私のブログをご覧いただき、有難うございます。


北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

昨日、高根農村改善センターで開催されている中部横断自動車道(双葉JCT~長野県境)に関する「説明コーナー」を訪ねてきました。



会場にはルート案や環境影響評価に関するパネルが並び、多くの行政関係者が対応に当たっていました。

 

中部横断自動車道は、私が政治活動を始めて以来、関心を持ち続けてきた重要な課題の一つです。

 

この問題は単なる道路建設の是非ではありません。

 

公共事業、自然環境、観光、地域経済、移住・定住、防災、そして地域の将来像など、多くの要素が複雑に絡み合っています。

 

しかし現実には、「賛成か反対か」という単純な対立構図で語られることが少なくありません。

 

私自身は、中部横断自動車道の建設そのものに反対しているわけではありません。

 

むしろ、

 

「どのルートが北杜市全体の将来にとって最も望ましいのか」

 

を丁寧に検討することこそ重要だと考えています。

 

その立場から、議員として初めて迎えた令和6年12月議会では、

 

「双葉JCT―明野―増富―信濃川上―小海―八千穂」

 

というルートの可能性について提案しました。

 

現在検討されている長坂経由案と比較した場合、

 

・須玉地域や増富地域の活性化につながる可能性があること
・双葉JCTへより直接的に接続できること
・標高の低い地域を通ることで勾配を緩やかにできる可能性があること
・中央自動車道須玉~長坂間のチェーン規制区間への依存を減らせる可能性があること

 

などが理由です。

 

そこで今回の説明コーナーでは、まず担当者に、

 

「なぜ示されている案はいずれも野辺山方面を通る前提になっているのですか」

 

と尋ねました。


担当者からは、

 

「長野県側でそのようになっているからです」

 

との説明がありました。

 


私はさらに、

 

「川上村方面を通るルートについて検討されたことはないのですか」

 

と尋ねましたが、明確な回答は得られませんでした。

 

また、

 

「双葉JCTから明野、増富、信濃川上を経由するルートであれば、距離や勾配の面で有利になる可能性があるのではないですか」

 

ともお伝えしました。

 

その後のやり取りの中で、担当者からは、

 

「ここまで来て後戻りはできない」

 

という趣旨の発言もありました。

 

しかし私は、

 

「まだ正式決定ではない以上、今こそ改めて考えることができる最後の機会ではないでしょうか」

 

と申し上げました。

 

今回の説明コーナーを訪ねて改めて感じたことがあります。

 

それは、ルートそのもの以上に、

 

「どのような過程を経てそのルートが選ばれたのか」

 

という問題です。

 

一昨年12月、須玉ふれあい館で開催された山梨県都市計画公聴会では、多くの公述人から、

 

「住民の意見が十分に反映されていない」

 

「比較検討されるべきルート案について説明が不十分だった」

 

という指摘がなされました。

 

印象的だったのは、原案に反対する人も賛成する人も、

 

「住民への説明が十分ではない」

 

という点については共通した問題意識を持っていたことです。

 

私は、この問題の本質は単なるルート論争ではないと思っています。

 

本当に問われているのは、

 

「なぜその案なのか」

 

「他の選択肢は本当に検討されたのか」

 

「地域全体の将来にとって最善なのか」

 

という問いに対して、行政が十分な説明責任を果たしているのかということです。

 

道路に限りません。

 

学校統合もそうですし、公共施設整備もそうです。

 

地域の将来を左右する大きな政策ほど、結論だけではなく、その決定過程の透明性と正当性が重要になります。

 

行政が理由を示し、市民が意見を述べ、互いに議論を重ねながら合意形成を図っていく。

 

それこそが民主主義の基本であり、公共事業が真に「公共」のものとなるための条件ではないでしょうか。

 

私はこれからも、中部横断自動車道を単なる賛成・反対の問題としてではなく、

 

「北杜市の未来をどのように描くのか」

 

という視点から考えていきたいと思います。

 

そして、どのような結論になるとしても、その結論が市民に開かれた議論の上に築かれることを願っています。

 

中部横断自動車道が、多くの人に利用され、愛され、地域の発展に資する真の公共道路となることを願っています。

 

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昨日、第2回「統合中学校にかかる特別委員会」が開催されました。

 

委員会では、参考人として北巨摩教育会館代表理事の山田氏が出席され、統合による教育環境改善について意見陳述が行われました。

 

私は参考人質疑の中で、

 

・学校規模といじめ、不登校との関係
・養護教諭や支援体制
・教員加配
・学校間連携、小中連携
・部活動地域移行
・通学負担

 

などについて質問しました。


「教育環境改善は必要」という点では共通認識がある

今回の議論を通じて、改めて感じたのは、

 

「現在の教育環境には改善すべき課題がある」

 

という点については、一定の共通認識が存在しているということです。

 

例えば、

 

・支援を必要とする子どもの増加
・教員不足や加配の重要性
・養護教諭の負担増大
・学校間連携、小中連携の必要性
・部活動地域移行への対応

 

