私のブログをご覧いただき、有難うございます。

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

今回の議会では、
予算や中学校統合をめぐって様々な議論がありました。

私はその中で

・予算特別委員会での質問
・附帯決議の提出
・本会議での反対討論

を行いました。

結果として、
附帯決議は

賛成3名、反対16名

で否決となりました。

数字だけ見れば、
少数意見だったということになります。

しかし今回の議会を通じて、
私は改めて一つのことを感じました。

それは

議会とは、政策の前提を問い続ける場所だ

ということです。

議会では、
すべての意見が通るわけではありません。

しかし

・なぜその政策が必要なのか
・どのような前提で決まっているのか
・別の選択肢はないのか

こうした問いを
公開の場で示すことには意味があります。

地方政治は、
一度の議決で終わるものではありません。

議論は積み重なり、
少しずつ地域の方向を形づくっていきます。

今回の議会をきっかけに、
地方政治の仕組みや議会の役割について
少しずつ書いていきたいと思います。



【議会報告】第4次北杜市総合計画に反対しました。


「北杜市は、どんなまちを目指すのか。」

「総合計画とは、都市の未来を選ぶ計画です。」

北杜市議会では、第4次北杜市総合計画基本構想(今後10年間の市政の方向性)が採決されました。

私はこの議案に反対しました。

理由は、本計画から
北杜市がどのような都市を目指すのかという戦略が十分に見えてこなかったためです。

総合計画には、

・子育て
・福祉
・教育
・産業
・観光
・環境
など多くの政策分野が掲げられています。

しかし、人口減少が進むこれからの時代において、すべてを同時に進めることは難しくなります。

総合計画とは、本来
「北杜市はどのような都市を目指すのか」
という方向性を示すものです。

また、総合計画は行政の計画ではなく、
市民全体の計画(自治体計画)
であるべきものです。

そのため議会としても、この計画に責任を持って判断する必要があります。

今回の基本構想は理念としては理解できる部分も多いものの、都市の選択という点ではまだ議論を深める必要があると考え、私は反対しました。

北杜市は、どんなまちを目指すのか。

この問いについて、これからも市民の皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

皆さんは、北杜市はどんなまちになってほしいと思いますか?




