日本のフォークの原点とは? と言われると、

高石ともや、岡林信康、高田渡、加川良・・・などの名前が浮かぶ。

 

小生にとって衝撃だったのは、1968年の中学生までGSなどを聴いていたところ、69年に入った(田舎の)高校でも、岡林信康の「友よ」が文化祭で唄われていて、一種のカルチャーショックを受けたことだ。

 

そのときに、すでに高石ともやの「受験生ブルース」は(ヒットしたひねくれた唄だったので)知っていたが、調べると岡林の唄は、1968年「山谷ブルース」でレコードデビューして「手紙」「チューリップのアップリケ」など、社会性・メッセージ性が強く、小生のGS・流行歌・和製POPsに対する考え方が変わったように思う。

 

先日(8月17日:82歳で)亡くなった高石ともや*は、小生が、京都で就職したころ、福井の名田庄村に住み、「ナターシャセブン」を率いてコンサート活動を始めていて、高石のフォークソングは、当時歌謡POP化(ニューミュージック化)して売れる方向に流れていたのを、売れることよりも、日本のカントリーフォークを地道に指向しているところに好感をもてた。

 

 *注) 高石 ともや(たかいし ともや)、高石 友也とも、本名・尻石 友也〈しりいし ともや〉。

 

もちろん、小生の高校時代には、小室等+六文銭、吉田拓郎、井上陽水、五つの赤い風船、赤い鳥などのフォークを聴いてはいたのだが、岡林、そして、高石のフォークは、少し違うテイストを感じていた。

 

いっぽう、矢沢永吉のキャロルやクールズ、その後のブルーハーツなどは、一種の肉体労働者系の「怒れる若者層」「暴走族」などに支持されたのに比べると、やはり穏便でラヴ&ピースなカレッジフォークを聴いた層に支持されたのかもしれないが。

 

話をもどすが、調べてみると、岡林は、初期、高石ともやの個人音楽事務所に所属していたらしく、師弟関係があるようだった。

高石は、カレッジフォークのメッカだった立教大学を経由して、本来のフォークを求め京都に流れてきて活動を始めていた頃だ。岡林は、同志社大学だったので、京都を拠点とすることは自然だったのかもしれない。

 

このさい、いまいちど、フォークソングの歴史を分節化して調べてみたいと思う次第だ。

 

 そこで一句。

         外来種ディランもバエズもコスモスも  ひうち