などについては、参考人からも重要性が認められました。


しかし、「だから2校統合しかない」のか

一方で、今回の議論で私が強く感じたのは、

 

「教育環境改善が必要」

 

ということと、

 

「だから2校統合しかない」

 

ということは、必ずしも同義ではない、という点です。

 

例えば、

 

・加配教員の充実
・ICT活用
・学校間連携
・小中連携
・地域スポーツや社会教育活動との連携

 

などによって、小規模校の課題改善を図る方向性もあり得ます。

 

また、通学負担や長距離スクールバス、不登校傾向のある子どもへの影響などについても、なお慎重な検討が必要だと感じています。


「統合賛成・反対」だけでは見えなくなるもの

現在の議論は、どうしても

 

「統合に賛成か反対か」

 

という対立的な構図で語られがちです。

 

しかし本来重要なのは、

 

北杜市の子どもたちにとって、
どのような教育条件が本当に必要なのか

 

という点だと思います。

 

学校は単なる施設ではありません。

 

地域の未来、人間関係、子どもの育ち、地域文化とも深く関わっています。

 

だからこそ、

 

・教育条件をどう整えるのか
・地域性をどう考えるのか
・通学や支援体制をどう保障するのか

 

を、丁寧に確認していく必要があります。


今回見えてきた「大きな到達点」

今回の特別委員会で見えてきた大きな点は、

 

議論が少しずつ、

 

「統合するか否か」

 

だけではなく、

 

「教育条件をどう整えるのか」

 

という、より本質的な方向へ移り始めたことです。

 

私は今後も、

 

統合ありきではなく、

 

北杜市の地域条件や子どもたちの実情を踏まえながら、

 

本当に必要な教育環境とは何か

 

を、丁寧に確認していきたいと思います。

 

 

 

 

 

私のブログをご覧いただき、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

5月18日から19日にかけて、滋賀県大津市の全国市町村国際文化研修所(JIAM)で開催された「自治体決算の基本と実践~行政評価を活用した決算審査~」研修に参加しました。

 

今回の研修は、単なる「決算審査の技術研修」ではありませんでした。

 

むしろ私にとっては、

 

「議会とは何か」
「自治とは何か」

 

を改めて問い直す二日間でした。

 

研修では、決算とは「予算で決められた使い道通りに使われたか」、そして「その結果、効果があったのか」を確認するものだと整理されました。

 

つまり決算審査とは、単に数字が合っているかを確認することではありません。

 

その政策が、市民生活にどう作用したのかを検証する行為です。

 

予算・決算には、教育、福祉、インフラ、公共施設、上下水道、人口減少対策、財政運営など、自治体全体の政策選択が表れます。

 

つまり、予算・決算とは、単なる会計処理ではなく、自治体の政治そのものです。

 

何を優先するのか。
どこへ資源を配分するのか。
将来にどのような負担を残すのか。

 

そこには、自治体の価値判断が具体的に表れます。

 

特に印象的だったのは、藤枝市議会の取り組みでした。

 

藤枝市議会では、決算審査を単年度で終わらせず、

 

決算

行政評価

提言

翌年度予算への反映確認

 

という政策改善サイクルを制度化していました。

 

これは、議会が単に行政の提案を審査するだけではなく、行政を継続的に評価し、改善へつなげる主体になるということです。

 

一方で、ここには大切な論点もあります。

 

地方自治法上、議会の意思は最終的には本会議で決定されます。委員会は、あくまで本会議の補助機関です。つまり、予算・決算のように市政全体を左右する案件については、一部の委員だけで実質的に決めてしまうのではなく、全議員による公開の議論を通じて判断されるべきだという考え方があります。

 

これが、いわゆる本会議中心主義の考え方です。

 

だからこそ、予算・決算を全議員で審査することには、

 

全議員参加による民主的正統性
市政全体を全議員で見る意味

 

があります。

 

特に北杜市のように地域ごとの事情が大きく異なる自治体では、「市政全体を全議員で見る」ことの意味は非常に大きいと思います。

 

しかし同時に、現代自治体の政策課題は、単年度審査だけでは追い切れないほど複雑化しています。

 

公共施設マネジメント、起債管理、PPP/PFI、行政評価、中長期財政推計、DX・AI、人口減少対応など、継続的かつ専門的な分析が必要な課題が増えています。

 

ここで問われるのが、

 

民主性と専門性をどう両立させるか

 

という問題です。

 

藤枝市議会の方式は、その一つの答えだと感じました。

 

予算は政治的意思決定であるため、全員参加を重視する。
決算は行政評価・監視であるため、継続性と専門性を重視する。

 

さらに2年交代制によって、固定化や情報独占を防ごうとしている。

 

これは、本会議中心主義と専門性を両立させようとする、非常に洗練された制度設計だと感じました。

 

北杜市議会の定数は20名であり、藤枝市議会の22名と規模的にも近い。その意味で、藤枝市方式は北杜市にとっても十分参考になり得るモデルです。

 

