我が守護本尊・不動明王の画像 | Kunstmarkt von Heinrich Gustav  

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ドイツの首都Berlin、Brandenburg州及び比叡山延暦寺、徳島県鳴門市の公認の芸術家(画家) Heinrich Gustav(奥山実秋)の書き記した論文、随筆、格言集。

 奧山実秋作『青蓮院・薬医門』

 奧山実秋作『青蓮院・小書院』



2009年の9月18日から12月20日まで京都市・東山の天台宗門跡寺院・青蓮院の国宝「不動二童子像」が御開帳されている。
此の「不動明王像」は平安時代(11世紀)に天台宗の僧正・安然(あんねん841~915年?)が9世紀末に詳述した「不動十九観」(不動明王の19の特徴)を全て採り入れて描かれた傑作であり、後世の不動明王の画像並びに彫像の原点及び手本となっている。
参考に「不動十九観」と其の仏教の象徴的意味は以下の通りである。

*大日如来の代理、又は化身である事。
*真言中にア、ロ、カン、マンの四字がある事。

(其の中でも梵字の「カン」は不動明王を意味する。)
*常に火生三昧に住している事。:あらゆる障害を焼却して、智火を成す。
*大人の姿で其の容姿が強靭である事。

(※本来は子供の姿で其の容姿が肥満体であるとされている。)
*額頂に七沙髷がある事。:悟りに至る為の修行。

「七菩提分」(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)
*左に一辮髪を垂らす事。:地上の民衆への慈悲。
*額に水波の様な皺がある事。:六道で苦しむ民衆への思いやり。
*左の目を閉じ、右の目を開く事。(又は※天地眼:天と地を同時に見つめる。) :物事を一方的に見ない。
*口の右上と左下にそれぞれ牙がある事。:仏敵を恐れさす。
*口を硬く閉じる事。:軽率な言葉は慎む。
*右手に降魔剣を持つ事。:鬼、悪魔その他の仏敵を成敗する。
*左手に索条(輪の付いた縄、又は鎖)を持つ事。:人間の邪心、煩悩を縛り上げる。
*胸飾と臂釧(ひせん)と腕釧(わんせん)をしている事。
*大磐石の上に安座する事。(又は立っている。):泰然自若の心境。
*肌の色が藍色(又は群青色)である事。:仏敵を恐れさす。
*奮迅して憤怒である事。:邪道、外道、非道に対する怒り。
*光背に※迦桜羅(かるら)炎がある事。:※人間に有害な要素や罪を焼き払う火の鳥。
*倶利伽羅龍(くりからりゅう)が剣に巻き付いている事。:吉祥と開運。
*二童子が待している事。:※不動明王の右が勢多迦童子(せいたかどうじ)、左が金迦羅童子(こんからどうじ)。此の二人以外にも六人の童子がいて、不動明王に仕える「八大童子」と言う。

此の中に不動明王の容姿が「肥満体」とあるのだが、此ればかりは余は絶対に納得が出来ない!
と言うのは余が今まで個人的に各寺院で不動像を拝見して来た限りでは、不動明王は殆ど全くと言って良い程、「筋肉質」ないしは均整の取れた理想的な体格で表現されているのである。

例を挙げると、同じく京都の天台宗門跡寺院「曼殊院」が所蔵する国宝「黄不動明王像」(画像左)は極めて筋肉質に描かれているし(此の画像もすでに拝観した。)、和歌山県高野山の「明王院」の「三大・不動明王像」の一つである「赤不動二童子像」(画像右)も堂々たる姿で描かれている。
青蓮院の当作品は千年以上前に描かれた(作者不明)故、保存の為普段は複製画が展示されているのだが、今回遂に皇族門主の東伏見宮慈光猊下(ひがしふしみのみや じこう げいか)の有難き御決断によって、当院で初公開に至ったのである。
余は生涯此の画像のオリジナルを拝観する事は無いだろうと諦めていただけに、今回11月28日に遂に直に拝観出来た事は感無量の思いであった!
何故なら我が家が平安時代以来天台宗である事、そして余が酉年の酉の刻生まれである事(不動明王は酉年の守護本尊)、そして余は幼少の頃より不動明王の崇拝者(と言うよりファン)だからである。
昨年には此の「不動二童子像」を参考且つ自らをモデルにして、『不動明王二童子像』を油彩で描いた程である。(下段画像)

更に不動明王の容姿については、此の尊を祈祷する為の経文『佛説聖不動経』にも以下の様に記されている。
「爾の時に大会に一の明王あり。是の大明王は大威力あり。大悲の徳の故に、青黒の形を現じ、大定の徳の故に、金剛石に座し、大智恵の故に、大火焔を現じ、大智の劒を執ては貧瞋痴を害し、三昧の索を持しては、難伏の者を縛す。
無想の法身、虚空同体なれば、其住處もなし。但し、衆生心想の中に住し給う。衆生の意想、各々不動なれば、衆生の意に隋って、而も利益をなし、所求円満せしめ給う。
爾の時に大会、此経を説き給うを聞き、皆大に歡喜し、信受奉行しき 南無佛説聖不動経。 」
此の経以外にも『聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経』、『稽首聖無動尊秘密陀羅尼経』、『不動尊剣の文』、『不動尊祈願経』、『不動明王利益和讃』等の各経文にも類似して不動明王の容姿について記されている。
ここで一つ興味深いのは、これ等の経によっては不動明王が「盤石に座し」、又は「盤石を踏みしづめ」、と2通りの表現をしているの事である。
此れは不動明王像が仏像、仏画に於いて「座像」と「立像」(りゅうぞう)の2種類の姿勢で表現される事を象徴しているのである。

