「アカシアの雨にうたれて」からの時代と音楽
西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」(一九六〇年)という歌をご存知だろうか。一九五四年生まれの私も知っているくらいだから、かなりロングヒットした曲なのだろうというくらいに思っていた。実は、この時代に六〇年安保闘争を闘ったかたは、ご存知だろうが、この歌は、六〇年安保の敗北のあとの失意の歌として受け入れられ、共感・共鳴したと言われている。しかし、いきなり出だしが「アカシアの雨に打たれてこのまま死んでしまいたい~」とくるので、「希死念慮」の歌のように聞こえてしまう(六〇年安保闘争の評価については、孫崎享『戦後史の正体』での再評価がある)。 それでは、一九六八年の全共闘運動時はどうだったろうか。どんな歌が、この運動の時期に共振したのだろうか。高校一年生の頃、文化祭のリハーサルで、岡林信康の「友よ」を歌った。その後、大学生になって「インターナショナル」も覚えた。「友よ」は、闘いを鼓舞する歌であるが、全共闘運動が壊滅したあとの歌はどんなものが共鳴・共感されたのだろうか。全共闘運動は、連合赤軍事件で傾き始めたが、京都大学、同志社大学などでは、関西ブントがはびこっていた。まだ「世界同時革命」をスローガンにしていたセクトもある。そのこと、そうした過激派左翼とは画した感じで、第二期フォークソングが流行った。おそらく私が大学に入った頃なので、時代の気分としては、吉田拓郎、井上陽水、という二人の――フォークシンガーが代表的な歌手だっただろう。 いま思い浮かぶのは、吉田拓郎の「イメージの詩」と井上陽水の「傘がない」だろう。とくに、陽水の「傘がない」は、今朝来た朝刊に書いてあること=社会問題や政治問題、よりも、君に会いにゆくのに「傘がない」、(それが心配なのである。)――それはいいことだろう。と歌う=「柔らかい個人主義の時代」(山崎正和)の到来を暗示していたと言える。 その後、連合赤軍事件のあと、赤軍派のテルアビブ事件が起き、学生運動は、ノーリターンなテロルの時代に突入する。この時代に、私は大学生だった。 そのときすでに、音楽性の高いニューミュージックの走りだった荒井由実が、『ひこうき雲』と『ミスリム』というアルバムを出していた。これには、驚いた。音が違うのである。各楽曲ごとに、ミュージシャンの名前も出ている。最後に「スペシャル・サンクス・フォー・キャラメルママ」・「テインパンアレー」と(はたしてその実体やいかに)。その後、ここで、バックコーラスをしていた山下達郎と大貫妙子らは「シュガーべイヴ」で活躍していた。そうして、J―POPは,脱政治の世界へと没入してゆくのである。「中島みゆき」などを例外にして。【HIUCHI】 そこで一句 白萩に雨はふるふる希死念慮 (燧)