「北杜市の将来に関わる予算だからこそ、私は反対しました。」

本日、北杜市議会で令和8年度一般会計予算の採決が行われました。
私はこの予算に反対しました。

反対した理由は大きく三つあります。

■① 政策決定の順序の問題

今回の予算には

統合中学校整備基本設計費 約4億6850万円

が計上されています。

基本設計とは単なる設計ではありません。
学校の規模や配置などを決める、事業の方向性を事実上確定させる段階です。

しかし現時点では

・通学条件
・冬季の通学安全
・総事業費
・長期財政負担
・新築以外の選択肢

などについて、議会として十分な検証が行われたとは言えません。

北杜市の将来に関わる重要な政策だからこそ、

検証 → 議会審議 → 政策判断

という順序を守るべきだと考えました。

■② 予算の前提が不安定

今回の予算は

「賃上げによる経済成長で税収が増える」

という前提で組まれています。

しかし現在

・原油価格上昇
・円安
・物価高

世界経済は非常に不安定です。

このような状況の中で
前年度より約8.7億円増の予算を組むことには
慎重さが必要だと考えました。

■③ 公費支出の公共性

今回の予算には

「北杜女性みちの会活動事業費」
約174万円

が計上されています。

しかし

・一般公募ではない団体
・特定団体の記念事業

に対する公費支出については、公共性の観点から慎重な検証が必要だと考えました。

■最後に

地方議会の役割は
行政の判断をそのまま追認することではありません。

市民の負託を受けて
政策を検証し、説明可能な形で意思決定を行うことです。

北杜市の将来に関わる予算だからこそ、
私は今回の予算に反対しました。

議会では様々な意見があります。

私はこれからも

市民に説明できる政策決定

を大切にしていきたいと思います。

皆さんはどう思われますか

北杜市議会議員
飛矢﨑雅也




【中学校統合の目的は何か】



中学校統合の議論が進んでいます。



しかし今、改めて共有したい問いがあります。



統合の「目的」は何でしょうか。



・財政の効率化でしょうか

・教育環境の向上でしょうか

・教員確保の安定でしょうか

・部活動や集団規模の確保でしょうか



もし教育の質を高めることが目的であるならば、

「何がどう良くなるのか」を具体的に示す必要があります。



通学時間はどうなるのか。

地域との関係はどう変わるのか。

不登校や特別支援への対応はどう改善されるのか。

子どもたちが今より安心して、伸び伸びと学べる環境になるのか。



統合の賛否を急ぐ前に、

まず目的を明確にし、共有することが大切だと考えています。



【北杜らしい教育とは何か】



では、私たちはどんな教育を目指すのでしょうか。



・自然を生かした探究的な学び

・少人数で対話を重ねる授業

・地域と連動した実践的な学習

・身体性を大切にする教育



統合の議論は、その実現手段の一つに過ぎません。


教育の姿を描かずに、手段だけを先に決めることがあってはならないと思います。



私はその説明を行政に求め続けるとともに、

市民の皆さんとも一緒に考えていきたいと思います。



そこで、ご案内です。



統合の賛否を決める場ではありません。

「どんな教育を目指すのか」を

市民同士で率直に語り合う対話の場を設けました。



統合の目的、教育の質、通学の負担、

余る校舎の活用など、

さまざまな視点から意見を出し合えればと思います。



どなたでも参加できます。



私も一参加者として出席し、

そこで出された声を議会に届けていきます。



3月1日(日)14時〜16時

甲斐駒センターせせらぎ多目的ホール





#北杜市

#中学校再編整備

#こんな学校あったらいいな



私のブログをご覧いただき、ありがとうございます。

 

先日、北杜市立白州小学校を視察しました。
きっかけは、白州小学校にお子さんを通わせているある保護者から、
「不登校だった息子が、宮下先生が担任になってから学校に通えるようになった」
という話を聞いたことでした。

 

北杜市においても、不登校の増加は顕著です。
そうした中で、「学校に通えるようになった授業とは、どのような授業なのだろうか」と思い、視察をお願いしました。
学校のご配慮により、今回の訪問が実現しました。



当日は、給食の時間から学校に入らせていただきました。
白州小学校では、1年生から4年生までの児童が一堂に会し、ランチルームで給食をとっています。
コロナ禍以前は全学年が一緒に食事をしていたそうですが、現在は対面を避ける形でこの運用になっているとのことでした。

 

印象的だったのは、すべての教員が給食指導に当たるのではなく、
教員の一部は職員室で給食をとり、別の業務にあたっている点です。
これは、教職員からの提案を受け、働き方改革の一環として昨年の夏休み明けから始められた取り組みだそうです。
また、同じく教職員の提案により、授業時間を調整して、月に2~3回行われる会議の終了時刻を早める工夫も行われていました。

 

ただし、こうした実践は、1学級20名以下という小規模校である白州小学校だからこそ可能な面もあり、
すべての学校で同様に実施できるわけではない、という説明も校長からありました。

 

ランチルームは、4学年の児童が集まってもなお、ゆとりのある開放的な空間でした。
コロナ禍も落ち着いてきたことから、近い将来、再び全学年で給食をとる形に戻す予定だそうです。
私自身が通っていた小学校では、40人学級が1学年4クラスあり、教室で児童が密集する形で給食をとっていましたので、
その違いも含め、とても新鮮に感じました。

 

給食後から5時限目までの時間は、休み時間と清掃の時間でした。
その間、校内を自由に回らせていただき、「校内支援教室(ステップルーム)ひまわり」で支援員の方からお話を伺いました。

 

ステップルームは、教室に入りにくい児童生徒に学校内での居場所を保障し、
社会的自立に向けた支援を行う場として、令和6年度から北杜市内のすべての小中学校に設置されたものです。
設置から1年以上が経過していますが、実際の運用には多くの課題があることも率直に語られました。

 

特に人員不足は深刻で、多様な子どもたちに支援員1人で対応する難しさ、
手引きが十分でない中で手探りの対応を続けている現状、
支援員向けの研修や他校との情報交換の機会の必要性、
さらには勤務時間や処遇の問題など、現場の切実な声を聞かせていただきました。

 

清掃の時間が終わり、いよいよ宮下先生の授業が始まりました。
今回の視察は、市議会議員としての立場を明確にしたうえでの訪問でしたが、
授業には「参観」ではなく、「参加」という形で関わらせていただきました。

 

算数「分数」の授業は、私自身がかつて受けてきた授業とは大きく異なるものでした。
教員から一方的に教えられるのではなく、
児童と教員が一緒になって授業をつくり上げていく――
児童は「授業を受ける」というより、「授業に参加している」という印象でした。

