ひつぞうとおサル妻の山旅日記 -7ページ目

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ276

旧唐津銀行本店(現 辰野金吾記念館)

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀県唐津市本町1513-15

開館:9時~18時(年末年始休館)

料金:無料

アクセス:西九州道・唐津ICから15分

駐車場:19台(100円/h)

■設計:(監修)辰野金吾(担当)田中実

■施工:清水組(現 清水建設)

■竣工:1912年

 

《名物は唐津くんちだけではない》

 

話は一度前日に戻る。美術館をでて実家の両親の霊前に線香をあげたあと、急ぎ足で佐賀市内に入った。あいにくの帰宅ラッシュで投宿は6時すぎ。コンビニの惣菜で飢えをしのぐ淋しい晩餐になった。相棒がいないと酒も欲しくない。

 

「サルは飲むね」サル

 

その頃おサルは記憶も疎らな母を相手に晩酌に勤しんでいた。そして翌朝。僕はジョグから戻り、朝食難民の末尾に並び、快晴の空のもと飛び出したのだった。

 

まずは北に進路を取り、旧唐津銀行をめざす。唐津は近代建築の父、辰野金吾曾禰達蔵の出生の地であり、その唐津に残る辰野式赤煉瓦建築となれば、建築巡礼者としてまずは押さえておく必要があった。

 

 (南側正面)

 

建物の隣りにコイン式駐車場があり、わずか100円/hなので1時間前に入場。抜かりなく周辺を取材する。

 

(東側)

 

「思ったよりも小さいにゃ」サル

 

駐車場側には肩を並べるだけの建物があったのだろう。見えない処は飾らない。贅沢しない。銀行だけに堅実だ。

 

(北側)

 

唐津銀行本店の竣工は1912(明治45)年。施主は唐津経済の父・大島小太郎(1859-1947)。この設計を依頼されたのが藩校・耐恒寮の同級生辰野だった。しかし、当時の辰野は人生最大の大仕事、東京停車場の設計を受託したばかり。そこで白羽の矢がたったのが東京帝大の教え子・田中実(1885-1949)だった。

 

 

卒業と同時に清水組(現:清水建設)の技師として就職した田中を、一時的に清水から引っこ抜いたのか、あるいは外注という態にしたのかは判らない。近代建築史において、兜町の開発で競いあった疑洋風建築の先達・清水喜助の興した会社に結果的に下駄をあずけるという偶然がまたおもしろい。その田中はのちに葛西万司と事務所を設立。大同生命保険福岡支店(1912)、国分商店(1915)、白木屋大阪支店(1921)、藤山工業図書館(1921)などを設計している。

 

 

クィーンアン様式を主体とした折衷式。一見赤煉瓦っぽいが、あくまで辰野へのリスペクト。実際は装飾タイルだ。天井は天然スレートで隅角に緑青色に輝くドームと尖塔が載る。大八車の車輪のようなアーチ窓受飾り突石が辰野式。

 

(西側)

 

かつて相当酷い状態だったらしい。清水建設が改修工事を受託し、2010年完工。2011年から一般供用された。そして(いろいろ訳はあるのだろう)ひと月前の2025年4月から見学無料となった。

 

「タダだったんだ」サル

 

 

北側に資料館が附設されている。

 

 

そして建物の脇に辰野と曽禰の銅像。

 

 

開館と同時に入場した。

 

 

当時一般的だった吹き抜けフロア。

 

 

赤煉瓦系の名建築は注意が必要。レトロの三文字は団体客を案内するのに容易だからだ。適度な説明だけで客を放せばいいし、これほど便利はものはない。だが、こっちは細に入り微を穿つ巡礼者。観たいのは建築の意匠であって、オジオバの尻背中ではない。

 

 

ザッと構造を確かめてディテールは後で追う。

 

 

かつて全国に200はあったという辰野が設計した(もしくは監修した)建築は現在国内に24箇所しかない。その多くがテナント利用。残念ながら建築としての素顔は判らない。展示内容は紋切り型でも記念館として残すのが、われわれ巡礼者には最善の策と実感した。

 

 

頭取室かな。

 

 

調度品は資料をもとに清水の担当者が復旧した。さすが京橋。

 

 

造りは煉瓦造二階建。

 

 

みればあれほどいた団体客はもういなかった。

 

「来たって証しが残ればいいんじゃね」サル

 

 

この細工はあとづけかも。

 

 

応接室

 

 

端正な付け柱と腰板。

 

 

暖炉の導入は石炭産業が盛んな北部九州ならでは。

 

 

アールヌーヴォー風の漆喰装飾。

 

 

辰野関連の建築資料が展示されていた。

 

 

配膳室

 

小屋根に続く螺旋階段は田中の発案。旧大同生命保険福岡支社に同じものが残っている。

 

 

明治から大正に代わろうとする時代。

 

 

田中は最新のデザインを積極的に取り入れたそうだ。

 

 

一階イベントスペース。かつての執務室。

 

 

1885年創業の唐津銀行は三度にわたる大きな合併をへて1931年に佐賀中央銀行となり、唐津から佐賀市内に移転。戦後に佐賀興業銀行との合併ののち佐賀銀行となり現在に至っている。

 

 

最後に一階の大金庫室へ。

 

 

堅牢だ。

 

 

唐津銀行の銘板がしっかり残っていた。

 

実質的な共作に違いないのに「辰野金吾記念館」と看板をかかげられては田中も立つ瀬がない。ないが集客のためには致し方なし。客が来なければ建築そのものの命脈すら危うい。堅牢堅固にできているようみえて、ヘリテージ建築とは薄氷のうえに浮かぶ儚い存在なのだった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ275

佐賀県体育館(現 市村記念体育館)