私はこれまで北杜市議会で、

 

「内容の前に、まず決め方、つまりプロセスを検証すべきではないか」

 

という問題提起をしてきました。

 

中学校統合問題、公共施設再編、上下水道、財政運営、大型事業。

 

これらはすべて、単年度の賛否だけでは判断できません。

 

なぜその政策なのか。
他の選択肢はなかったのか。
どこで、誰が、どのように決めたのか。
将来負担はどうなるのか。
市民に説明可能なのか。

 

こうした問いを、議会が継続的に確認していく必要があります。

 

ただし、制度を変えれば自動的に議会が良くなるわけではありません。

 

本当に重要なのは、制度そのものよりも、議会文化です。

 

前年度の指摘事項を追跡する。
附帯決議の履行を確認する。
行政評価を活用する。
大型事業を継続的にレビューする。

 

こうした「議会として継続的に記憶する仕組み」がなければ、どのような制度を導入しても形だけに終わってしまいます。

 

その意味で、北杜市議会において現実的なのは、いきなり制度を大きく変えることではなく、全議員参加型の特別委員会を維持しながら、そこに常任委員会的な継続監視機能を埋め込んでいくことではないかと思います。

 

つまり、

 

常任委員会化そのものではなく、特別委員会の継続監視化

 

です。

 

決算指摘事項一覧表を作る。
翌年度予算への反映を確認する。
附帯決議の履行を追跡する。
常任委員会と連携する。
大型事業を継続的にレビューする。

 

こうした仕組みを積み重ねることで、全議員参加の民主性を守りながら、継続監視と専門性を高めることができます。

 

今回の研修を通じて改めて感じたのは、議会改革とは、単なるICT化やペーパーレス化ではないということです。

 

本当の議会改革とは、

 

議会を“追認機関”から、“評価と提言の機関”へ転換すること

 

なのだと思います。

 

人口減少、公共施設老朽化、インフラ更新、財政制約。

 

これからの自治体は、単年度の視点だけでは運営できません。

 

だからこそ地方議会には、

 

自治体の時間軸を継続的に監視する機能

 

が求められています。

 

議会は、単なる「終点」ではありません。
行政が出してきたものを可決するか否決するかだけの場所でもありません。

 

本来の議会は、

 

去年を検証し、今年を確認し、来年へ提言する場所

 

です。

 

そして自治とは、単に「地方が決めること」ではありません。

 

地域が、自らの未来に責任を持ち、政策を評価し、必要に応じて修正し続けること

 

なのだと思います。

 

今回の研修は、私にとって、決算審査の実務を学ぶ機会であると同時に、北杜市議会のあり方、そして自治のあり方を深く考える機会となりました。

 

今後の議会活動に、しっかりと活かしていきたいと思います。

 

 

 

 

 

芹沢鴨 という人物は、不思議な存在である。

 

彼は単なる剣豪ではない。
単なる乱暴者でもない。
そして単なる敗者でもない。

 

だからこそ、今日に至るまで人々は彼について語り続ける。

 

もし彼が、新選組の一隊士として死んでいたならば、おそらくここまで歴史に名を残すことはなかっただろう。
しかし彼は局長だった。
組織の頂点に立った人物だった。

 

だから彼の死は、単なる剣士の死ではなく、「権力者の失墜」として歴史に刻まれたのである。

 


 

芹沢は、おそらく極めて強い人物だった。

 

それは単なる剣技ではない。

  • 威圧
  • 胆力
  • 暴力性
  • 人を呑む空気
  • 相手を萎縮させる力

そうした「剥き出しの生命力」を持っていた可能性が高い。

 

実際、近藤勇らは彼を正面から排除しなかった。
夜襲という形を取った。

 

これは逆に言えば、彼ら自身が芹沢を危険視していたことを意味する。

 

つまり彼は、「まともに相手をしたくない人物」だったのである。

 

しかし問題はそこではない。

 

問題は、

 

「なぜ、そのような人物が敗れたのか」

 

である。

 


 

ここで重要なのは、芹沢が単なる剣士ではなく、「局長」だったという点である。

 

もし彼が一剣士ならば、

  • 豪胆
  • 武勇
  • 暴力性

だけでも伝説になり得た。

 

しかしトップは違う。

 

トップに求められるのは、単なる戦闘力ではない。

  • 内部対立を読む力
  • 忠誠の変化を察知する力
  • 自己保存能力
  • 権力均衡感覚
  • 組織維持能力

である。

 

つまり、

 

「生き残る力」

 

である。

 

ここで思い出されるのが、エリアス・カネッティ の言葉だ。

「権力者とは、あとに生き残る者である。」

この言葉は冷酷である。
 

しかし、権力の本質を突いている。

 

どれほど、

  • 強くても
  • 恐れられていても
  • 魅力的でも、

死ねば終わりなのである。

 

しかも芹沢は、外敵との戦いで敗れたのではない。

 

内部権力闘争によって敗れた。

 

つまり彼は、「豪傑」ではあったが、「最後に残る者」にはなれなかったのである。

 