 

私自身も、児童と一緒に考え、歌い、ゲームをしながら授業に参加しました。
算数で歌い、考え、身体を動かす中で、
学ぶという行為が、これほど身体的で、関係的な営みなのだということを、
児童とともに体感させてもらいました。


これまで、授業は誰が担当しても、同じような教え方で行われるもの、
という前提が、どこかにあったように思います。
しかし今回の授業を通して、到達目標は同じであっても、
教え方は教員それぞれが編み上げていくものになり得るのではないか、
そして、その過程には児童の参加が不可欠なのではないか、
ということを強く感じました。

 

そういう意味では、授業は、
あらかじめ用意された「型」をなぞるものから、
教員と児童がともにつくり上げていく営みへと、
少しずつ転換していく必要があるのではないかと思います。

 

今回の視察を通じて、政策判断の前に、現場の事実に触れることの大切さを、改めて確認しました。
議会や行政の場では、どうしても数字や制度設計の議論が中心になりますが、
現場には、そうした言葉だけでは捉えきれない現実があります。

 


教育をめぐる課題は、個々の教員や子どもたちの努力不足として語られるべきものではありません。
むしろ、そうした努力に過度に依存してしまっている仕組みそのものを、
どう見直していくのかが問われているのだと思います。

 

教育を「善意」や「献身」だけに委ね続けるのではなく、
現場の実情を踏まえた制度や環境をどう整えていくのか。
その前提として、まず現場に触れ、声に耳を傾けることが重要だと感じています。

 

これからも、子ども・教員・地域を対立させるのではなく、
対話を重ねながら、現場に学び続けていきたいと思います。

 

「学校に通えるようになる授業」とは、どんな授業だと思いますか?



