将来の自分へ 初心を忘れないために -7ページ目
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お金

今日はお金のことでまた議論をした。それは言いあいではなくてむしろ僕の偏屈な考え方を

聞いてもらうという感じだった。


仕事柄お金について考えることが多い。僕が弁護士になろうと思ったのは、社会正義を実現したいと

考えたからであって、そこにお金をもうけるという思いはひとかけらもなかった。もちろん、かっこいいとか

そういう俗っぽい憧れがあった事は否定しないが、「スポーツカーに乗りたい」とかいう下らない動機

を語っている奴を見るたびにこの職業がすごく汚される気がした。


しかし、実際にプライベートの時間がないくらい働き、体も心も疲れてくると、ボーナスの額が少しでも

多いといいなあというようなお金が目的化する気持ちが自分の中に生まれてきた。前の日記にも書いたが、

お金が目的化するとき、仕事が僕を磨くのをやめるのだ。お金は結果であって、決して目的であるべきではない。そうじゃないと、少しでも楽をして、多くのお金をもうけようというサボる気持ちにつながるからだ。

仕事柄、不良債権の借り手を見る機会や刑事犯罪に身を染めたかつての大富豪に会う機会も多かった。不幸なのは、彼らがあまりにお金を目的化してしまったということだ。左から右へと土地を回すだけで何億も儲かる社会が健全なはずがない。そんなことに血眼になっていたバブルはまさに人の心がすさんでいたのだ。


そして、いったん獲得した生活レベルを下げることは本当に苦しい。つまり、無理に実現した生活レベルを維持しようと思うと次第に無理なことをし始める。大きな家、高い車、高価な衣服、豪華な食事、人はそういう「金持ち」の生活に憧れる。しかし、それは実現したらしたで維持にお金がかかるのだ。そして、もっといい生活へ、という欲は尽きない。その無理が限界にきたときには、もう人の心は取り返しのつかないくらいすさみ、犯罪を犯すことさえためらわなくなる。誰もそんな高い家や高い車に乗っていたりすることで尊敬の気持ちは持たないのに、なぜか人はそういうことに憧れてしまうのだ。僕にもそういう気持ちがないといえば嘘になる。でも、そういうことの危険性が分かっているから、どうしても近づきたくないし、自分の心を汚さないようにしたいと思ってしまうのだ。


だから昔から僕はお金があるときには知識や経験やそういう物ではなく、自分へ投資するように心がけてきた。高い物はお金さえあれば誰でも買えるが、知識や経験やそれを通じて出来上がった自分こそ、誰もお金では買えない最も大切な「自分のもの」ではないだろうか。そして、お金を家や物に費やしてご満悦の人を見るより、知識や経験を通じて磨かれた「人」こそ魅力的ではないだろうか。そして、それこそが人々の思い出や気持ちなどを通じて滅びないものではないだろうか。




少年犯罪

2日続けて15歳少年による親族殺害の事件があった。二つの事件に共通しているのは昨日の

テーマである「怒り」に任せて親族を殺してしまったというところにある。


僕は、幸いにして、僕にとっては世界一の両親および弟に恵まれたので、その家族を「殺す」という

発想は全く分からない。しかし、ワイドショー的に、「最近の不幸な事件には心を痛めます」と偉そうに

言うつもりは僕にはない。もし、そういう事件が相次いでいるとすれば、それにはもっと深刻な

社会問題・家族問題があるかもしれないのだ。


僕が司法修習をしていた時代に、少年時代の取調べや少年院の少年たちの食事などを経験した。家庭裁判所の調査官の人と一緒に犯罪を犯した少年と面接をしたこともある。その時にショックだったのは、いかに身勝手な「親」が多いかということである。それは、母一人で親が夜の仕事のためにいつも不在にしていた、あるいは男遊びが激しく家に男をいつも引き入れていた、父親が酒を飲んで暴力をふるうとんでもない奴だった、とかそういう典型事例だけではない。ある少年恐喝団は、気弱そうな学生を死ぬぐらいまで殴りつけて1000円くらいの金を奪うということを十数件やっていた。そのNo.2は実はすごい金持ちのぼんぼんだったが、僕が驚いたのは、その母親は謝りの言葉は一切なく、言ったのは「こんなことをするくらいだったらもっとお小遣いあげたのに」ということだった。おそらく少年はものすごく寂しかったのだと思った。