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀市城内2-1-35

開館:閉鎖中

アクセス:JR佐賀駅から徒歩25分

駐車場:あり

■設計:坂倉準三建築研究所

■施工:大成建設

■竣工:1963年

■DOCOMOMO選定(2023年)

 

《うに?》

 

旅行10日目。ここまで来ると旅の始めが遠い昔のようだ。前日おサルはサル母の介護のために実家に宿泊。一緒に過ごそうと提案したが、既に僕の知るサル母ではないと忠告され、JR佐賀駅前の東横INNに宿を取り、翌日は単独で建築三昧の一日を過ごすことにした。

 

「そのほうがお互いにいい」サル

 

 

まずは恒例の朝ジョグで一路南下。佐賀城址の堀端をまわる。ここにDOCOMOMO JAPAN選定の名建築があった。坂倉準三が手がけた佐賀県体育館だ。リコーの創業者・市村清による寄附で建設され、のちにその名が冠されて市村記念体育館の呼称が一般化した。

 

 

長らく佐賀の体育・文化活動の拠点として親しまれてきたが、夢の新素材も経年劣化には勝てず、2023年5月には佐賀アリーナがオープン。事実上その役目を終えた。

 

 

それでも名建築の誉れは高く、保存を呼びかける声は大きい。解体の危機は避けられたようだが文化施設としてのリニューアル事業については知事が凍結を公表。どうなるのか。まさか丹下健三の船の体育館の二の舞になりはしないか心配だ。羽島市庁舎しかり、新宿駅西口広場しかり。とにかく坂倉の建築は消滅の一途をたどっている。

 

 

だからこそ、この体育館は今回の旅で確実に押さえたかった。幸い稀にみる快晴。2025年のGWは本当についていた。

 

 

ただ、間の悪いことに隣接する佐賀県立図書館(1963)は養生シートと足場に覆われて絶賛改修工事中だった。ここは高橋靗一(第一工房)内田祥哉が手がけた名建築だったのだが。

 

 

折り返しの雨除けは坂倉らしい曲線。羽島市庁舎(1959)、東レ基礎研究所(1962)、中産連ビル(1963)の塔屋から引き継がれたヴァリエーションと捉えたいが。どうだろうか。

 

「なんとでもいいたまえよ」サル

 

 

体育館前の広場は後から整備されたのかもね。奇麗にしておかないと輿入れできないし。

 

 

圧縮に耐える折板のコンクリート壁の上にリング梁とHPシェルが載る構造だ。

 

「ギザギザだにゃ」サル

 

構造設計的な要求が意匠を呼び込む好例。長らく菊竹の仕事と思っていた。土地柄からして。

 

 

判りにくいので佐賀県庁の展望棟にいって俯瞰してきた。

 

「なるほど」サル 湾曲した一枚板が載っているにゃ

 

 

その両サイドをバットレスで支えている。

 

 

真うしろの構造。

 

 

理屈はともかくカッコいいのひと言に尽きる。窓なんかも無理してつけているはずなのに逆に斬新なのだからたまらない。惜しむらくは内部が見られなかったことだ。時刻は午前六時。三周くらいウロウロしているのでさすがに地域住民に怪しまれる。潔く撤退することにした。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ274

福岡県文化会館(現 福岡県立美術館)

 

往訪日:2025年5月3日

所在地:福岡市中央区天神5-2-1

開館:10時~18時(月曜休館)

料金:展示内容によります

アクセス:西鉄・福岡駅から徒歩15分

駐車場:なし(須崎公園有料駐車場を利用)

■設計:佐藤武夫設計事務所

■施工:龍建設

■竣工:1964年

■第7回BCS賞

■建築業協会賞

 

《思い出の美術館ももうすぐなくなる》

 

福岡市美術館を訪ねたならば、福岡県立美術館も訪ねなければならない。いや。今回の福岡滞在において一等重要な位置を占めていたのはむしろこっちだった。

 

 

僕にとっては美術開眼の殿堂。だから敢えて福岡県文化会館の旧称に拘りたい。初めて訪ねたのは忘れもしない古代エジプト展(1978)。今はパルコの外装に覆われてしまったが、当時はモダニズム風の外観を露にしていた岩田屋。その軒繋がりの西鉄福岡駅を出て那の津通りを北に向かうと黒光りの建物が視界に入り、胸の高鳴りが抑えられなくなる。文化会館とはそういう存在だった。

 

 

それが早晩消え去る運命にあると知ったのは前年のこと。2029年3月オープンを目指して新県立美術館が大濠公園の南に計画中という。となればジッとしてなどいられない。昔恋した女性に一目逢いたいというのか、そんな劇的な恋愛などしたことないから旨く言えないが、天気が悪かろうがなんだろうが行くことに決めた。

 

 

最寄りの有料駐車場に車をとめて一周してみる。「天気が良かろうが悪かろうが」など大見えを切ったものだから、春先の福岡の街がときおり見せる茫漠とした霞が広がり始め、浮かない空に変わろうとしていた。

 

 

47年ぶりに見たそれは、記憶に比して随分小さく、よく大規模な展覧会が開催できたものだと感心してしまう。また、漆黒と記憶していた壁は三色の焼成タイルで紋様が施されていた。

 

佐藤武夫(1899-1972)

 

設計は佐藤武夫。旅の途中で立寄った岩国徴古館の佐藤だ。旭川市庁舎(1958)、新潟市庁舎(1958)、長野市民会館(1961)などを矢継ぎ早に発表。都度多くの賞に輝き、業界の顔役として要職も務めた。福岡県文化会館はそんな佐藤が65歳の時に携わったレイターワークといえる。

 

(参考資料①)

(現在のガラス窓は竣工当時開口していた)

 

それまでのグリッド線を強調した一連の旧作と意匠がガラリと変わっている。地産品の博多織献上柄をモチーフに採用したらしい。

 

