「三井寺」連作絵画と鳴門市ドイツ館の事 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

今年の4月11日に滋賀県大津市の天台宗寺門派総本山、三井寺(正式には長等山・園城寺、ながらさん・おんじょうじ)及び京都市山科区の同じく天台宗門跡寺院、毘沙門堂(正式には護法山・出雲寺、ごほうざん・いずもじ)を参拝し、絵画作品製作の為の写真を十分に撮影して来た。
撮影当時の天気予報では、滋賀県及び京都府では曇り時々雨とあったが、見事に快晴となってくれた御蔭で予想外に良い写真が撮れた。


其の後、4月25日に2枚目の『延暦寺・根本中堂』を完成させ、直ちに三井寺の絵の制作に取り掛かり、5月21日に『仁王門を描き上げ、同月31日に『金堂』(本堂)最上段 を描き上げ、6月14日には『一切経蔵を完成させた。


更には6月27日に『灌頂堂と三重塔を完成させた。
7月の初めより着手した『三井寺・南院の諸堂』(観音堂、百体観音堂、観月舞台、手水堂)の絵を同月29日にやっと完成出来た。


三井寺」の連作絵画の其の他の作品は全て自分で撮影した写真を元に描いたのだが、此の作品だけは背景の市街地が近代化されている事に関連して、「古き良き時代」の雰囲気を作る為、大正時代のセピア色の写真と自分で撮影した写真両方を元に制作した。
絵の画面上で昔と今の状態を比べて調整する必要があるので、普段より比較的時間のかかる作業であった。
作品の制作ペース、出来栄え共に我ながら満足の行く結果になっている。
此れにて『天台宗寺院』の絵を通算33点完成させるに至った。

三井寺は琵琶湖を足下に鳥瞰する長等山中腹に位置している。
古来より比叡山・延暦寺、奈良の東大寺、興福寺と共に本朝四箇大寺の一つに数えられている古刹である。
開基は天智、弘文(大友皇子)、天武三帝の勅願寺として、天武天皇十五年(686年)、大友皇子の子、大友村主与多王によって建立された。
「園城寺」と言う寺名も、与多王が自ら荘園城邑を献じて創建した事に因み、天武天皇より「園城」と言う勅額を賜った事に由来する。
又、俗称の「三井寺」とは、境内(金堂の後ろ)に天智、天武、持統の三帝が誕生の際に御産湯に用いられた霊泉があり、”御井の寺”と呼ばれていたのを、円珍が此の霊泉を以て三部灌頂の法儀に用いた事から名付けられた。
三井寺は清和源氏と関係深く、前九年の役で源頼義が戦勝祈願したのに始まり、平家討伐に挙兵した源頼政も当寺院に拠ったし、平家滅亡後は源頼朝以来、源氏の氏寺として篤い擁護を受けた。
其の他、三井寺には武蔵坊弁慶の引き摺り鐘や左甚五郎の龍の浮彫等の伝説でも有名である。
主な伽藍としては中院の「仁王門」、「釈迦堂」、「金堂」、「鐘楼」、「霊鐘堂」、「一切経蔵」、唐院の「三重塔」、「灌頂堂」、「長日護摩堂」、「大師堂」、南院の「観音堂」等があり、又、桜、紅葉の名所でもある。

イメージ 2
扨、話は変わって毎年恒例の鳴門市ドイツ館と我が個展の事についてだが、先ず参考に当館の歴史と概要を次の通り説明しておく。
時は第一次世界大戦(1914-18)、当時ドイツの植民地・山東省を日本軍が攻略した際に、ドイツ兵士約5000人が俘虜となり日本へ移送された。
其の内の約950人が、1917年から1920年まで徳島県鳴門市・板東俘虜収容所にて過ごし、当収容所職員によって大変人道的な待遇をされた。
同時にドイツ兵士達は鳴門市民達とも友好な交流をし、此れを通じて彼らの文化や技術までも紹介している。
其の中でも特にBeethovenの交響曲第九番が日本で初演された事は有名である。
此の歴史上の出来事に因んで1972年に旧・ドイツ館が建設され、1974年には鳴門市とドイツ・Lüneburg市との間で姉妹都市盟約が締結された。
現在のドイツ館はドイツ・Barock様式を模した建造物で、1993年10月13日に完成した。
日本の建材とドイツの建築様式が見事に融合した、あたかも明治時代の「欧化主義」の文化を彷彿させる物がある。
当館内には第一次世界大戦時に、ドイツ兵が残した史料や遺品を展示している他、俘虜収容所のミニチュア模型によって、当時の生活を垣間見る事が出来る。
又、周囲の環境も魅力的で、自然に恵まれ、当館のすぐ近所には「バルトの庭」と謂う旧・板東俘虜収容所の一部、並びに映画「バルトの楽園」(2006年)のロケセットを移築した施設もあり、更には「四国八十八箇所霊場」の一番札所・霊山寺、二番札所・極楽寺、そして大麻比古神社、等の有名な宗教施設もある。

(「鳴門市ドイツ館」については以下のホームページ参照の事)
鳴門市ドイツ館|徳島県鳴門市『第九が日本で初めて演奏された地』 (doitsukan.com)

鳴門市ドイツ館(ドイツ館史料研究会) (dt-haus.org)


