ヨガをしていると、動じない心が育ちます。
動じない心は、何に動じないのかと言ったら、出来事や他人の言動です。
あるいは、自分自身のネガティブな声(セルフジャッジ)に対しても動じないでしょう。
昨日、鹿児島で出会った中で最も「ヨガ的」に生きることを実践している先生に出会いました。
出来事と、先生の心に関連性はありませんでした。
過去や現在のどんな出来事であれ、どんな他人の言動であれ、笑って受け止め、ポジティブに受け止め、でも自分の生き方もぶれない。
本当の意味で自分軸で生きるとはどういうことか。
その先生のあり方から気づきました。
動じない心の反対の概念。
「反応的な心」と僕は呼んでいます。
反応的、というのは同調的と言ってもいいし、否定的と言ってもいいし、妄想的と言ってもいいかもしれません。
要するに、心が暴れ回るのです。
心が暴れ回るとき、そこについてまわるのは、「判断」(ジャッジ)です。
善い悪い、とラベルを貼り、善いと判断したことがあれば喜び、悪いと判断したことがあれば怒ったり、恐れたり、悲しんだりします。
昨日、鹿児島では結構強い雨が降りました。
出来事をありのまま見れば、ただ「雨が降った」ということです。
ここに心(判断)がついて回れば、「お客さんの脚が遠のくかな」とか「荷物こんな大雨のとき持ってこなければよかったかな」とかそういう思いが生まれます。
判断はどこから生まれるのかといえば、「信念」であり、信念はどこから生まれるのかといえば、「体験」や「教え」です。
うちの子どもたちは雨が降ると喜んでいます。長靴を履けるし、カッパも着れるし、びちょびちょになるのも楽しいようです。
彼女たちの概念に「雨は憂鬱」というものはありません。
でも大人になるにつれて、誰かから信念を仕入れます。
「雨って憂鬱だよね」と。
それを受け入れた瞬間、その人の世界、その人の宇宙において、雨は確かに憂鬱なものに見えてくるのです。
世界は、自分が見たい通りになっていきます。
世界は、自分の信念の反映とも言えるのです。
見たくない世界や出来事があるならば、自分の信念に気づく必要があります。
そしてそれを丁寧にひとつずつ外していく。
そうしていくと、最終的には何も知らないし、何もわからない、でも完全なる平和な世界がやってくるのではないかと思います。
考えてみれば、僕らはなぜ生まれ、なぜ生きて、なぜ死ぬのかだってわかりません。
それらしい考え方が無数にあるし、どれも「そうだと思えばそう」なるわけですが、唯一の解は「わからない」ということでしょう。
自分が判断しているあれこれも、本当のところは「わからない」のです。
これを善悪ジャッジで「わかった」立場を取っていれば、争いが起きてくるでしょうし、他人に対する制限やコントロールも生まれてくるでしょう。
ちなみに、「わからない」この世界でも、周波数の高低はあるように感じます。
周波数とはエネルギーと言ってもいいかもしれません。
例えば、パワースポットや、ヨガスタジオなどの聖なる場所は、独特の波動というかエネルギーに満ち溢れています。
そこで現実世界の出来事をあれこれジャッジすることは難しいでしょう。
逆に現実世界で、ジャッジする心にとらわれているときに、ジャッジを取り消すことも難しいものです。
ヨガは、定期的に、自分を現実世界から少しだけ切り離し、そして自分がしているあれこれのジャッジに気づける機会にもなります。
ヨガを深めていけば、真我に気づく、というのは、判断(ジャッジ)が丁寧に外されていった先にある結果現象なのかもしれません。
この文章を読んだときも、きっとあれこれ判断がついて回るでしょう。
ぜひそれを取り消して、わからないまま、楽しい世界を純粋に体験してみてください。
人間としての僕も、そうして1日が始まり、1日が終わります。
考えてみたら、何が「1日」なのかも、ジャッジによる産物ですね。