赤ちゃんが生まれてから、何だかフワフワした毎日を過ごしています。
赤ちゃんの存在を目の当たりしたときから、現実の感覚がまた一段階変わった感じです。
その体験のプロセスは、言葉になる部分とならない部分があるのですが、言葉になる部分は忘れないうちに残しておこうと思いました。
奥さんの緊急帝王切開が決まったのが金曜日の15:00頃。
帝王切開だと、「全身麻酔で意識をなくしているうちに出産し赤ちゃんが亡くなる」というリスクがあったため、奥さんは帝王切開をとても嫌がっていたのです。
ショックで泣いて電話してくる奥さん。
病院に駆けつけた僕。
ドラマのような分娩室で、泣いている奥さんと、帝王切開の説明や同意書のサインを淡々と求める若い男性主治医。
救いを求めるように、僕を見る奥さん。
「たしなめてください」と言わんばかりの主治医。
僕は黙って、出来事を受け入れていました。
諦めて、同意書にサインする奥さん。
主治医は部屋から出ていきました。
僕はかける言葉がなくて、何となく、家の固定電話に電話しました。
わが家では、固定電話はもはや長女の優花ちゃん(6歳)のケータイと化していて(笑)、いつも優花が出るのです。
以下、そのときのやりとりです。
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優花:「もしもし」
僕:「ゆうか、パパだよ。」
優花:「(嬉しそうに)どうしたの?」
僕:「赤ちゃん、今から生まれるんだよ。」
優花:「(嬉しそうに)えええええ!!!!」
僕:「でもね、ママのお腹を切って生まれてくるんだって。だからママを応援してあげて。」
優花:「そうなんだね。(そこにはあまり触れずに)じゃあ、今日は赤ちゃんの誕生日ってこと??」
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そのとき、僕は初めて気づきました。
今日が赤ちゃんの誕生日なんだと。
そして瞬間、恐怖に襲われました。
誕生日だけど、そもそも誕生しないリスクもたくさんある。
(事前の説明では無事に生まれるかどうかも半々、と言われていました)
誕生したとしても、すぐに死んでしまうリスクもたくさんある。
(事前の説明では、生まれたとしても呼吸できるかはわからない、と言われていました)
誕生日でもあるけど、命日にもなるかもしれない。
そう思ったら、一瞬のうちに恐怖にとらわれたのです。
そこから抜けられたのは、ゆうかの一言でした。
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優花:「じゃあ、今日は赤ちゃんの誕生日ってこと??」
僕:「(恐怖にとらわれつつ)うん、そういうことになるかな。(と元気をなくす)」
優花:「じゃあ、来年の今日は家族みんなで赤ちゃんの誕生日をお祝いしなきゃね!」
僕:「!!!」
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僕が見ていた世界。
それは、赤ちゃんの誕生日が命日になる恐怖の世界。
優花が見ていた世界。
それは、赤ちゃんの誕生日が誕生日であり続ける健全な世界。
優花の全く心配のエネルギー0の電話越しの声で、僕は恐怖の世界を抜けられたのです。
そこからは、だいじょうぶでした。
だいじょうぶなことがわかったのでした。
誕生日を来年も祝おう。
そう思ったのでした。
そして30分後、すやすやと自力で呼吸している赤ちゃんと対面したのです。(写真はその初対面時のものです)
今日は生まれて3日目の朝です。
赤ちゃんは今日も元気に呼吸をしています。
骨の障がいについて、詳しい検査の結果はまだ出ません。
赤ちゃんの折れ曲がった短い足を見る度に、「歩くことはできないかな」って思う自分がいます。
赤ちゃんの短い腕を見る度に、「手も自由に使えないのかな」って思う自分がいます。
でももうわからないことを心配するのはやめました。
そして、どんな状態であっても、赤ちゃんを全力で愛そうって思いました。
手足が使える側から見たら、手足が使えないことは障がいと呼ぶのでしょう。
でも僕にとっては、健全な命そのものです。
美しい命そのものです。
彼女のことを思う度に涙が止まらないのです。
生きているってことがどれだけ素晴らしいことなのか。
そのことを教えてくれたのが、今回の体験なのです。
ありがとう。
愛しています。