ライフコーチ養成講座を終えたあとや、ヨガクラスを終えたあとや、タイ古式マッサージを終えたあと。
すごくクリアな気持ちになって、心から今こうして生きていることに満足できる瞬間が訪れます。
伊丹空港に着き、引き寄せられるように屋上デッキに出ると息を飲むような美しい空。
そして飛行機がすぐ近くを飛び降りする様子に、全身で興奮を表現する子どもの姿。
寄り添って座るカップルや老夫婦の姿。
信じられないような世界の美しさに、この世界を創造した存在の側から、世界を見ているような感覚が訪れます。
その瞬間、僕は亀井弘喜というアイデンティティや意識ではなくなり、肉体の感覚も消え失せ、人生を「見るもの」になります。
「体験するもの」から「見るもの」に変わるのです。
この「見るもの」になったとき、一切の恐れや怒りや罪悪感がなくなります。
同時に、楽しみや嬉しさなどもなくなります。
存在そのものと一体化したかのような感覚です。
そして人生で体験したすべてのストーリーと登場人物たちに、底知れない感謝が湧き上がるのです。
この感覚を最初に体験したのが僕の場合は、鹿児島でのシヴァナンダヨガの最中でした。
あの感覚を味わいたい。
そう思うと不思議とその感覚はもう訪れなくなりました。悟ろうとすれば悟れない、ということが腑に落ちました。
それでも「それ」は、ふとしたときに訪れるようになりました。
もう驚くことも、その体験に執着することもなくなりました。
というか、そういうこともどっちでもよくなって、日常生活の素晴らしさを感じられるようになりました。
「今この瞬間、自分のことを素晴らしい存在だということにします。
自分の生きたいように生きて自分も周りも幸せです。
すべての出来事を受け入れます。
どうか、この素晴らしい自分をお使い下さい。」
3ヶ月前、ふと思い立って手帳に書いた言葉です。
僕は、もう自分がどうこうしたいというよりは、この美しきシナリオに完全に使われたいと思ったのです。
それはきっと、映画の役を与えられた俳優が、全力でその役を演じる姿と同じなのでしょう。
僕の役割はこれから一体どんなストーリーが書かれているのか。
台本のない配役を演じる世界。
終わりすらわからない物語を紡ぐこと。
それを怖がってしまえば、映画は完成しません。
いや、厳密に言えば、怖がるとすれば「怖がる役」なのであり、きっとそれも完璧なストーリーなのでしょう。
完全性からは結局のところ出られず、すべては完全性の中で起きていたのです。
ここまで手が勝手に動いたところで、食後のアイスコーヒーが届きました。
もうこうなると言葉は何も出てきません。
でもそれもまた最善で最高なのです。
亀井弘喜くんの役をもらえて、心から満足しています。