(参考資料)

 

タイル使用は岩本博行天神ビル(1960)で試みた有田焼に近い経緯だったのではないか。このスタイルは、続く中央区役所(1969)や(タイルではないものの)城南信用金庫本店(1970)に連なるひとつの系譜になったように思えてならない。

 

 

裏手に回る。この白縁をとったポチ窓は隠れた見所。

 

 安永良徳《裸婦座像》

 

このブロンズが心に響いた。

 

作者とタイトルが判らなかったが、ブロ友さんのアドバイスで福岡ゆかりの彫刻家で重鎮としてならした安永良徳(1902-1970)の作と判った。実は前日にジョギングで訪ねた九大教養部跡地にあった《青春乱舞》こそ安永の作。かつては正門内にあったものだ。裸婦座像は抽象の度が目覚ましく同じ作者と同定し得なかった。懐かしみを覚えたのは縁だったのかも。残して欲しいなあ。

 

 

制震ブレースをつけたのに…壊されるのか。

 

「狭いから仕方ないんじゃね」サル

 

有効活用を願いたいけれど、そもそも那の津が都市部の導線から完全に外れてしまったしな。都市もまた生き物。
 

 

プレキャストと思われるワッフル状格子パネルは陸屋根の外部構造と対をなしている(参考資料①参照)。

 

 

玉石洗出し仕上げのホールは既になかった。

 

 

階段と側壁はトラバーチンしあげ。

 

 

地味だが質実で堅牢。時としてモダン。佐藤武夫の建築にはなぜか心惹かれる。残念な点はどんどん破壊が進んでいることだ。

 

 

「塔の佐藤」と言われたように、他聞に漏れず設置されているが、この縦長の構造物が何かは謎。大半の旧作が存在しないため、画像で確認できたのは長野市民会館くらいで、その意図がなんだったのか判らない。

 

 

なんとなく覚えているような…いないような。

 

 

この往訪には建築のほかにもうひとつ狙いがあった。それは郷土の画家・高島野十郎(1890-1975)の画を観ることだった。ところが常設フロアは一部を除いて休館中。なんでこうなるのよ。

 

「調べていかないからだにゃ」サル

 

 

ただ僅かながら展示品もあるというので見せて頂いた。無料。

 

《石畳の道Ⅲ》(1930-33)田場川斐都子氏寄贈品

 

いつ高島野十郎という画家を知ったのか。思いだせない。そんなに昔ではなかった気がする。最初は「野獣郎」と書くのかと思ったくらいだから、文章や人物ではなく、画そのものをまず観たのが発端だったように思う。ある日突然存在を知ってしまった。そんな感じ。

 

《ノートルダムとモンターニュ通Ⅰ》(c.1932)同上

 

写実的で丁寧な仕事。初期の作品だろう。

 

《壺とりんご》(1934-44)羽原良行氏寄贈

 

これなどは劉生の影響を感じる。

 

《路面電車のある風景》(1912-26)田場川正統氏寄贈

 

すべて一般からの寄贈品。「この作品は絶対に後世に残したい」という旧蔵者の思いが伝わってくる。

 

《パリ郊外》(1930-33)個人寄託

 

久留米の裕福な造り酒屋の五男に生まれた野十郎(本名:彌壽)は学業優秀で東京帝大水産学科を首席卒業しながら、兄の影響から芸術、特に絵画に興味を抱くが、父の理解を得られなかった。

 

《春の富士Ⅱ》(c.1960)大内田茂士氏寄贈

 

だが、その父も間もなく病没。兄弟の支援をうけて欧州に画家修業の旅にでる。

 

《花畑》(制作年不詳)山本嘉代氏ほか寄贈

 

生涯独身をつらぬき、福岡、青山と転転。千葉の柏市のあばら家のようなアトリエで生涯を終えた。第三者的には孤独で恵まれない一生のようにみえるが、充実した人生だったらしい。

 

《蝋燭》(制作年不詳)藤井武・幸子氏寄贈

 

最初に野十郎を知ったのはこの画だった。“この画”と言っても蝋燭の画は数枚、いや本当はもっとかもしれないほど描いている。というのも全て人にあげるために描いたものだからだ。なので《蝋燭》というタイトルの作品はほぼ個人蔵ということになる。

 

《太陽》(after1961)羽原良行氏寄贈

 

これは太陽だが月の絵も蝋燭同様にたくさん描いている。野十郎は「闇を描くために月を描いた」といった。韜晦でもなんでもなく本心だろう。

 

《大樹のある野》(制昨年不詳)田場川斐都子氏寄贈

 

そもそもたつきのために絵を描くことはなかった。そんな野十郎。生前はほぼ無名だった。一躍脚光を浴びるようになったのは、ここ福岡県文化会館における心の籠った回顧展(1986年)が始まりだった。

 

 

2021年には生誕130年記念の大規模な回顧展が開催されたらしい。気づくのが遅かった。しかしだ。実は没後50年の全国巡回展が千葉にもやってくると後日知ることになる。それはまた別の機会に。

 

冨永朝堂《玄界灘(一)》(1961)

 

室内には彫刻も。冨永朝堂(1897-1987)は高村光雲の孫弟子にあたり、太宰府にアトリエを開いた。仏像や人物像など具象に始まるその業績にあって、収められていた作品は(時代の影響もあったのだろう)やや抽象性を帯びていた。

 

冨永朝堂《玄界灘(二)》(1962)

 

ハート形土偶のようだ。

 

 

館内には模型が残っていた。坂倉準三の初期の名作「神奈川県立近代美術館」をもっと重厚に仕立てた感じだ。佐藤武夫もまたコルビュジエをどこかで意識していたのだろうか。

 

 