そもそも此のドイツ館は1972年に開館しているのだが、当時の鳴門市は交通不便な辺境の地であった故、当館の認知度は左程高くはなかった。
しかし2012年に「明石大橋」が開通して以来、鳴門市は四国の玄関口となり、本州からの観光客の訪問数が一気に増加した。
とは言え当館は建物こそ立派であったが、相変わらず館内の展示物は「旧ドイツ軍人捕虜収容所記念館」の如き貧弱で殺風景な程度であった。
そこへ2006年に藤田社長が当館の指定管理業者として就任して以来、彼の優れた手腕と活動力並びに誠実で律儀な人柄によって、館内で充実したミュージアムショップを開設し、又、一年を通じて数多くの行事、催し物を開催して、此のドイツ館を全国に知れ渡るまでに発展させたのである。
ところが今年の3月末に当館の指定管理業者の代表者、藤田社長が同年1月21日の当市議会の判断により不本意にも退館を余儀なくされた。
今回の指定管理業者交代の理由とは、徳島県全ての観光及び公共施設の入場者が減少している事らしいのである。
徳島県庁の統計を見ても、2012年に明石大橋が開通して以来、成程観光客は其れ以前より増加したものの、驚く事に其の半面当県では毎年約5000人のペースで人口が減少しているのである!
更に其の他の四国3県でも同様に人口は年々減少している。
徳島県内で他県からの観光客が最も多い鳴門市のドイツ館の毎年の入場者の統計を余が個人的に取って見ても、約27%が県内の人達なのだから、其の他の県内の観光及び公共施設の地元の利用者の割合はもっと高い筈なので、此の結果は自明の理ではなかろうか。
此の問題は指定管理業者や運営者を変えさえすれば、状況が直ちに改善される程簡単な事ではない!
其れどころかかえって、状況を更に悪化させる事すら懸念されるのである。

現在の徳島県は大きな産業も無い故、県民の所得が本州に比べて低く、若い世代の人々が条件の良い環境や仕事場を求めて県外に次々と流出する事に歯止めがかからない。
県内の人口の減少は民間の生産力を低下させるのみならず、此れに伴う収税額の減少から自治体の財政も同時に悪化させるのである。
此の深刻な現象の打開策として、余は鳴門海峡に所謂※「海洋発電所」を創設する事を提唱しているのだが、いつ実現する事やら・・・・・ 
※(水力発電の一種、巨大な水車を海中で回す事によって、今までより安全、安価に電気を生産して供給する。此れによって四国に新たな大型産業が生まれ、危険性滻原子力発電所を廃止するも可能になる。 ノルウェーで国全体の発電の約90%、イギリスで約30%以上が此の技術を利用している。)
大変失礼な表現ではあるが、今の徳島県はまるで浸水の始まっている「老朽船」の様に思えて仕方ないのである。

余は元来徳島県民ではないし、ドイツの首都Berlinと其れを取り囲むBrandenburg州が我が地元(心の故郷)である。
そして天台宗総本山にしてUNESCO世界遺産にも属する比叡山延暦寺が我が心の支えである。
これ等最高の場所で芸術家として名誉ある業績を数々作らせて頂き、我が作品が何十点も常設展示されているのだから、毎日個展を開催しているも同然であるし、我が作品も名前も思想も当地で未来永劫になると確信している。
更に余は鳴門市でも既に7回も個展を開催して、(Guestbook芳名録で確認しただけで)※全国35都道府県から通算1万8000人に上る来場者を動員して来たのだから、もうそろそろ此の将来性の少ない「阿波の老朽船」から降りさせてもらっても良いのではないかと思った。
(※今までの統計上、来場者の内訳は28%が徳島県内、72%が県外)
又、昨年既に藤田社長から個展の要請を受けたものの、肝心の彼が当市議会によってドイツ館から不本意にも退館させられた事に対して余も一時は憤りを感じた。
しかし、徳島県民や其の近隣の県から今だに我が個展に期待してくれる御仁達が何人もいる事、又、本日ドイツ館より今年の個展開催の要請を再度頂いた事を思えば、個人的な思いだけで毎年恒例の公共事業を止める訳にも行かないと思い改めたのである。

かくして2015年の我が個展の会期は、10月10日(土)~11月23日(月)に決定した。
「自分の一番好きな事をして生きて行ける事は確かに幸福である。 そして其れが多くの人達から望まれれば、更に幸福である。」(我が格言集より)

第一余が此の先、当館で個展を続けても、実際に乗っている船が沈んで(金槌として)溺れ死ぬわけでもなし、 個展開催の為の日帰りの旅費以外に、大した出費があるわけでもない。
そして何と言っても余が徳島県、鳴門市やドイツ館に大層な愛着、数多くの思い出、そして恩があるからなのである。
もうこうなった以上、余が「心の師匠」として崇拝して止まない「伝教大師」こと最澄様の御教えであり、我ら天台宗の標語である「忘己利他」(己の利益を度外視し、世の為人の為の公益に貢献する)を実践して行くしかあるまい!

追伸: 
藤田社長の後を継いで2015年4月からドイツ館の指定管理業者に就任した「一般社団法人・うずしお観光協会」は、有難き事に余の最初の助言「藤田社長が今まで築き上げて来た物事を壊す事無く、大切に受け継いで運営して下さい。」をその通りに実行してくれているし、余の事も大層重宝してくれている。
そして目下の処、当協会は余の予想を遥かに上回る成果を上げてくれているので安心している。
今日、全国で観光及び公共施設の利用者が減少していく状況にも拘わらず、此れにて鳴門市ドイツ館は将来も安泰であろうと信じられるのである。

Kunstmarkt von Heinrich Gustav  
All rights reserved