmen, gegebenenfalls den Mut braucht.<

開戦時から戦局優勢な頃までは、両国民は自国が敗戦する事等、努々(ゆめゆめ)思っていなかったのだから、まして「無条件降伏」と言う悲惨な真実を受け入れる事は、大変な勇気(又は覚悟)を必要としたのではなかろうか。

一番大切な事は「真実」を正しく受け入れる事なのである。

此の真実とは3通りあり、1つ目は「自分の真実」、2つ目は「相手の真実」、そして3つ目は「他者の真実」である。

即ち1つ目は「自分の真実」を潔く受け入れる事、2つ目は「相手の真実」を良く観察して受け入れる事、3つ目は「他者の真実」を十分調べて受け入れる事である。

「真実」(又は現実)が自分にとって美しいとか、愉快とか、有益であるなら、喜び勇んで受け入れる事が出来る。

其れとは逆に「真実」(現実)が自分にとって惨めとか、不快とか、残酷であるなら、受け入れる事には苦痛が伴う。

人間がどんなに意地や強情や見栄を張ろうとも、又は「現実逃避」をしようとも、所詮「真実」(現実)から逃れる事は決して出来ないのである。

だからこそ「真実」(現実)を開き直って受け入れた方が、より早く心を立て直して、新たな希望を抱いて生きて行く事に繋がるのである。

 

扨、筆者自身についてだが、余は他の記事(随筆)にも度々書き記している様にどうしようもない“Hochmütiger Narzisst“(高慢な自惚れ屋)である。

しかしながら、”Stolz”(誇り)だけでなく”Ehre”(名誉)も自覚している故、Eitelkeit(虚栄心)とEifersucht(嫉妬)の感情は持たない様に心掛けている。

何故なら自分を実際以上に見せる為に大言壮語をしたり、脚色した自慢話をした後、他人から「見掛け倒しのホラ吹き」等と云うレッテルを貼られて嘲笑される事を、恥ずべき醜態であると思うからである。

実に此の様な人が陰で知人達から「笑い者」にされているのを目の当たりにした事があるし、此れに類似した人を何人もの人々がウェブサイト上で「物笑いの種」として投稿しているのである。

又、他人を妬む事は自分が其の人より劣っていると内心で認める事によって、心が卑屈になるからである。

其の他、下らない虚栄心や理不尽な欲の為に破滅した大戯け共の話も何件も聞いた事がある。

こう言ったお粗末な輩とは逆に、「富裕層」と呼ばれる人の生活態度は堅実で、無理、無茶をしない、合理的で無駄が少ないと言う事を、多くの経済学者やフィナンシャルプランナーの方々が述べられている。

余は個人的に「富裕層」と呼ばれる人は十分な財産を有するだけでなく、「責任」と「慎み」と「分別」を持っているからこそ、「富裕層」で居られるのだと思っている。

そして、「嘘をつかない事」「見栄を張らない事」「欲張り過ぎない事」も「富裕層」にとって大切な心得であると存じている。

先程も書いている様に、本当に”Stolz”「誇り」のある者とは同時に自分の”Ehre”(名誉)”Würde”(尊厳)を大事にし、決してこれ等を傷付けない様に心掛けているのである。

実に余は自分の長所や得意な事や経歴についてありのままに書くのみでなく、自分の短所(例: 計算が下手、泳げない、正座が苦手、自動車の運転が下手、等)についても平気で打ち明けられる。

 

又、他の記事(随筆)に幾度も書いている様に自分の体のスリーサイズ(B:105、W:68、H:93(cm)、身長:173cm、上腕周り:37cm)でも自信満々で公表している。

そして本来Asket(禁欲主義者)であるにも拘わらず「爆乳美人」(G、H、Iカップ)が大好きであると言った、一般人が逡巡する様な事でも正直に述べられるのである。

何故なら余は虚栄心から自分自身を偽る事をみっともないとして恥じているし、同時に自分について絶対的な自信と愛着があるからなのである!

即ち「虚栄心」から起因する嘘、偽りを示す事によって、自分のEhre(名誉)Würde(尊厳)、並びに”Persönlichkeit”(人格、人間性)を絶対に傷付けたく無いからである!

 

「釈尊」こと御釈迦様は「人間の欲が苦しみの元になっている。欲を捨てる事で心の安息と悟りを得る事が出来る。」と宣われている。

詰まり一部の人間は自分が「愛されたい」「褒められたい」「良く見られたい」「目立ちたい」等の欲求が殆ど満たされていないが為に、虚栄心の強い性格を形成してしまうのである。

其の他方で余が友人として長年に渡りお付き合いさせて頂いている我がドイツの地元である首都Berlinの前・都議会議長にして、国家最高勲章“Bundeskreuz“の叙勲者であるW.Mellwig閣下(1936~2013年)、同じく首都Berlinの都議会議員にして文化局長であったR.Sauter氏(1948~)、Brandenburg/H市の大聖堂のCh.Radeke牧師(1955~)、我が母校Kunstakademie Dresdenの学部長であったC.Weidensdorfer先生(1931~)、そして天台宗総本山・比叡山延暦寺の最高位の大僧正、小林隆彰猊下(1928~2023)等は、其の高い身分から庶民を見下ろすのではなく、彼等の位置まで降りて来て真摯に話を聞いて下さる、偉大にして慈悲深き御仁達なのである。

正に能力、人格、業績、名声、地位を兼ね揃えられている「偉人」、「人傑」とは、自分の人生が満たされている為、自信満足だけでなく他者を思いやるだけの「心の余裕」を持っておられるのである。

又、釈尊は弟子達に向かって「浅はかな自慢話、他人の悪口(陰口)、愚痴、不満は極力慎みなさい。」と戒められていたと伝えられる。

人間が社会で生活を営んでいると、自分の過去の経験、そして現在の対人関係からどうしても此の3つの「悪癖」に染まってしまう事が往々にしてある様である。

釈尊の此の御言葉を更に展開すると、自慢話、他人の悪口(陰口)、愚痴、不満を慎んでいるのは善良で人格の高い人であると余は思えるのである。

そして余の其の他の友人達も能力や業績は際だってなくとも、此の様な善良で人格の高い人達ばかりである事を誇りに思うのである。

以上の通り「誇りのある人」「虚栄心だけの人」の大きな違いについて書き記して来たが、最後に結論として、「誇りのある人」は意地汚い事や、卑劣な事を決してしない人である。と断言出来るのである!

 

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