その一方で着々と進む新たな計画。新しい県立美術館は隈研吾(の設計事務所)が手がけるという。最近の美術館はどこか手がけても変わり映えのしない、軽量な新建材のバリアフリー建築に傾斜している。それはそれでいいのだが、もう少し哲学のある、時としては消化不良も起こしそうな、そんな建築が出てきてもいいのでないか、と願うのは我儘なのだろうか。

 

おまけ。

 

 

福岡市民会館

■設計:村田・大旗建築事務所

■施工:大林組

■竣工:1963年

 

対面に位置する福岡市民会館はちょうど文化会館と対をなす関係にあり、モダニズム風のいい建築だった。設計は広島の組織系コンサル。現在の大旗連合建築設計だ。だが先んじて福岡市民ホールが完成し、取壊しの憂目を曝していた。噂には聞いていたが。辛うじて見ることができただけでも倖せだったかもしれない。

 

「世の中はどんどん変わるのよ」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

コレクションハイライト・新収蔵品展・春の名品展

 

往訪日:2025年5月3日

会場:福岡市美術館

会期:2025年3月25日~2025年6月1日

開館:9時30分~17時30分(月曜休館)

常設:一般200円 高大生150円

アクセス:地下鉄・大濠公園駅から徒歩12分

駐車場:26台(200円/h)※周辺有料駐車場もすぐに満車

※撮影NGもあります

 

《耳庵ゆかりの井戸茶碗》

 

続いてアート篇。

 

通年展示のハイライトから期間限定の企画まで多彩なアートが鑑賞できた。そのなかから特に印象に残ったものをメモしておく。

 

コレクションハイライト

 

冒頭に開館以来の目玉がずらりと並ぶ。ラファエル・コラン、ユトリロ、ルオー、シャガール、ブランクーシ。佐伯祐三にレオナール・フジタ。そして東郷青児にダリにピカソ。ちょっと系統がバラバラだが、誰もが一度は目にしたことがある芸術家の作品だ。

 

ブランクーシ《雄鶏》(1924/1981)ブロンズ

 

現代美術ではポルケ、ペンク、フォンタナ、カステラーニ、そしてロスコ。まあ、こんな感じ。個人的に愉しみにしていたのは九州派の作品を観ることだった。

 

菊畑茂久馬《ルーレットNo.1》(1964)

 

数日前に観た広島市現代美術館を含めた全国企画《LINKS 2025》の一点。やはり地元だし、ここでは外せない。ただ茂久馬のルーツは徳島と長崎。にも関わらず福岡県人の気骨を感じるのはなぜか。

 

「頑固者だからなんじゃね?」サル

 

田部光子《プラカード》(1961)

 

田部光子(1933-2024)も結成メンバーとして九州派を代表する。本作を観る一年前に惜しまれつつ亡くなった。ステレオタイプな女性性の打破、抑圧された第三国の解放、労働争議に公害問題などをテーマに、ときには挑発的な表現で世に問うた。なによりもイメージの喚起力がすごい。

 

桜井孝身《リンチ》(1958)

 

やはり九州派の初期メンバー桜井孝身(1928-2016)の作品も関東の美術館で観ることは稀だ。ペンキ、アスファルト、金属など重い素材を使用して質感による美を表現。またアフリカンプリミティブに通底する造形を残している。まあ、理屈抜きでこれらの表現こそが本人の嗜好であり、自我そのものだったのではないだろうか。

 

宇佐美圭司《ゴースト・プランNo.3》(1971)油彩

 

九州と関係のないところでは宇佐美圭司のほかに吉原治良《白い円》、草間彌生《無限の網A.H.T.1960》など。そして二度目のやなぎみわ

 

やなぎみわ《アクアジェンヌ・イン・パラダイスⅡ》(1995)ダイレクトプリント

 

初めてやなぎみわ(1967-)の写真に触れたのは原美術館ARCの《案内嬢の部屋1F》。度肝をぬかれた。そして同世代の天性に激しく嫉妬し渇望した。神戸に生まれ、京都市立芸大に進学。1988年に初個展を開催している。今でこそコンストラクテッド・フォトは珍しくないが、この鮮烈で虚無的な色彩と闇の表現は観たことがない。

 

興梠優護《/72》(2018)

 

興梠優護(1982-)。その名が示すとおり熊本出身。東京藝大博士課程修了。福岡市内で制作活動中。本作で第三回アートアワード賞優秀賞を受賞した。色彩による移ろいゆくものの表現がテーマだそうだ。

 

塩田千春《記憶をたどる船》(2023)

 

塩田千春さんの作品も。

 

インカ・シニョバレCBE《桜を放つ女性》(2019)

 

西洋から輸入されたアフリカンプリントには、ナイジェリアにルーツを持つ作者による西洋社会へのアンチテーゼが示されているという。単に美しいと感じる僕は俗物なのだろう。

 

チョン・ユギョン《Let's all go to the celebration square of vivtory!》(2018)アクリル

 

北朝鮮の宣伝ポスターの引用。人の立ち姿が見えるだろうか。

 

「なんとなくにゃ」サル

 

新収蔵品展

 

高橋渡《DUET》(1937)ゼラチンシルバープリント

 

一番心を打ったのは若くして亡くなった郷土の写真家・高橋渡(1900-1944)だ。瀧口修造との関連で一度書いたが、シュルレアリスム表現を追求したピクト系の集団ソシエテ・イルフの中心メンバーだ。この《DUET》はフォトデッサン風だが、MEM寄贈のひとつ《公設市場》(1937)はフォトジャーナリズム的な匂いを帯びていた。

 

春の名品展

 

一階古美術展示室で松永耳庵の古美術、黒田藩の菩提寺・東光院の仏像などが公開されていた。

 

