人はなぜ | ライフコーチかめちゃんのブログ

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霧島と沖縄と代官山で3拠点生活しながらセミナー講師しています。2021年までは鹿児島でヨガスタジオを経営してました。2022年セミナー講師業で5億円を売り上げました。セミナーの様子をYouTubeで配信しています。

外側の出来事や他人の言動に、脅かされるのが嫌で、僕はヨガの世界に入っていきました。
 
 
だんだんと外側の出来事や他人の言動に、怖れを感じる自分はいなくなっていきました。
 
 
人生において、無力感を感じることがなくなっていきました。
 
 
もっとも無力感を感じていた「父」に対しても、自分自身でいることができるようになりました。
 
 
もっとも無力感を感じていた「お金」に対しても、怖れを抱かず、お金と仲良くできるようになりました。
 
 
もっとも無力感を感じていた「パートナーシップ」に対しても、相手の顔色を伺わなくなりました。
 
 
無力感を感じていたころ、権力を持っているように見える他人(父、上司、政治家など)を否定し、裁いていました。
 
 
無力感を感じていたころ、お金をたくさん持っていて、僕を支配してくるように見える他人(これまた父、お金持ち、資本主義社会や陰謀論で言うところの「支配層」)などを裁いていました。
 
 
無力感を感じていたころ、僕の幸せを決定づける他人(パートナー)を裁いていました。
 
 
今の僕には、他人に対する裁きは生まれてこなくなりました。(瞬間的に裁くことはあっても戻れるようになりました)
 
 
人は人(自分自身も含む)を裁くとき、自分を正当化する習性があるように思います。
 
 
「私はこれだけやった」とか
「あなた(自分)がこうだからだ」とか。
 
 
人は人(自分自身も含む)を裁くとき、過去や未来に意識が飛ぶ習性があるように思います。
 
 
「じゃあこれから先、どうするの?」とか
「前だってあなた(自分)はこうだったじゃないか」とか。
 
 
人は人(他人や自分)をいつまで裁き続けるのでしょうか。
 
 
人はいつまで無力感のクサリを人(他人や自分自身)につなぎ続けるのでしょうか。
 
 
人はいつまで人(他人や自分)と争い続けるのでしょうか。
 
 
何も危ないことなどないとしたら。
 
 
自分が、世界を「怖れのメガネ」で見ているとしたら。
 
 
怖れのメガネをかけた世界を見ながら、「こんな世界は見たくない。あなた(自分)がなんとかして。」と言われたら。
 
 
僕は、なにもわかりません。
 
 
ただ、怖れは幻だということだけは体感したようです。
 
 
死ぬことすら怖れるに足りないとしたら、一体何を怖れる必要があるのでしょう。
 
 
今日という1日が終わります。