其の他、余が1998年にイタリアの首都Romaを訪ねた時、見損なったBorghese(ボルゲーゼ)美術館の絵画展を京都国立近代美術館にて鑑賞出来たのも今回の京都訪問の大きな収穫であった。
此の展覧会の中で一番印象に残ったのはBrescianinoの描いた「ヴィーナスと2人のキューピット」(1520~25年頃)である。(画像右)

Lucas Cranach d,Ä (L) und Brescianino(R) :"Venus mit Cupid"

此の作品はどことなく余の最愛のイギリスの画家Edward Burne Jones (1833~98年)の作品を思い起こさせるし、彼自身ヴィーナスを主題にした作品を多数手掛けている。

(同ブログの記事『画家Burne Jonesの世界"Antique Dream and Elegance" 参照)

例:"The Bath of Venus", "LAVS VENERIS", "The Mirror of Venus", "The Godhead Fires" from "Pygmalion and the Image" 等

そして主人公のヴィーナスが2人のキューピットを連れている処が、不動明王が二童子を連れている事に類似しているからである。

後はとにもかくにも余の個展「プロイセン地方の歴史的文化財と伝説」が始まるまでに新型インフルエンザが終息してくれる事を懇願するばかりである。
此の事ばかりは人間の力だけでは克服出来ない故、こう云う時こそ我が守護本尊「不動明王」に祈るしかないのではなかろうか。
今年の12月16日より始まる我が個展の展示準備が完了したら、其の他の※「五大明王」の「降三世明王」(こうざんぜみょうおう)、「軍荼利明王」(ぐんだりみょうおう)、「大威徳明王」(だいいとくみょうおう)そして「金剛夜叉明王」(こんごうやしゃみょうおう)の画像も描く所存である。
(※2010年1月25日 全て完成。)
因みに我ら天台宗では金剛夜叉明王の代わりに※「烏枢沙摩明王」(うすさまみょうおう)が「五大明王」の一人に数えられている。(※: 2010年2月6日に完成。)

五大明王像」で最も有名なのは、何と言っても京都市・九条の「東寺」こと教王護国寺の講堂に祭られている「立体曼荼羅」、そして京都市・嵯峨の門跡寺院・大覚寺の本堂(五大堂)に在る本尊であろう。(余はこれ等の仏像群も全て拝観している。)

五大明王について更に詳しくは、当ブログの記事『我が個展の成果、及び成願寺に於ける『五大明王』の常設展示、そして第27回・国民文化祭への参加決定の事』参照

 

最近、一部の人々の間で「仏像」への関心が随分高まっている様である。
其の考えられる原因として、世の中の不況及び人間関係の不透明性と不安定性があるのではなかろうか。
正に「困った時の神頼み」ならぬ「仏頼み」と言った具合である。
しかしながら「仏像」とは人の見方によっては「祈りの対象」にもなり、又は単に「美術工芸品」で終わってしまうのである。
近頃では「仏像人気」にかこつけて、私利、私欲の為に仏像を寺院から盗む等と言う罰当たりな罪を犯す不届き者もいる。
更に世俗のみならず坊主の中にも「生臭」だの「売僧」(まいす)等と呼ぶべき輩も増えている事は誠に嘆かわしき現状である。(特に不浄土真宗は酷い!)
そして最も卑劣且つ悪質なのは、偽の宗教を語り人生に悩みを抱える人々を騙して金銭を巻き上げる「新興宗教」(又の名を洗脳詐欺)の邪魔外道共である。
こんな輩共にはいつか必ず天地共に裁きが下る事であろう!

仏像に関心を持つ者、並びに仏に仕える者は何よりもまず、寺院に祭られる仏像はあまねく万人の為の祈りの対象であって、決して美術工芸品ではない事を心得るべきである。
そして「仏の教え」を知ってこそ、更に仏像の真価が理解出来るのである。

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追伸:2013年の10月頃から"Chinese Buddhism encyclopedia"と言う英語・中国語版の仏教サイトに、余の描いた此の不動明王の画像が、余が知らぬ間に他の不動明王像と共に公開されている事が判明した。
恐らく誰かが余のドイツ語版のブログからコピーしたのだろう。
各Artikel(記事)にはAll rights reservedと最後に表示しているのに此の有様である。
公的な仏教の専門サイトに掲載されて多くの人々に見てもらえるのは有り難い事であるが、欧米、日本の常識なら普通は他人の公開している画像を転用する時には、著作者、又は所有者の許可を得てからするものではなかろうか?
此の辺りが中国人の「著作権」(Urhabersrecht)に対する認識の甘さである。
自分のアトリエにある自分の為の絵が、多くの人々に見られるのは何とも不思議な気がするが、まあ悪用されたのではなく、其れどころか仏教の学習の為に役立っているのだから良しと致そう。

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