重文《薬師如来立像》(平安時代)12世紀

 

翻波式の優美な曲線と柔らかい表情が弘仁・貞観期の彫刻を感じさせる。ひと目でわかるが脇侍の日光・月光菩薩は江戸時代の作。かつては金箔と赤い顔料が施されていたそうだ。

 

《金銀鍍透彫華籠》(鎌倉時代)13-14C

 

ここから耳庵コレクション。茶道具に興味のある方には既知の事実だが、東博にも耳庵の一大コレクションがあり、戦前の蒐集が中心。壱岐出身で縁のある福岡市美術館には戦後の蒐集品が寄贈された。そして一部は小田原の記念館という具合だ。

 

《菩薩半跏思惟像》(白鳳時代)7-8C

 

朝鮮仏の影響を感じる。

 

《古唐津茶碗 銘「老鶴」》(桃山時代)

 

還暦から茶の湯に手を染めてこの域。徹底した凝り性だと判る。

 

「ていうか負けず嫌いだにゃ」サル サルと同じ

 

見込みの絵模様を鶴に見立てた。

 

《青井戸茶碗 銘「瀬尾」》(朝鮮王朝時代)

 

「竹屋」(個人蔵)、「春日野」(湯木美術館)と並ぶ青井戸の三名品。

 

《唐物文隣茶入 銘「春駒」》(明時代)15-16C

 

虎斑の釉が美しい。

 

《上野割山椒形向付》(桃山時代)16-17C

 

上野焼釜ノ口窯の作。細川忠興好みの向付六客。上野焼(田川郡)は細川家の御用窯だったそうだ。山椒割りはこの窯特有。

 

重要美術品《芦屋香炉釜》(室町時代)1506年

 

銘から制作年が判る。福岡といえば芦屋窯。造りは立口で伊勢・常明寺への納品。耳もしかり、茶道具に転用するために底は張り替えた。

 

重文 清拙正澄《偈 元中宛》(鎌倉時代)

 

元の禅僧が博多の円覚寺の秀山元中に充てて詠んだ絶句。

 

重文 野々村仁清《色絵吉野山図茶壷》(17世紀)

 

贅沢な色使いはさすが仁清。福岡でも仁清に気を止める人は稀。関西の人気とえらい違い。

 

「なんかそのへんの土産物みたいだの」サル

 

真贋を見極めるのってむつかしいよね。

 

田中丸コレクション

 

かつて中洲の街には玉屋デパートがあった。博多・井筒屋、天神・岩田屋と鎬をけずった名舗である。僕らの爺様世代には玉屋でスーツをオーダーするのがひとつのステイタス。つまりワンランク上という印象だった。その玉屋を経営した田中丸善八(1894-1973)もまた古陶磁器にのぼせあがったひとりだ。

 

「おサルは大丸派」サル ←大イバリ

 

それってよそ者じゃん。

 

高取焼《四方水指》(17末~18初C)

 

ただし、九州の古陶磁器に限ったあたりは賢明だった。

 

重文《絵唐津菖蒲文茶碗》(16末~17初C)

 

善八の素晴らしいのは美術品として仕舞いこまずに財界人を招いた宴席で実際に使った処だ。絵唐津茶碗で初の重文入りした名品。

 

《奥高麗茶碗 銘「舟越」》(16末~17初C)

 

釉際の文様が優雅。武将・船越伊予守永景の旧蔵と聞く。

 

マリノ・マリーニ《騎手》(1952)

 

屋内パブリックアートも。マリーニといえば馬。

 

田中千智《生きている壁画》(2023-25)

 

現代美術に西洋絵画。写真に陶芸、仏教とそのコレクションの幅は無限。素晴らしい展示だった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ273

福岡市美術館

 

往訪日:2025年5月3日

所在地:福岡市中央区大濠公園1-6

開館:9時30分~17時30分(月曜休館)

常設:一般200円 高大生150円

アクセス:地下鉄・大濠公園駅から徒歩12分

駐車場:26台(200円/h)※周辺有料駐車場もすぐに満車

■設計:前川建築設計事務所

■施工:戸田建設

■竣工:1979年

 

《後期の前川といえば連続アーチ》

 

旅に出て9日目。最初に訪れたのは福岡市美術館だった。竣工は1979年。県立文化会館(現在の福岡県立美術館)があるのに無駄なことをするなあと子供ながらに思ったものだ。箱物は時として政治家の人気取りのいい道具にされる。

 

 

だが悪いことばかりではない。当時の福岡県には文化会館と久留米の石橋文化センター(その後石橋財団は撤退)しか美術にふれる機会はなかった。完成すると赤褐色のチェックが効いた洒落たデザインが話題になった。ドレスデン秘宝展(1980)と東大寺展(1980)を観にいっている。今でもいい思い出だ。

 

 

改めるまでもなく設計は前川國男。と言いたいところだが、現在、事務所代表を務める橋本功氏が担当を務めたらしい。時に前川は74歳。前年竣工の山梨県立美術館大宇根弘司の担当だし、コンセプトだけ関わり、あとはスタッフの仕事だったのだろう。このあたり、メモを纏めるたびに悩ましく感じる。

 

バリー・フラナガン《三日月と鐘の上を跳ぶ野うさぎ》(1988)

 

時代を反映して屋外彫刻もたくさん。

 

ジャコモ・マンズー《恋人たち》(1977)

 

下着をつけずに愛の讃歌。

 

インカ・ショニバレCBE《ウィンド・スカルプチャー(SG)Ⅱ》(2021)

 

最初ニキかと思った。2019年に大濠公園側の西口が開設されている。

 

 

前川得意のエスプラナード(散策広場)に回ってみる。

 

 

段差のアクセントを加えた側壁。打ち込みタイルの壁。

 

 