 

では、芹沢は単なる「無能な権力者」だったのか。

 

私はそう単純ではないと思う。

 

むしろ彼は、

 

「強大だが、統治不能な権力者」

 

だった。

 

彼の支配は、

  • 武威
  • 威圧
  • 豪胆
  • 人格

によるものであった。

 

これは「人格支配」である。

 

一方、近藤勇 や 土方歳三 は違った。

 

彼らは、

  • 隊規
  • 命令系統
  • 粛清
  • 組織維持

を重視した。

 

つまり彼らは、「制度による支配」へ向かったのである。

 

ここに、芹沢の限界があった。

 

彼は強かった。
しかし「組織のトップ」として必要な強さへは到達できなかった。

 


 

そして、ここで重要なのが、

 

「時代から見放された」

 

という言葉である。

 

一般に「時代」とは、

  • 歴史の流れ
  • 運命
  • 時代精神

のように語られる。

 

しかし本質はもっと具体的だ。

 

「時代から見放される」とは、

 

「自分はこう思う」

 

と、

 

「周囲から自分がどう見られているか」

 

との乖離である。

 

つまり、

  • 自分はまだ中心にいると思っている
    しかし、
  • 周囲は既に排除対象として見ている

という状態である。

 

芹沢は、この乖離を最後まで制御できなかった。

 

そこに、彼の悲劇がある。

 


 

ここで思い出されるのが、宮本武蔵 である。

 

武蔵の強さは、単なる剣技ではない。

 

彼の本当の強さは、

 

「自己を客観視できたこと」

 

にある。

 

武蔵は、

  • 自分がどう見えているか
  • 相手が何を期待しているか
  • 自分がどこで敗れ得るか

を、極めて冷静に見ていた。

 

だから彼は、

  • 美学を崩せた
  • 用心を捨てなかった
  • 奇策を使えた
  • 「勝つため」に自分を操作できた

のである。

 

つまり彼は、

 

「戦っている自分」

 

と、

 

「戦場全体を見ている自分」

 

を同時に持っていた。

 


 

ここから、一つの結論が導き出される。

 

本当の強さとは、

  • 腕力
  • 技術
  • 気迫
  • 威圧

ではない。

 

本当の強さとは、

 

「自己を客観視できる力」

 

なのである。

 

これは、

  • 剣士
  • 権力者
  • 組織のトップ

すべてに共通する。

 

なぜなら人は、「自分自身が見えなくなった瞬間」から敗れ始めるからである。

 


 

だから、芹沢鴨の悲劇とは、

 

「強いのに死んだ」

 

ことではない。

 

むしろ、

 

「トップとして必要な強さへ到達できなかった」


ことにある。

 

彼は、

  • 豪傑だった
  • 強烈だった
  • 魅力的だった
  • 恐れられていた

しかし、

 

「自分がどう見られているか」

 

を最後まで制御できなかった。

 

その意味で彼は、剣士としてではなく、「権力者として」敗れたのである。

 

しかし同時に、その剥き出しの生命力ゆえに、彼は単なる敗者として消えることはなかった。

 

だからこそ我々は、今なお彼について語り続けるのである。



 

 

 

 

一 政治の現場で見たもの

 

私は研究の道から現実政治の世界へ踏み出した。

 

その時、ある人物は私の選択を全面的には肯定しなかった。否定もしなかった。ただ複雑な表情を浮かべ、何よりも私自身より、むしろ家族のことを心配していた。

 

その意味を、私は後になって理解した。

 

政治とは、単なる制度運営ではない。人間の生を侵食する営みだからである。

 

現実政治の中で私が見たものは、理念だけではなかった。

 

権力、
嫉妬、
排除、
保身、
同調圧力、
人間関係の破壊、
孤独、
そして家族への影響。

 

政治とは、人間の暗部を露わにする場であった。

 

だから私は次第に、政治を「制度」や「戦略」としてのみ語る言葉に違和感を覚えるようになった。

 

それらは間違ってはいない。
しかし、そこには「生」がない。

 

政治とは、本来、人間の生を引き受ける営みではなかったのか。

二 理解と応答

私はある時、自分の中にある飢えの正体に気付いた。

 

私は「理解」ではなく、「応答」を求めていたのである。

 

もちろん理解は必要である。
しかし、人間は理解されるだけでは救われない。

 

「分かります」
「なるほど」
「いいですね」

 

そうした言葉だけでは、人間の生には届かない。

 

人間が本当に求めているのは、

 

「あなたのその問いに対して、私はどう生きるのか」

 

という、生を賭けた応答である。

 

ここにおいて、私は現代の学問や評論に対する違和感を覚える。

 

多くの知性は、人間の生を「理解の対象」として扱う。しかし、自らの存在を賭けて応答しようとはしない。

 

そこに私は、ある種の「安全圏」を感じる。

 

もちろん、すべての学者がそうではない。

 

しかし、多くの知性が、概念操作や理論化の中で、生の重みから遊離しているように見えるのである。

 