私のブログをご覧いただき、有難うございます。


政策で選ばれる政治は、もはや当たり前ではなくなっている。

その現実を、どう受け止めるべきなのか。


以下、同じ問題を三つの視点で書いています。

関心のあるところから読んでください。


1「政策が判断基準にならなくなった構造」


政策は、もはや判断基準になっていない。

そもそも、政策そのものが理解されていない。

そして、政策を吟味し、比較するための教育も経験も、圧倒的に欠落している。


理由は明確だ。

この社会では「批判すること」そのものが忌避され、

あたかも悪であるかのように扱われてきた。

その環境で、政策を比べ、是非を論じる議論など、成立するはずがない。


前提となる政治的知識が、あまりにも不足している。

東京大学卒でありながら、「参議院に解散がある」と本気で思い込んでいる人物。

アラスカを、アメリカの州ではなく独立国だと信じて疑わない早稲田卒の女性。


それでも彼らは、何の不都合もなく「高学歴」として社会を通過する。

なぜならこの国では、体系的な政治教育を受けなくても、

進学にも卒業にも、ほとんど支障がないからだ。


結果として、日本では学歴と教養が、まったく比例しない。

その空白を埋めているのは、

雰囲気、空気、イメージである。


政策ではなく、印象で政治家の「善悪」を判断し、

それ以外の尺度を持たない有権者は、もはや少数派ではない。


「正義」や「正論」を訴えれば、有権者の良心は呼び覚まされる。

──野党が抱いてきた、この種の期待は、すでに破綻している。

なぜなら、そもそも良心以前に、

それを共有する政治的前提そのものが、溶解してしまっているからだ。


善悪の評価は、ひとまず脇に置こう。

問題は、現下の有権者の感覚を直視せず、

彼らの政治的成熟度を、過剰に高く見積もったことにある。

その誤認こそが、野党の破滅を招いた。


この現実は、おそらく当事者にとって、認めがたいだろう。

しかし、それをまず事実として是認すること。

そこからしか、野党再建への道は始まらない。


それが、きわめて小さく、

しかし不可欠な一里塚である。


2「なぜ、政策の議論が成立しにくくなったのか」


政策は、いまや多くの人にとって主要な判断基準ではなくなっている。

そもそも、政策そのものが十分に理解されているとは言い難い。

そして、政策を吟味し、比較するための教育や経験が、社会全体として不足している。


背景には、「批判すること」への強い忌避感がある。

異なる意見を出すこと自体が対立や分断と結びつけられ、

結果として、政策の是非を冷静に論じる空間が縮小してきた。


前提となる政治的知識も、決して十分とは言えない。

高い学歴を持ちながら、政治制度や国際関係について

基本的な誤解を抱いたまま社会に出ることは、珍しいことではない。

この国では、体系的な政治教育を受けなくても、

進学や卒業に大きな支障は生じないからだ。


その結果、学歴と教養、あるいは政治的判断力が、

必ずしも結びつかない状況が生まれている。

判断を支えているのは、政策の中身よりも、

雰囲気や空気、イメージである場合が少なくない。


「正義」や「正論」を訴えれば、

有権者の良心に訴えかけられる——

そうした前提に立った政治のあり方は、

いま大きな転換点に立っている。


問題は誰が善で誰が悪か、という話ではない。

現実の有権者の感覚をどう捉え、

どのような前提から政治を組み立て直すのか。

そこを直視しなければ、再出発は難しい。


この認識から始めること。

それが、遠回りに見えても、

次につながる最初の一歩になるのだと思う。


3「政治が分からないままにされてきた理由」


いまの政治は、

「政策で選ばれている」とは言いにくい。


多くの場合、

政策の中身はあまり理解されていないし、

比べて考える機会も、ほとんど用意されていない。


理由は単純だ。

この社会では、

「批判すること=悪いこと」

「意見が違う=面倒なこと」

という空気が強すぎる。


その結果、

政策について話す前に、

話すこと自体が避けられてしまう。


学校でも、

政治の仕組みや考え方を

きちんと学ばなくても卒業できる。

だから、学歴があっても

政治についてはほとんど知らない、

という状態が普通に起きる。


その空白を埋めているのが、

雰囲気、ノリ、イメージだ。


「なんとなく強そう」

「なんとなく良さそう」

そんな印象で、政治が選ばれていく。


「正しいことを言えば、分かってもらえる」

そう信じたい気持ちは自然だ。

でも、そもそも

何が正しいかを一緒に考える土台が

崩れてしまっている。


だから必要なのは、

いきなり答えを押しつけることではなく、

「考える前提」を取り戻すことだと思う。


政治は、特別な人のものじゃない。

分からないままにされてきた仕組みを、

一つずつ言葉に戻していくこと。

そこからしか、

本当の意味での選択は始まらない。



同じ現実を、違う言葉で書いた。

立場も知識も違う人が、同じ場所から考え始めるために。


答えを急ぐ必要はない。

ただ、この現実を直視することからしか、

政治は取り戻せない。

いつも私のブログをご覧いただき、有難うございます。


最近の選挙では、SNS時代の民主主義の弱点が窺われます。


① 拍手が「正しさ」に見えてしまう

SNSでは

いいね・シェア・再生数=支持の多さ

として可視化されます。

その結果、

数が多い=正しい

と錯覚が生まれやすくなります。


② 強い言葉が残り、慎重な言葉が消える

アルゴリズムは、

怒り

自信満々な断定

分かりやすい敵味方

を優先して拡散します。

その一方で、

条件付きの説明

不確実性を含む議論

地味だが重要な前提

は届きにくくなります。


③ 討論が「応援」に置き換わる

本来の民主主義は、

反論があり

修正があり

考え直す余地がある

ものです。

しかしSNSでは、

異論=ノイズ

批判=敵

としてミュートされやすく、

討論が応援上映に変わる危険があります。


まとめ

民主主義は、

「一番拍手された人を選ぶ制度」ではありません。

情報を知り、比べ、迷い、判断する。

その手間を引き受けることが、主権者の役割です。




私のブログをご覧いただきまして、有難うございます。


現在の物価高は、賃金上昇や消費の過熱によるものではなく、

円安と輸入物価の上昇によって国民生活が圧迫される
「コストプッシュ型インフレ」です。
専門家も、国民が疲弊している状況だと指摘しています。

にもかかわらず、高市早苗自民党総裁は、
「輸出産業にとっては大チャンスだ」
「外為特会の運用はホクホク状態だ」
と発言しました。

仮に円安によって一部の輸出企業や会計が利益を得ているとしても、
その利益が、物価高に苦しむ国民の暮らしに
どのように還元されるのかについての説明はありません。

さらに看過できないのは、こうした発言がなされた時期と前後して、
高市氏が代表を務める政党支部が、
国と契約関係にあるトヨタ関連企業などから、
選挙直前に企業献金を受けていた疑いが報じられていることです。