塩焼きだろうか。後期特有のパターン。

 

草間彌生《南瓜》(1994)

 

なぜかこの美術館は東アジアを中心にしたインバウンドが多い。いくら国際都市といった処で、観光地といえば太宰府と志賀島を除けば中洲周辺の居酒屋でもつ鍋か焼鳥をつつくくらいしかない(地元民としての自嘲を込めたあえての意見)。なので大濠公園=美術館という感じで訪ねてくるのだろう。

 

「もともと観光スポットないしね」サル

 

事実、草間さんの南瓜の前で何度もポーズを変えてしつこく撮影するだけで皆帰っていく(この一枚のために30分待った。おとなの対応)。

 

アンソニー・カロ《驚きの平面》(1974)

 

 

大濠公園とセットに。

 

堀内正和《三本の直面体》(1978)

 

木内克《エーゲ海に捧ぐ》(1972)

 

茨城県立美術館箱根彫刻の森で二度見ているが、大濠公園とセットだとまた印象が違う。

 

エミリオ・グレコ《スケートをする女No.2》(1971)

 

解剖学的にムリがある腰のひねりにいつも魅了される。

 

 

45年ぶりに訪れてみたが、この広場の印象だけは残っている。

 

 

吹き抜けの中庭。このあたりは覚えてないなあ。それでは館内へ。

 

 

バルコンまでの抜け感がいい。

 

 

椅子も前川のデザイン。修理しながら使い続けているそうだ。

 

 

メモリアルスペース。改修前の美術館のすがたを模型から見ることができる。

 

 

館内二階のロビー。壁や柱を減らして圧迫感を排除する工夫が。

 

 

はつり壁。特徴のひとつ。

 

 

照明もその建築にあわせて毎回設計される。

 

 

階下におりてみる。

 

 

宙に浮いた階段部。

 

李兎煥《関係項》(1968/2004)

 

中庭にはもの派の作品が恒久展示されていた。

 

再度屋内のフリースペースにまわる。

 

 

「なんかグルグルまわっているね」サル

 

常設のインスタレーションだ。

 

モナ・ハトゥム《+と-》(1994/2024)

 

1994年に当館で初めて公開。常設用に新制作された。片方の歯が石庭の枯山水のように溝をつけ、反対のバーがかき消していく。終わりのない創造と破壊を表しているそうだ。作者のモナ・ハトゥム(1952-)はレバノン出身のパレスチナ人女性。英国で活動を続けているが、その原点は母国で起こった殺戮と破壊の連鎖にある。2019年に高松宮殿下記念世界文化賞を受賞している。

 

 

幼い頃に贔屓にしていた美術館だからでもないが、ここの企画はいつも感心している。一般受けする名作だけではなく、現代美術や地方の芸術家にも焦点を当てているからだ。残念ながらなかなか訪れる機会がないが。

 

 

広いエスプラナード。アーチ状の天井。打ち込みタイル。要素分析すると、ややマンネリ感もあるが、前川しかできないこの赤と黒のビビッドなエスプラナードは今でも十分印象的だった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ272

ホテル イル・パラッツオ

 

往訪日:2025年5月2日~5月3日

所在地:福岡市中央区春吉3-13-1

営業時間:(IN)16時(OUT)12時

料金:【203号室】16,990円(税別)

※現在20,000~30,000円/人(含食事・税別)

客室:77室

アクセス:地下鉄・櫛田神社前駅から5分

駐車場:10台(先着順)

■設計:アルド・ロッシ

■施工:辰村組

■竣工:1989年(2023年改装)

 

《エフェソスの遺跡を思いだした》

 

渡辺翁記念会館に満足し、関門海峡を渡って福岡市内に入った。両親が鬼籍に入って以降、滅多に帰省することがなくなったが、建築という観点でいえば、まだまだ課題だらけの街である。この日の宿はプリツカー賞建築家のアルド・ロッシが手がけたホテル イル・パラッツォだ。

 

(黒服不在のチャンスは早朝の極わずかな時間しかない)

 

チェックインは16時と遅め。但し、駐車場が10台分しかなく、先着順なので遅れることはできない。黒服に身を包んだ金髪碧眼の白人女性と、眼光鋭いインド系の男性がフロント両脇をガッチリ固め、ニコリともせずに応じる。

 

「車を止めたいんですけどにゃ」サル

 

しばらく待たされたのち、顎をしゃくるようにして「こっちにこい」と合図する。

 

(ここも同じ経営のホテルだった)

 

誘われるままに徐行して隣のホテルの脇に停車した。

 

ここで建築家についておさらいを。

 

 

アルド・ロッシ(1931-1997)。イタリア・ミラノ生まれの建築家。ミラノ工科大学卒。都市計画論を中心に多くの論考を発表。ポストモダニズムの時代にありながら、古典的理念に基づく建築を提案。日本国内ではバブルの象徴のように捉える向き(事実そういう嫌いがないでもない)もあるが、建築と都市のありようについて、ひとつの回答を示した建築家だと思っている。

 

 

地上8階SRC+RC造。圧倒するようなファザード。巨大なオーダーやパラペット。普通は客室の連続窓が定番だが。

 

「無機質なデザインだの」サル

 

赤・青・緑の原色がアルドの定番だが、この色づかいと造形は画家デ・キリコの影響によると本人も語っている。空漠に支配された印象はまさに形而上学絵画の世界観に通じる。

 

 

化粧石はすべてイタリア産レッド・トラバーチン。

 

 

一階正面の入り口から入る。この先左におれて地階へ。かつては階段だったがエレベーターに改装された。

 

 

正面の薔薇のアイコンが印象的だ。

 