私は、「身体性を帯びた言葉しか信じない」と感じるようになった。

 

それは実感主義ではない。

 

「その言葉は、本当に生を通っているのか」

 

という問いである。

三 「敗け戦」と政治の暗部

私はまた、政治における「敗北の美学」にも触れてきた。

 

少数派であること、
権力に迎合しないこと、
負けても立ち続けること。

 

そこには確かに倫理がある。

 

しかし同時に、私は現実政治の中で、

 

「理念に殉じること」が、結果として保守支配を強化し、人々の生活を悪化させる現実も見てきた。

 

善意が悪を生むことがある。

 

そしてさらに恐ろしいのは、そのことに無自覚であることである。

 

だが、問題は単純ではない。

 

なぜなら、「敗け戦」に意味を見出す人々は、単に政治を知らないのではないからである。

 

むしろ彼らは、権力がいかに理念を裏切り、人間を切り捨てるかを、歴史的にも身体的にも知っている。

 

そこには、アナーキズム的な権力不信がある。

 

つまり、彼らが拒否しているのは、「共同」そのものではない。

 

「共同」の名の下に行われる裏切りなのである。

四 民主政治への愛

それでも私は、民主政治を捨てきれない。

 

なぜなら民主政治とは、

 

「人間が、人間に向けて、どう語るか」

 

という営みだからである。

 

民主政治は本来、非効率である。

 

対立し、
迷い、
立ち止まり、
少数意見を聞き、
完全な正解を持たないまま、
それでも共同を模索する。

 

しかし、その不器用さを捨て去った時、政治は人間から離れてしまう。

 

現代政治はますます、

 

効率、
マーケティング、
炎上管理、
最適化、
管理技術、

 

へ傾いている。

 

そこでは、人間の矛盾や弱さは「ノイズ」として処理される。

 

だが、人間とは、本来、そのように整理可能な存在ではない。

 

だから私は、その“不器用さ”を守ろうとすることを、「民主政治への愛」と呼びたい。

 

それは楽観ではない。

 

政治の暗部を見た上で、
なお人間を見捨てないということである。

五 出会いと生成

私は政治家となってから、

 

「人間は出会うために生まれてきた」

 

と強く思うようになった。

 

出会いとは、単なる接触ではない。

 

感動できる他者との邂逅である。

 

つまり、他者によって自分が変わってしまうことである。

 

人間は本来、孤独である。

 

他者を完全に理解することはできない。

 

それなのに時に、

 

「他者によって、自分の存在そのものが変わる」

 

という出来事が起こる。

 

それは奇蹟に近い。

 

しかし私は、その奇蹟こそが、人間が生きる意味なのではないかと思う。

 

人間は、他者との出会いを通して、自分自身を超え、自分自身になっていく。

 

つまり人間とは、生成する存在なのである。

 

そして政治とは、本来、その生成の場であったのではないか。

六 結語

私は、政治に絶望しながら、なお希望を失わない。

 

人間の愚かさを知っている。
権力の暴力性も知っている。
理念が裏切られることも知っている。

 

それでもなお、

 

「人間は、人間によって変わり得る」

 

という希望を、私は捨てきれない。

 

だから私は、
問い続けながら政治を研究し、
問い続けながら政治を行う。

 

それが、私という生そのものなのである。



小泉今日子が、自らのコンサートで日本国憲法第9条を演出した。

 

たったそれだけのことで、日本社会はざわついた。

 

もちろん、賛否はあるだろう。

 

「平和について語るのは当然だ」
「表現の自由だ」

 

という声がある一方で、

 

「芸能人は政治を語るな」
「ライブに政治を持ち込むな」
「政治色が強すぎる」

 

という反発も噴き出した。

 

しかし、私は今回の騒動を見ていて、むしろ別のことを考えた。

 

問題なのは、小泉今日子が何を語ったかではない。

 

なぜ日本社会では、“政治を語ったこと”自体がこれほど波紋になるのか――ということである。

 

本来、民主政治とは、異論が存在することを前提とした政治である。

 

自分と違う意見がある。
気に入らない主張もある。
不快な発言もある。

 

それでもなお、「語ること」そのものは保障する。

 

そこに民主主義の最低条件がある。

 

ところが日本社会では、しばしば「内容」以前に、「政治を語る行為」そのものへの拒否反応が起きる。

 

芸能人が政治を語れば、
「空気を壊すな」
「政治色を出すな」
「夢を売る仕事に徹しろ」

 

という声が飛ぶ。

 

だが、それは本当に成熟した民主社会の姿なのだろうか。

 

むしろ私は、ここに日本民主主義の未成熟性が現れているように思う。

 

日本社会では長く、「政治」はどこか特殊なものとして扱われてきた。

 

政治は専門家がやるもの。
普通の人は深入りしない方がいい。
空気を悪くしないことが大人だ。

 

高度成長期以降、日本社会は、「政治的対立」よりも「安定」と「調和」を優先してきた。

 

その結果、私たちは、

 