もちろん、暴力的なゲームや映画、本の影響が大きいことも否定できないが(佐世保の小学生刺殺事件はバトルロワイヤルやホームページなどの影響なくしてはありえなかった)、我々が見落としがちなのは、そういう少年たちが犯罪に至るまでの経緯、特に親側の問題なのだ。そして、もし昔に比べてどうしようもない親が増えているのだとしたら、それは何故なのだろうか。いずれテーマにしたいが、物質的な豊かさは心の豊かさに必ずしも直結しない。日本は、正しい方向に進んでいるのか、こういう事件を見るたびにそう思って国の未来を憂いてしまう。子供の反乱は、もっとも怖い予兆のような気がしてならない。

怒りという感情

今日は喧嘩をしてしまったので、「怒る」という感情について考えたくなった。</p> <br /> <p>自分はどう見られているのか分からないが、おそらくどちらかと言えば「穏やか」と見られているのではないだろうか。機嫌によって感情が動くことはないし、怒るということは日常ではほとんど見せないようにしているからだ。それは、怒っていないのではなく、怒ってもそれを見せないように我慢することと、昔なら怒っていたことを本当に怒らなくなったことの2つある。そして年々後者が増えている気がする。それは、いろいろな経験を通じて、なぜ相手がそのようなことをするのか、そして自分は悪くないのか、など物の本質を考えることが少しはできるようになったからかもしれない。</p> <br /> <p>それにしても「怒る」という感情はどこから来るのだろう。多くの感情や気持ちは「心」から来るが、怒りだけはなぜか「頭」から来る。むろん、「心から怒る」ということはあるのだが、それはよほど深い場合のことを指す。つまり、人間の感情の中で、「怒り」だけは頭から来るいわば「浅い」感情なのではないだろうか。そういう怒りに縛られて生きている人はそれだけ浅い人間ということにはならないだろうか。僕には、街中や職場で怒っている人を端で見ているとそう思わざるを得ない。また、朝からワイドショーで視聴者の怒りを誘って、「自分は正しいんだ」という自己満足を得させようとしているやり方も自分には合わない。</p> <br /> <p>とはいえ、真剣に生きていたり、仕事をしていたりすればするほど、不真面目に生きている人やさぼっている人、不正義な人に対して怒りの感情を覚えるのも自然である。役所には、遊び感覚で国民の税金を無駄遣いしている人間はいっぱいおり、そういう人間には怒りを抑えることは僕にもできない。革命みたいなものは民衆の「怒り」から生じることが多く、時にはすごいパワーにもなる。だから、底の浅くない「怒り」もあるのだろう。</p> <br /> <p>僕としてできるせいいっぱいの抵抗は、浅い怒りをできるだけ抑えて、自分の怒りのパワーを正しい方向で使うようにすることだけなのかもしれない。</p> <br />

仕事と自分

最近、毎日毎日仕事で遅い日が続く。せっかく始めたブログも早3日目にしてさぼってしまった。

仕事で打ち込んでふと疲れを覚える時、いつも仕事とは自分の人生にとって何なのかと

考えてしまう。


といっても、僕の場合、最初の3年間強は法律事務所で、次の1年は米国での学生生活、そして国際機関での研修を経て、米国の法律事務所で1年、その次はニューヨークの日本の法律事務所で1年、そして

今は霞ヶ関で働くという、ある意味一つの仕事をずっとしてきたとはいえない状況にあり、「仕事」を自分に対して単純に位置づけるのは難しい。とはいえ、自分にも仕事上の夢を追いかけてこういう道を進んできたのであり、少し意味づけを考えて見たい。