竣工は1989年。まさにバブル絶頂期の企画。建築はアルド・ロッシ。内装デザインチーフに内田繁(1943-2016)。バーの意匠設計にソットサスガエダーノ・ペッシェ倉俣史朗。そしてロゴデザインに田中一光(1930-2002)。今では考えられない贅沢な布陣だ。

 

(田中によるロゴデザイン)

 

当時の春吉は風紀の悪い界隈として知られ、地元の人間でもあまり足を踏みいれなかった。そこに突如として現れたバブルの象徴。なかば胡散臭げに語られたが、今思えば最先端のクリエーターたちによる美の競演だったといえる。

 

(待合にはアルドのスケッチ)

 

施工は辰村組。現在は合併によって社名は変わっているが、石川県発祥の中堅ゼネコンで戦前の石川県内の洋風建築に携わった名門企業だ。

 

 

創業後、バブル崩壊はホテル経営を直撃。倉俣のバーが結婚式場になるなど、2009年の大改装でほぼ原形を失ってしまう。だがジャスマックからワンファイブズホテルズに経営譲渡され、約18億円の予算をかけて復元改装。2023年8月に完工した。犠牲は最低限に抑えられ、アルドや内田、倉俣たちの仕事が甦った。

 

 

チェックイン後は側面からも入館できる。

 

 

翼廊の風除室。ペールブルーの色使いがいい。ティファニーブルー。

 

 

明り取りも。

 

 

一階に製氷機がある。誰でも入れる空間なのに。かるい違和感。

 

「どこからはいるのち?」サル

 

ここからが曲者だった。

 

 

一見なんの扉か判らない。そりゃそうだ。不審者が侵入しないとも限らないし。入り方は単純。Elevatorと記された箇所にタッチキーを重ねるだけ。それでも迷ったことを白状しておく。

 

「ただ物覚えが悪いだけでは?」サル

 

そうともいう。

 

 

こんな感じ。奥にエレベーターがある。

 

 

僕らのお泊りの部屋は二階だった。

 

「え。二階?」サル

 

日本人だからなめられたんだよ。きっと。←被害妄想の権化。ていうか国内資本だ

 

「ビュー悪いじゃん」サル

 

同じエレベーターに乗った若いカップルが上層階にあがっていく。なぜ?

 

 

この時計は内田デザイン。まだ生きていた。

 

 

姿見にはアルドのドローイングが転写されている。

 

 

天井はヴォールト。照明が美しい。

 

 

内田デザイン事務所による渾身の改修作。

 

 

僕らの部屋。203号室。天井が高くみえる。

 

 

入ると実際に高かった…。

 

 

おサルの背丈と比較するとよく判るだろう。

 

 

スランバーランド社製。マットの厚みに注目。小柄なおサルはよじ登らないといけなかった。

 

 

締め切るとこんな感じだが…

 

 

カーテンを開けるとガラリと雰囲気が変わる。とここで気がついた。

 

 

ベランダつきの部屋ということでこの部屋を選んだのだった。

 

 

「そうであった」サル

 

 

最近ふたりとも記憶力の衰えがひどい。(というよりなんでも人のせいにするのはまずい)

 

 

あれって陸庇からの引用なのだろうか。(この設計を請け負うにあたってアルドは日本建築を広く取材したそうだ)

 

 

さて荷物も片付いたし。夕食までゆっくりしよう。

 

 

テーブルにはホテルからのささやかなプレゼントが。佐野隆さんがプロデュースする高級チョコ店《チョコレートショップ》の生トリュフチョコだ。

 

 

もはや芸術品だね。

 

 

このひとはチョコより酒だった。

 

 

しばし泡風呂で読書。

 

=夕 食=

 

 

夕食も朝食も地下1階のラウンジ《エル・ドラド》でのバイキングスタイル。

 

 

開業時は2階にあったレセプションは2023年の改修で地下1階に変更された。ラウンジと平面で繋ぎ、サービスの無駄を省く工夫だと思われる。

 

 

開業時はディスコ。その後バンケットルームに変更された。

 

 

席は空いている。スタッフに指定されるが、変えて欲しければ言えばいい。ビジター(非宿泊者)向けのランチ、ディナーとして人気。逆にインバウンドの宿泊客は(屋台とかもつ鍋とか)外で食べる傾向にあるので逆転現象が起きている。

 

 

21時から午前3時まではバーに。行きたかったが起きていられない。

 

 

中央にはダンシング・ウォーター。今回の復元改装で太陽の道、ガレリアの道も復活。

 

 

中央にアルドのドローイング。誰も気にもしないが。メニューは豊富。通常のバイキングとは違って旨い。

 

(どれもいい値段だ)

 

折角なのでワインをボトルでとった。皆水しか飲まないのでバブル世代は浮いている。イタ飯にイタ車。服はアルマーニにベルサーチ。日本人全体がイタリア病に侵されていた時代だった。

 

 

スタッフは皆浅黒いインド系?の若者。とても優しくてチャーミング。だが、スクリュー式なのにオープナーで強引に切るものだから、いつまでも開かない。開くわけがない。

 

 

せっかくのシャブリも生ぬるくなって。ワインの開け方を知らんらしい…。


 

まず一皿目。野菜中心に攻める。血糖値があがらないように。酒飲んだら一緒という説もあるが。

 

 

二皿目。鶏ハムでカロリーを抑えて、好きな豆はガッツリと。ここで潔く終了。「全品完食しました!」と喜び顔で報告するビジターの記事も眼にするが。趣味ではない。ていうか肥る。

 

 

というのは言い訳でドルチェを好きなだけ食べたかっただけ。カシスがベースになっていて色合いもアルドレッドなのだ。オシャレ。

 

=翌 朝=

 

この日は大濠公園までけやき通りをぬけてジョグ。懐かしい風景がつづく。

 

 