“異論と共に生きる技術”

 

を十分に育ててこなかった。

 

だから、政治的発言が出てくると、内容以前に「空気が乱れること」そのものに強い不快感を覚える。

 

これは、単なる保守・革新の問題ではない。

 

日本社会に深く染み込んだ、

 

「政治を公共空間で語ることへの不慣れさ」

 

の問題である。

 

興味深いのは、今回、多くの人々が「9条をどう考えるか」ではなく、

 

「なぜ芸能人が政治を語るのか」

 

に反応していたことだ。

 

つまり、日本では依然として、

 

“政治的表現そのもの”

 

が緊張を伴っている。

 

ここに、民主政治の文化的脆弱性がある。

 

もちろん、民主主義とは、「政治的発言をした人を無条件に称賛すること」ではない。

 

小泉今日子の意見に反対する自由も当然存在する。

 

しかし、それと、

 

「政治を語るな」

 

は、まったく別問題である。

 

民主主義とは、本来、自分にとって不快な意見の存在を認める政治だからだ。

 

私はむしろ、今回、小泉今日子は日本社会に一つの問いを投げかけたのだと思う。

 

それは、

 

「あなたたちは、政治を語れる社会を本当に持っていますか?」

 

という問いである。

 

そして残念ながら、日本社会の反応は、その問いに十分応えられていないように見える。

 

議論は、
「右か左か」
「好きか嫌いか」
「出馬するのか」
といった消費的反応へ流れやすく、

 

本来問われるべき、

  • 表現の自由
  • 公共空間
  • 同調圧力
  • 民主主義文化

についての議論は、あまり深まらない。

 

だが、ここにこそ問題の核心がある。

 

民主政治とは、単に選挙があることではない。

 

議会が存在するだけでもない。

 

異論が語られ、
空気によって沈黙させられず、
対立が存在してもなお議論を継続できる――

 

そうした文化を持つことではないだろうか。

 

私は地方議会の現場にいて、しばしば感じる。

 

日本には議会制度は存在する。

 

しかし、

 

「異論を嫌う」
「空気を乱す者を避ける」
「決まったことを前提に進める」

 

という空気は、確かに存在する。

 

それは国政だけではない。
地方政治にも、地域社会にも、学校にも、職場にも存在している。

 

だから今回の小泉今日子騒動は、単なる芸能ニュースではない。

 

それは、日本社会がなお、

 

“民主主義を制度としては持っていても、
文化としては十分生き切れていない”

 

という事実を映し出した出来事だったのである。

 

そして同時に、だからこそ必要なのは、「正しさ」を叫ぶことだけではない。

 

本当に必要なのは、

 

「なぜ日本では政治を語りにくいのか」
「なぜ異論が空気で抑圧されるのか」

 

を、市民一人ひとりが自分の問題として考えていくことだろう。

 

民主主義とは、制度ではなく、習慣である。

 

そして習慣とは、日々の対話の積み重ねによってしか育たない。

 

小泉今日子の演出が良かったか悪かったか――。

 

本当の問題は、そこではない。

 

その演出一つで社会がざわつくほど、日本社会はなお、「政治を公共空間で語ること」に慣れていない。

 

その事実こそが、いまの日本民主主義の現在地を物語っているのである。




北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

改めて、本日の自治政策講座は、単なる政策紹介ではなく、人口減少・AI・インフラ危機の時代において、自治体議会や議員は何を担うべきなのかを根本から問い直す内容だったと整理できます。

大きく見ると、講座全体には次の二つの問いが通底していました。

第一に、AI・情報化時代において、議会は行政の示す情報やエビデンスをどのように読み解き、公開の議論へつなげていくのか。

第二に、人口減少社会において、上下水道をはじめとする地域インフラを誰が、どのように維持し、自治を守っていくのか。

特に重要な柱は、次の五点です。

① AI・情報化社会と議会の役割
② エビデンスに基づく予算審議・行政評価
③ 「決定」ではなく「編集」の重要性
④ 人口減少とインフラ維持の限界
⑤ “効率”と“自治”の緊張関係

住沢博紀先生の講義では、AI時代における議会や議員の役割が、「編集者」という言葉で示されていました。

資料では、Wikipediaは多数の人間の手による公開された編集過程を持つ一方で、AIは膨大な情報を瞬時に処理できても、人間による公開された編集過程を持たない、という対比が示されていました。

これは極めて本質的な指摘です。

AIは、最適解らしきものを高速で提示することができます。しかし現実の地域課題には、価値観の違い、世代間の利害、地域ごとの事情、財政負担、公平性、将来世代への責任などが絡みます。

つまり、地域の政策判断においては、「何が正しいか」だけでなく、「何を優先するのか」という政治判断が不可避になります。

そこで重要になるのが、「誰が、どのような過程で、何を根拠に整理し、判断したのか」という編集過程です。

議会とは、単に市民の意見を反映する場ではありません。多様な情報、価値観、課題を整理し、公開の議論へ接続する編集機関としての役割を持つ。これが今回の大きな問題提起でした。