僕にとって、仕事はあくまで人生の目的・目標の一つではある(すべてではない)。仕事を通じて様々な経験をし、知識を身につけ、人と知り合い、そのことが自分を磨くことに役立っていることは常々実感する。自分の仕事によって周りの何か、人、あるいは日本の国が良い方向に進むことにほんの少しでも貢献できているのであればそれはこの上ない幸せである。そして、競合相手の中では自分は絶対負けない!という気概と誇りが自分を支えていることも事実である。しかしながら、僕の中では、仕事は断じて「金儲け」ではない。むろん、自分の信条と信義にしたがった先に大きな収入が待っているのであればそれにこしたことはない。しかしながら、自分を曲げてまで「金」にすがるのは嫌だし、「金」が目的化するのも嫌なのだ。今から約10年前、僕が法律事務所でこう叫んでいた時にみんなそういって変わるのだ、といわれたことがある。しかし、不思議と僕はこの点だけは変わらない。無収入になったって、夢を実現できるのならそういう仕事をしたい、逆に1億円もらったって自分の信義に逆らうような仕事は絶対にしない。僕にとって仕事とは今そういう存在であり、そういう意識を失った時、仕事が僕を磨くことをやめるだろう。この思いを大切にしていきたい。

仲間

今日職場あるいは元職場の仲間にお祝いをしてもらった。これは本当に嬉しいことである。


人間は、基本的には利己的な生き物であり、他人のために無償で何かをするというのは、どんなことでもなかなかできない。お祝い会を開くということだけでも、日程を考えたり、出席者を考えたり、場所を考えたり、ましてやプレゼントを考えたりすることには実は膨大なエネルギーを費やしてもらっている。単にお祝いをしてもらうと言うこと自体も本当に嬉しいのだが、自分のためにそこまでしてもらっている幹事の苦労を思うと感謝は尽きない。


思えば、自分はこういう周りの人間の支えがあって何とかやってこれたのだと思う。時としてそれが自分の能力によるとの過信に陥りがちだが、家族や恩師、友人、仲間などの支えがなければ、絶対にここまでは来れなかった。そのことに感謝をささげ、そして自分が支えとなることができるときには、全力で支えたいと思う。それが僕の思いつく恩返しだ。


今後いかなることがあっても、周りの人たちの恩や愛情、友情、優しさには感謝をささげ、そして自分もそういう恩を少しでも返していけるように一生を生きて生きたい。みんな本当にありがとう。

ブログ開始!-父の日

ブログなるものがウェブ上ではやっていると聞いてはいたが、自分の思いを残すためにはじめてみようと思った。きっかけは、今日このウェブを運営している会社・社長を特集したテレビ番組を見たこと。

以前、留学中には毎日日記をつけていたが、帰国後は忙しさにかまけてそのようなこともなくなってしまった。今後は、なるべく思いのたけをぶつけていきたい。


今日は父の日。父の存在について考えた。


自分の存在が今あることのすべてが両親のおかげである。そして、父が与えてくれたもの、それは言葉では言い尽くせないが、自分が社会人になってみて、初めて父が夕食の場にはいつも帰宅して家族団らんの時間があったこと、土日には必ずどこかに自然や動物などに触れ合うところに連れて行ってくれたこと、などなどがいかにすごいことだったことがわかった。昨年、とうとう定年退職をむかえ、急に小さくなってしまったような気もしたが、今は老後を楽しむことに没頭している感もある。昔は、父とチャンネル争いをしたり、反抗期にはかなり嫌ってしまったり、いろんないざこざがあったような気がする。それでも、自分が生まれた時には泣いたという父を僕はずっと世界一の父だと思っている。本当にありがとう。あと何年一緒にいられるのか分からないけど、僕にできることはすべてしてあげたいし、一瞬たりとも時間を無駄にすることなく、最後の時までお付き合いをさせて頂きたい。


仕事柄少年犯罪などを見ることがあった。あるとき酷い暴力事件を起こした少年が、「お父さんだけには知らせないで」と父が来ると分かった瞬間に見るからに恐怖におびえ、震えだしたことがあった。少年は幼い頃から酒癖の悪い父親に暴力を振るわれていたのだ。暴力を振るわれていた子供は暴力的になり、愛情を知らないで育った子供は愛を知らない人になる。例外も沢山あると思うが、こと犯罪に関わるようになってしまったりする場合にはすごく当てはまるような気がする。家族は社会の原点であり、これが壊れる社会は将来に必ずマイナスに響く。家族の大切さ、どうやったらお俗が幸せに生きていけるのか、自分にとってこれは最大のテーマである。



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