昨日は鹿児島で「ただ在る」というワークショップの4回目を開催しました。自分の中でもかなり新しいチャレンジとしてのこの取り組み。何を言い出すのか、何が起きるのか、始まってみなければわからない、という内容です。昨日起きてきたこと(僕が話し出したこと)で、興味深かったことをシェアします。
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「ただ在る、というのがどういう状態なのか、説明することはできません。
でもただ在る状態じゃないのがどういう状態なのかを説明することはできます。
ただ在る状態じゃないのは、"判断する"状態です。
何かを判断しているとき、それが善いものであれ悪いものであれ、そこには"判断"が在るのです。
ただ在るというのは"判断レス"な状態です。
判断しない。
これができているとき、人間は至福に満ちているのだと思います。
皆さんはどんなときに判断していますか?
どんなときに判断せずに過ごしていますか?
また、判断の中でかなり陥りがちな罠は"意味を求める"というものです。
生きる意味は何なのか。
これを問い始めたとき、終わりなき自分探しの旅が始まるのです。
真剣に問い続けた先に待っているのは、絶望的なまでの"意味のない"世界であり、ひょっとしたらそれに絶望したら人間は自殺してしまうかもしれません。
それほどまでに、"意味のなさ"というのは残酷に思えるし、それほどまでに意味を求める心(マインド)があるのです。
生きる意味は、何なのか。
何のために生きるのか。
判断しないのです。
意味を求めないのです。
ただ在るのです。
先日、奥さんと夫婦ゲンカをしたときに、"私たちが夫婦でいる意味って何なの?"と問われました。
僕は答えられませんでした。
夫婦でいる意味を見出だそうとすると、絶望的なまでのその意味は見出だせないのです。
意味を見出だそうとしているとき、僕も奥さんも苦しかったはずです。
今は、夫婦でいる意味を求めるより、一緒にいる喜びを感じています。
それでいいのです。
何で一緒にいるのか。
判断しないのです。
意味を求めないのです。
ただ在るのです。
この意味のなさは、一見厳しくもあり空しくも見えます。
でもそうではありません。
意味がない、広大な白地のキャンパスだからこそ、人生はその人次第、自分次第でどうとでもできるのです。
本当は何もありません。
無です。
そこにどんな世界を創り上げるのか。
それはあなた次第なのです。
意味を求めるのではなく
体験できることを喜びましょう。
意味を求めるのは誰ですか?
自分に問いかけて静かにしてもらいましょう。」
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