また、AIやデジタル化が進むことで、行政側はこれまで以上に迅速に情報を収集し、エビデンスを集約し、政策形成を行うことが可能になります。データ、AI分析、統計、政策評価、DXは、行政にとって強力な道具になります。

しかしその時、議会が説明を聞くだけの存在になれば、行政主導はさらに強まります。

だからこそ議会には、エビデンスを読む力、比較検討する力、長期的視点で検証する力、そして公開の議論へ転換する力が必要になります。

稲沢克祐教授の講義では、「予算審議に行政評価を活かす」というテーマが扱われました。

ここで強調されていたのは、予算審議とは単なる金額チェックではないということです。

議会には、「中長期性」と「総合性」という特有の視点が必要です。つまり、「この事業にいくら使うのか」だけではなく、総合計画と整合しているのか、本当に成果が出ているのか、優先順位は適切か、未実施事業はなぜ止まっているのか、目標達成に結びついているのかを検証することが、議会本来の役割になります。

特に重要なのは、予算審議において、進捗管理を基に総合計画の実効性を問うという視点です。

一方で、講座は単純なデータ万能論ではありませんでした。

社会や地域の抱える問題は、エビデンスで示すことはできます。しかし最終的な決定には、価値観の相違、優先順位をめぐる利害、決定過程への納得、合意形成が必要になります。

つまり、エビデンスは判断材料にはなりますが、それ自体が政治的正当性になるわけではありません。

必要なのは、公開された議論、比較検討、説明責任、合意形成です。ここに議会制民主主義の核心があります。

橋本淳司氏の講義では、「人口減少期の上下水道」が取り上げられました。

上下水道は、もともと人口増加社会を前提に整備されてきました。しかし現在は、人口減少、高齢化、利用者減少、料金収入減、施設老朽化、技術者不足が同時に進んでいます。

資料では、2046年には全国平均の水道料金が現在の約1.4倍規模になる可能性も示されていました。また、水道管・下水道管の老朽化が進み、埼玉県八潮市の道路陥没事故のように、見えない地下インフラが限界に近づいている実態も共有されました。

つまり今後の自治体は、人口が減る中で、インフラ維持費だけが増えていくという極めて厳しい局面に入ります。

その中で、広域化、共同化、民間委託、PPP/PFI、ウォーターPPPなどが選択肢として出てきます。これは、単独自治体だけで上下水道を維持することが困難になりつつあるためです。

しかし、今回の講座は単純な民営化推進論ではありませんでした。

むしろ重要だったのは、効率化が自治そのものを弱める危険があるという視点です。

民間委託や広域化をしても、最終責任は自治体に残ります。しかし自治体側に技術者、監視能力、検証能力がなければ、実質的には管理できない委託になってしまいます。

ここで問われているのは、「採算が合うか」だけではありません。どこまでを公共として支えるのか、どの地域をどう残すのか、自治をどう守るのかという問題です。

これは、学校統合問題とも非常に近い構造を持っています。

人口減少社会では、行政側は必ず、効率化、集約化、統合、広域化を提起します。しかしその時、失われるものは何か。地域コミュニティ、アクセス、自治能力、地域の持続性をどう考えるのか。

これは極めて政治的な問題です。

また、PFAS問題も重要な論点でした。PFASは、環境、安全保障、財政、自治、情報公開を横断する問題です。現代の自治体は、単純な行政運営だけではなく、高度で複雑なリスク管理を求められる時代に入っています。

全体を通じて強く感じられたのは、自治体は単なる経営体ではないということです。

もちろん財政や効率は重要です。しかし効率だけを追えば、地方切り捨て、集約化、サービス縮小へ進みやすくなります。一方で、非効率であっても地域を維持する価値がある場合もあります。

自治体運営には、経営合理性だけでは説明できない領域があります。そこに議会の役割があります。

今回の講座内容は、北杜市にとっても極めて示唆的です。

中学校統合、公共施設再編、人口減少、上下水道、地域交通、財政運営など、北杜市が抱える課題はいずれも同じ構造を持っています。

「行政が示したから正しい」のではなく、比較検討は十分か、他案との検証はあるか、長期的視点はあるか、実効性はどうか、誰がどう決めたのかを、議会が公開の場で検証する必要があります。

結局、今回の講座の核心は次の点にあると思います。

人口減少・AI・インフラ危機の時代において、議会は行政の決定を追認する機関ではなく、多様な価値観と情報を整理し、地域の持続性、公共性、自治をどう守るのかを公開の議論として編集していく機関でなければならない。

その意味で、これからの自治体議会に求められるのは、単に賛否を示すことではなく、何を根拠に、どの選択肢を比較し、誰の意見を聞き、どのような過程で決定したのかを、市民に見える形で問い続けることなのだと感じました。
北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