もちろん、これだけで因果関係を断定することはできません。
しかし、
「円安を歓迎する発言」と
「円安で利益を得る可能性のある企業からの献金」
が重なって見える状況そのものが、
国民の政治不信を招く重大な問題だと思います。

政治が向き合うべきは、
円安で利益を得る一部の主体ではなく、
物価高に苦しむ圧倒的多数の国民の暮らしのはずです。

主権者として、こうした事実関係を知り、
誰のための政治なのかを考えた上で、
責任ある一票を投じたい。

そのために、この発言と報道を共有します。



私のブログをご覧いただきまして、有難うございます。


NHK『日曜討論』は、

首相が自らの言葉で国民に説明する、極めて重要な公共の場です。
その場を、直前まで出演が告知されていたにもかかわらず急遽欠席したこと、
しかも同時期に、旧統一教会との関係をめぐる重大な報道が続いていることについて、
国民が疑問を抱くのは自然なことだと思います。

高市首相はこれまで、
旧統一教会との間に、選挙協力や関連行事への参加、
金銭のやり取りはいずれも存在しないと説明してきました。
しかし「週刊文春」により、
2019年の政治資金パーティーにおいて、
教団と関係の深い世界平和連合奈良県連合会が
パーティー券を購入していた事実が、内部資料から報じられています。

それに対し、事務所は「適切に処理した」と説明するにとどまり、
具体的な経緯や判断の過程については踏み込んでいません。
また、総裁選前に韓鶴子氏を「知らない」と説明していた一方で、
教団の内部文書には高市首相の名前が30回以上記されていると報じられており、
単なる偶然として受け止めることは難しい状況です。

問題は、金額の多寡ではありません。
国民に対して、これまで正確で十分な説明がなされてきたのか、
そして疑念が生じた今、
それに真正面から向き合う姿勢が示されているのか、という点です。

こうした中での討論番組欠席という対応は、
追及を避けているのではないかという疑念を、
かえって強める結果になっているように感じます。

安全保障や対中姿勢などを評価し、
高市首相を支持してきた層が沈黙していることにも、
私は違和感を覚えます。
支持するからこそ、説明を求める。
それが民主主義における健全な姿勢ではないでしょうか。

同じ公人として、
疑惑の有無以上に重要なのは、
曖昧さを残さず、国民に向き合い、
関係の全容と明確な決別を自らの言葉で示すことです。
それこそが、政治家の資質であり、
国民の信頼に応える最低限の責任だと考えます。



私のブログをご覧いただき、ありがとうございます。

ブルース・スプリングスティーンが、
国家による暴力と移民への弾圧に抗議する新曲
「Streets Of Minneapolis」を緊急発表しました。

注目すべきは、曲の是非そのもの以上に、
「なぜ彼が迷わず政治的表現を選べたのか」
という点だと思います。

アメリカでは、
国家権力による暴力に対して、
国民的ミュージシャンが歌で抗議します。

それを特別な「勇気」だとは、
彼自身は言っていません。
「今、歌わずにいられなかった」
ただ、それだけなのです。

ブルース・スプリングスティーンの新曲が問いかけているのは、
アメリカ社会だけではありません。

日本ではどうでしょうか。
芸能人や表現者が政治について語ると、
「黙っていろ」「仕事に影響する」と、
沈黙を求められることが少なくありません。

そして地方では、
市民が声を上げると、
「空気を乱すな」「面倒な人だ」と、
距離を置かれてしまう場面もあります。

しかし、地方政治の現場に身を置いていると、
よく分かることがあります。

声を上げなければ、
決まっていくのは、いつも“誰かの都合”です。
声を上げなかった結果は、
必ず、私たちの生活や、
子どもたちの未来に返ってきます。

民主主義は、
選挙の日だけ存在するものではありません。
日常の中で、
「おかしい」と言っても排除されないこと。
それが守られて、はじめて成り立つものだと思います。

国家の暴力に、歌で抗議するロックがある国。
政治を語るだけで「黙れ」と言われる国。

それは、
公共の言葉が行き交う空間がある社会と、
それが痩せ細ってしまった社会との違い
なのかもしれません。

政治を語ることは、
特別な人の仕事ではありません。
東京だけの話でもありません。

地方で生きる私たち一人ひとりが、
暮らしの中で、
声を持ち続けられるかどうか。

ブルース・スプリングスティーンの歌は、
その問いを、
遠い国の出来事としてではなく、
私たち自身の社会の問題として
静かに、しかし確かに突きつけています。