鹿児島は大雨です。
本当にここ1年で一番の雨じゃないかっていうくらいの雨です。
昨日、僕はヨガスタジオpANDuのことを「僕のスタジオ」と書きました。
その後、数秒後には、「僕のスタジオ?」と疑問がついて、「みんなのスタジオ」と追記しました。
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僕の子どもたちは、例えばよくお菓子のとりあいで喧嘩します。
誰かの誕生日ケーキを分け合うとき、もともとは一つのケーキを、切った瞬間
「それ◯◯ちゃんの!(自分のこと)」
と主張します。
僕はいつも
「喧嘩しないの!みんなのケーキでしょ!」
と優しく言います。(たまに厳しいです 笑)
このケーキ。
もともとは、ケーキ屋さんのだったんだなって今気づきました。
ケーキ屋さんで、「無」から「ケーキ」が創造されたわけです。
でも正確には「無」ではなくて、小麦粉とか砂糖とかクリームとかそういうものに、ケーキ屋さんの「技術」が加わって「創造」されたのです。
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これを「僕の」(と便宜的に呼びます)ヨガスタジオに当てはめたらどうなるのでしょう。
もちろん、創造したのは創業者のオーナーさん。
僕はただのお客さんでした。
経営権は僕に移りましたが、「僕の」スタジオになったかどうかはわかりません。
だって、僕がまた経営権を誰かに譲ったら(譲る気はありませんが)、僕はただこのスタジオを過ぎ去った存在に過ぎなくなるのですから。
通い続けているコアなお客様のものでしょうか。
いえ、お客様も退会されることがあるのです。
教え続けてくれているヨガの先生たちのものでしょうか。
いえ、ヨガの先生もやめることがあるのです。
大家さんは場所を貸してくれているだけ。
僕は経営者という役割を全うしているだけ。
そこで流れているヨガの叡智だって、先生たちは誰かから学んで取り入れただけなのです。
そうすると、すべてのことは、流れているだけであって、循環しているだけであって、実体というか所有者は「いない」ということがわかります。
OSHOの本だったかな。
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「人間の身体すら借り物であり実体はない。あなたのものではない。所有物というのはない。でも人間は所有したがる。それは例えて言うなら、たまたま降り立った鉄道の駅舎を自分のものだと思い、名前を彫り込むようなものだ。」
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という言葉がありました。
もちろん、「僕の」という感覚は持ち続けるし、他人のものを奪うつもりもありません。
でもこの「所有」という観念を捨て去ったとき、何かいろんなものを明け渡せるような気がしたのです。
今日はここまで!