本日、東京・全水道会館で開催された
「第26期 自治政策講座1
『これからの自治に必要な新たな視点』」
を受講してきました。



今回の講座は、単なる政策紹介ではありませんでした。

むしろ、

👉 AI・情報化時代に、議会や議員は何を担う存在なのか
👉 人口減少社会で、地域インフラや自治をどう守るのか

を根本から問い直す内容だったと感じています。

講座では、

・AIと議会の役割
・エビデンス(根拠)に基づく予算審議
・人口減少時代の上下水道
・公共インフラの老朽化
・PFAS問題
・広域化、民間委託、PPP/PFI
・自治体財政

など、これからの地方自治に直結するテーマが扱われました。

特に印象的だったのは、

「議会や議員は、“編集者”としての役割を持つ」

という問題提起です。

AIは大量の情報を高速で処理できます。

しかし現実の地域課題には、

・地域ごとの事情
・世代間の利害
・費用負担
・公平性
・将来世代への責任

など、単純な“正解”では割り切れない問題があります。

だから重要なのは、

👉 何を根拠に
👉 誰が
👉 どのような過程で
👉 何を優先して決めたのか

を、市民に見える形で整理し、公開の議論につなげていくことです。

講座では、

「エビデンスは判断材料にはなるが、それ自体が政治的正当性になるわけではない」

という点も強調されていました。

つまり、

データだけではなく、

公開された議論
比較検討
説明責任
合意形成

が必要だということです。

また、上下水道の講義では、

人口減少、高齢化、料金収入減、施設老朽化、技術者不足が同時進行する中で、

今後の自治体は、
“人口が減る中で、インフラ維持費だけが増えていく”
という非常に厳しい局面に入ることも示されていました。

これは北杜市にとっても決して他人事ではありません。

中学校統合、公共施設再編、上下水道、地域交通、財政運営――

これからの北杜市では、

👉 「効率化」は必要
しかし同時に、
👉 「自治」をどう守るのか

が問われていくのだと思います。

その時に大切なのは、

「何を決めたか」だけではなく、

「どう決めたのか」

を、市民に見える形で確認していくことです。

議会は、行政を追認する場ではありません。

市民の声や地域の実情、多様な価値観を整理し、公開の議論へつなげていく場です。

AIやデジタル化が進む時代だからこそ、
人間が担う政治や議会の役割は、むしろ重要になる。

そのことを改めて考えさせられる講座でした。

今日の学びを、今後の議会活動や市政のチェックにしっかり活かしていきたいと思います。



私のブログをご覧いただきまして、有難うございます。


北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。


議会の報告や制度の話を書いてきましたが、

最後に少しだけ、私自身のことを書きたいと思います。


私が政治に関わるようになった原点は、

とてもシンプルなものでした。


それは


「地域のことを、自分たちで決める社会であってほしい」


という思いです。


政治というと、

遠い世界の出来事のように感じることがあります。


しかし本来、政治とは


・学校のこと

・地域の環境

・子どもたちの未来

・地域の暮らし


など、私たちの生活そのものに関わるものです。


だからこそ、


地域のことを、地域の人たちが考える

ということが大切なのだと思います。


議会の中では、

思い通りにならないことも多くあります。


それでも私は、


政策の前提を問い、

議論を可視化し、

市民に説明すること


が議員の役割だと考えています。


政治は、一人で変えられるものではありません。


しかし、


市民・行政・議会がそれぞれの立場で関わることで、

地域の未来は少しずつ形づくられていきます。


北杜市の将来について、

これからも市民の皆さんと一緒に考えていければと思っています。


政治は、一人で変えられるものではありません。

しかし、
関心を持つ人が少しずつ増えていくことで、
地域のあり方は確実に変わっていくのだと思います。

もし、この考え方に少しでも共感していただける部分があれば、
これからも一緒に考えていただければうれしく思います。



私のブログをご覧いただきまして、有難うございます。


北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。


北杜市では現在


中学校8校 → 2校


という統合計画が進められています。


建設費は

約155億円


今議会では


基本設計費 約5億円


が計上されています。


ここで


一つ、立ち止まって考えたいことがあります。


それは


何から決めているのか


という問題です。


「箱」が先に決まると、「中身」は後から合わせることになります。


本来であれば


・どんな教育を目指すのか

・子どもたちにどんな環境が必要なのか

・どのような支援や人材が必要なのか


といったことを考えた上で


その結果として


どんな学校が必要なのか


が決まるはずです。


しかし現在の議論は


学校の規模や配置、校舎の設計など


いわば


「箱」から考えているように見える


部分もあります。


学校は


単なる建物ではありません。


それは


子どもたちの学びと生活の場


です。


だからこそ


「どんな箱をつくるか」ではなく


「どんな教育をつくるのか」


から考えることが大切ではないでしょうか。


北杜市の学校は


何を大切にしてつくられるのか。


皆さんは

どう考えますか。


もし、これから学校をつくるとしたら——


まず考えるべきは、

“どんな建物にするか”でしょうか。

それとも、

“どんな教育を実現したいか”でしょうか。


ご自身の立場で構いません。

率直に、どちらから考えるべきだと思われますか。