「人は、大切な人のことを理解できないとき、不安に思う」
いつだったか、セミナーで僕の口から出た言葉でした。
仙台の実家に来て、2日が過ぎました。今夜は、父と新しい母と3人で焼肉を食べにいきました。
去年10月タイでヨガの修行に励んだ僕は一時的に完全ベジタリアンとなりました。年末実家に帰ってきたときも、「肉や魚とか、生きている物は食べないから」と父に伝えました。
そのとき、父は、これまで僕が見た父の中で最も不安そうな表情をしていました。
僕が鬱になったときも、
母を急なガンで亡くしたときも、
震災で会社のお金が尽きそうになったときも、
僕が起業して鹿児島に移住すると伝えたときも、
全く動じていなかった父。
それなのに、僕が肉や魚を食べなくなった、と言っただけで、明らかな動揺を見せていたのです。
「人は、大切な人のことを理解できないとき、不安に思う」
というフレーズはこのときの体験からわかったことでした。
しばらくして、身体が魚や肉も受け付けるようになってきた僕。
「もう肉とか魚を食べれるようになったよ」
と父に伝えると、本当に嬉しそうに「じゃあ焼肉食べに行こう」と言って、仙台で一番美味しいであろう焼肉屋に連れていってくれました。
そして久しぶりに食べる肉を美味しく食べる僕を見て、神様のように嬉しそうな表情をしていました。
正直なことを言えば、今でも僕は焼肉を積極的に食べたいとは思いません。鹿児島でも、肉は積極的には食べません。
それでも、あの父の不安そうな表情と、嬉しそうな表情を思い出すと、「今夜は焼肉でいいか?」と聴かれると、「うん」と二つ返事で答えたいのです。
そして、焼肉屋に着き、これでもかとテーブルに持って来られる高級な肉、肉、肉。
すでに満腹なのですが、父親を喜ばせようと無理して平らげる僕。
同じように、父親を喜ばせようとして無理して平らげる新しい母。(死んだ母も同じでした)
幼少期の頃、いつもこんな感じだったなって思い出して懐かしくなりました。
ちなみに、これを投稿している今この瞬間は、ものすごいもたれていて苦しいです(笑)。
でも幸せな苦しさです。
ありのまま生きる、ということを僕は少し誤解していたように思います。
もちろんありのままの自分軸で生きるというスタンスに変わりはないわけですが、ちょっと嘘ついて焼肉が大好きな良く食べる息子を演じてる自分もちょっとかわいいなって思うのです。
ありのまま生きることはもちろん素晴らしい、愛そのもの。
でも、ありのままではなく、他人軸になってみたり、少し嘘をついて生きる人たちだって、結局は愛そのもの。
全部愛そのものなんだから、何を怖れる必要があるんだろう。
きっと僕は父が生きている限り、焼肉が大好きな良く食べる息子でいるはずです。
焼肉はどうだってよかったのです。
父は、僕の喜ぶ姿を見たい。
僕は、父の喜ぶ姿を見たい。
その親子の絆、体験こそが、大切なことだとわかったのです。
来月もまた仙台に来ます。
またそのときも焼肉食べて、もたれて、「もたれました」ってブログにでもつぶやこうかな。
明日、東京経由で再び大好きな鹿児島に帰ります。