今は仙台の実家です。
4人の子どもと奥さんとともに、鹿児島から帰省しています。
ついさっき、レンタカーを返してきました。タクシーで帰ろうと思っていたら、父の再婚相手でもある新しい母から「弘喜さん、はいこれ」とタクシーチケットを渡されました。
「ありがとう」と自然と受け取り、それを自然と使う僕がいました。
以前の僕ならば、それを使うことは少し抵抗があったのです。
それどころか、きっと帰省費用を父に払ってもらうことすら抵抗があったと思います。
何で受け取れるようになったのかな。
明確な答えはないわけですけど、ひとつ思い当たるのは、「脱等価交換」でしょうか。
2010年にある本を読んでから、僕は「等価交換」をコンセプトにしてきました。価値を提供したら、お金が返ってくる、というものです。
逆に言えば、お金を手にしたければ価値を提供しなさい、ということです。
これはとても理にかなっている考え方だし、実際そういう世界はこの宇宙にあるのだとも思います。
ただ、それだけだとどう考えても割に合わないこともあるのです。
なぜ帰省費用を父はいつも全額払ってくれるのか。
なぜ新しい母はタクシーチケットをさらっとくれるのか。
僕が何か「価値」を提供したからでしょうか。
もちろん「息子の顔や孫の顔を見れる価値」を提供したとも言えなくもありません。
でもここで起きている循環は、そんな記号では計れないものなんだと思います。
噂の「無条件の愛」というもののような気がします。
太陽は、何か価値をもらったから地球に光と熱を与えているわけではありません。
同様に、月も照らす光と等価交換で何かを要求することはありません。
自然界は等価交換などという価値観は必要としていないのです。
人間だけが、等価交換の価値観、文化、考え方、制度を創り上げ、運用し、必須なものにしているのです。
等価交換を前提とした生き方をしていると、「いつも価値を提供しなければならない」人生ができあがります。
さらにそこにお金が絡むと、「いつもお金を稼がなければいけない」人生ができあがります。
お金を稼ぐためには、「競争に勝たなければいけない」とされるのが資本主義的なコンセプトです。
そうしてできあがった「他人の顔色を伺う生き方」。
それは僕の人生そのものでもあったのです。
今、タクシーで仙台の実家に帰ってきてこれを書いています。
気づいたこと。
必要なものは全部あったのです。
大切なものは全部あったのです。
それは、僕が提供した価値とイコールなんかじゃなくて。
無条件に世界から、太陽から、自然から、社会から、父から、奥さんから、子供たちから、友人から、お客さんから、すべての存在から与えられていた豊かさだったのです。
それなのに、未だに帰省中にも隙間時間を見つけて仕事を進めようとする僕がいるのです。
もう一度書きます。
必要なものは全部あったのです。
提供されていたのです。
今この瞬間も提供され続けているのです。
何かを犠牲にして働く必要なんかなかったのです。
(もちろん働くことは相変わらず素晴らしいこの地球上での体験です)
今を大切にして生きたらよかったのです。
もう立派になる必要はない。
もう有名になる必要はない。
もうブログやメルマガで気づきを届ける必要はない。
ただ在ればよかったのです。
いや、よかったとかそういうのもなかったのです。
ただ在る
ただ在るのです。
今この瞬間、心から思います。
亀井弘喜としての人生に、本当に満足しています。
僕が手にしたい体験のすべてが手に入りました。
きっとこれからもそうなります。
大切なものは全部ありました。
これからもそうなります。