幸せの基準値を下げると、ふとしたことで幸せになる。
幸せの基準値が高過ぎると、いつも不満を持つことになる。
サラリーマン時代もそうだったし、独立・起業してからもしばらくは、僕は「幸せの基準値が高い」考え方をしていました。
だから他人にも環境にも、そして本当は自分自身にもいつも不満を抱えて生きていたような気がします。
それはそれで役に立ちました。
何を見ても「改善点」がすぐ見つかるし、改善点を改善したら、成果が出ます。
成果が出れば褒められて、それが僕は嬉しい。
だからもっと改善点を見つけよう。
そんな風にして循環していたのだと思います。
でもその循環が、終わりのないラットレースのように感じられたのが、去年の春でした。
起業したら、改善点はさらに見つかり続けます。
改善を求めるマインドは、暴れます。
そのマインドに自分を任せたら、ゴールのないマラソンを走ってるようできつかったのです。
そんなときヨガと出会いました。(再会と言ったほうが適切かもしれません)
ヨガは、僕の高止まりしている幸せの基準値を大きく下げてくれました。
新しい形の幸せがある。
もう何も求めなくていいんだ。
答えも豊かさも全部「いま」「ここ」にあったんだ。
そんな気づきが、ヨガにはまる深さに比例して訪れたのです。
ピークは去年のタイでのヨガの修行の日々。
そこには、何もないけど、すべてがありました。
これこそが人生の喜びだと思いました。
もう求めるのをやめよう。
目覚めて生きるんだ。
...。
目覚めて生きてみたところで、残酷なほど日常はやってきます。
でももう求めるマインドにやられるような僕ではありません。
「それは執着だよ」
軽やかに交わそうとする「目覚めた」僕。
でも実はその「目覚めた」という立場をとろうとするのは、例のマインドそのものでした。
結局の所、僕は、「執着しない」ということに「執着」していたのです。
しばらくすると、知らないうちに「求めことは悪いことだ」と裁くバランスになっていたのです。
本当は
人生の喜びは無限に広がっていました。
人生の愛は無限に広がっていました。
求めれば、求めるだけ与えられる、喜び、愛、豊かさ。
「幸せの基準値を下げること」
と、
「外側の豊かさを求めること」
は両立可能だったのです。
昨日、自分の主催するライフコーチ養成講座の最中に話していて自分で気づいたことでした。
結構衝撃的でした。
僕は、幸せの基準値は引き続き低いままで生きます。
ヨガとか瞑想とかして内側の豊かさ、一体感に気づきます。
でも同時に僕は、外側の喜び、愛、豊かさを広げます。
自分自身にそれらの滋養を与え続けます。
もうそれはラットレースではありません。
人間としての素晴らしき体験のプロセスそのものです。
その気づきが起きたからといって、今は何一つ変わりません。
でもきっとこの後の出来事には大きな変化があることでしょう。
僕は、僕の講座に来てくれる人のことを本当に大切に想っています。
家族と同じくらい大切です。
もちろんお金をもらっているからには、講師とお客様という関係性「も」あります。
でも同時にもっともっと深いつながりがあることを確信しました。
だから僕は一生懸命、講座をします。
全身全霊をかけて、講座をします。
そのことが、僕自身の外側の喜び、愛、豊かさを実現するのに最も直結するプロセスだったのです。
働くとはそういうことだったのです。
35歳にして、働くことの喜びをさらに味わいました。
今、この瞬間、僕は幸せです。
読んでくださってありがとうございます。