こんなものができていた…。福岡市科学館か。噂には聞いていたが。佐藤総合計画かなと思ったがNTTファシリティーズだった。

 

 

《青陵の街・六本松》(2018)とあの銅像も名を変えて。人も街もどんどん変わっていく。

 

=朝 食=

 

 

今日こそはあそこで食事だ。

 

 

奇蹟的に残っていたバーの棚を再利用している。ファザードと相似だ。

 

 

中二階のスペースはいずれダイニングテラスか何かになると書かれていた。

 

 

オートミールの髭ができているよ。

 

 

このパンが名物らしい。

 

 

朝もアルドレッドで攻める。

 

 

でもさすがに和食が恋しくなる。やっぱり博多に戻ったら辛子高菜とめんたいやろ。

 

 

12時までゆっくりできる。食事もエンドレスにできる。でもそれが目的じゃない。

 

 

食事を済ませてチェックアウト。まずは市内へと飛び出した。

 

※料金はAIによる変動価格制。一年前はGWでもこのクラスにしては控え目。その後の展開はある程度予想はしていたが、最近の旅館・ホテルの料金の値あがりはすさまじい。「行きたい旅館やホテルは早めに」という判断は間違ってなかったと思う。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ271

渡辺翁記念会館

 

往訪日:2025年5月2日

所在地:山口県宇部市朝日町8-1

開館:9時~17時(不定休)

料金:不要

アクセス:JR宇部線・宇部新川駅から3分

駐車場:138台(無料)

※内部見学を希望する場合は1箇月前~1週間前に要電話予約

 

■設計:村野藤吾

■施工:不詳

■竣工:1937年

■BELCA賞(1995年)

■DOCOMOMO選定(1999年)

■国指定重要文化財(2005年)

■近代化産業遺産(2007年)

 

《ソロソロやり直さんとね》

 

山口市内を後にしてこのまま関門海峡を渡る予定だったが、どうしても寄り道したい場所があった。それが渡辺翁記念会館だった。

 

 

いつもの話になるが、僕が建築に興味を抱くきっかけとなった『原色日本の美術㉘近代の建築・彫刻・工芸』(小学館)に疑洋風建築や東京停車場を代表とするネオルネサンス様式の赤煉瓦が主として紹介されていた。

 

 

そんななかに大島測候所(堀口捨巳)や東京逓信病院(山田守)など、小学生には「ただのビルじゃん」としか思えない“面白味”のない写真が連なっていた。ときは昭和50年。名建築というには現役すぎたし、コンクリートむき出しのビルは子供にはハードルが高かった。

 

 

その末尾を飾るのが渡辺翁記念会館だった。これだけが妙に心に響いた。矩形を基本とする近代建築にあって曲線が主旋律を極め、そこに色付きの塩焼きタイルが張巡らされている。更に列をなす用途不明な列柱。それに「渡辺翁」とは一体だれだ。

 

 

数十年にわたって謎は謎として残った。

 

 

ということで初の宇部市内に到着。セメントの街、産業の街を想像していたので、その小奇麗さがちょっと意外だった。駐車場に車を止めて小走りで建物の正面に立つ。想像していたよりもやや横長。そして誰もいない。大抵「そこじゃなくても」という場所で日向ぼっこする爺さんや愛を囁き合うカップルがいるのだが。

 

 

宇部興産の前身である沖の山炭鉱の創業者・渡辺祐策翁の名を冠した音楽ホールとして、翁が興した会社7社(沖ノ山炭鉱、新沖ノ山炭鉱、宇部セメント、宇部窒素、宇部鉄工所、宇部電気鉄道、宇部紡績)が寄附して誕生した。長らく謎だった“六本の列柱”は中央の台座とあわせてそれらの会社を表していた。

 

 

玄関から公園をみかえす。正面に渡辺翁の銅像がある。小さくて見えないが。後から知ったが制作は朝倉文夫。判っていれば走って観にいったのだが…。

 

「あとの祭りだの」サル

 

 

設計は村野藤吾。地上三階鉄筋コンクリート造。屋根は木造(のち銅板葺に改修)。戦前の仕事の集大成などと言われる一方、ロシア構成主義からの引用だとか、いいとこ取りとか揶揄されることもある。外見だけならばそういう議論もおかしくないかもしれないが、内装はといえば、これはもう村野なのだ。でも見られない。

 

「今から見学ってできますかの」サル

 

みればおサルがスマホで確認中。なんと心強い味方!いや妻なのだろう!

 

「ダメだって。イベントがない日に事前に連絡くれればOKだって」サル

 

だよね。

 

 

訪れると決めていたならば、電話一本で観ることはできたのに。最近特にひどくなってきたメンドクサイ病。そういう自分が厭になる。せっかくのチャンスをみすみす棒に振ってしまった。

 

 

玄関には炭鉱を表したレリーフ。

 

 

雨除けには簡素な意匠。村野建築はいくら観ても飽きることがない。

 

 

隣りはやはり村野が手がけた宇部市文化会館(1978)だ。

 

 

大がかりな足場を組んで重機をいれての改修工事の真最中だった。残念ながら今回はスルー。今年の4月17日にリニューアルオープンする。

 

「取壊しじゃなかったんだにゃ」サル

 

好かったよ。最初焦ったもの。

 

 

側壁のスリット。垂直の支柱。

 

 

二階の窓は凝ったサッシをガラスブロックで囲んでいる。これが戦前の建築だからね。

 

(以下参考資料)

 

ホール内部

 

 

ホワイエ 市松模様の床が映える。

 

 

長く緩やかな階段部。蹴込みがテラゾー仕上げの内階段。天井は村野お得意のくりぬき紋様。

 

 

曲線を帯びた三層のファザードも素敵だが、真横からみるホールのシルエットも美しい。と、そこに一台のトラックが間の悪いことに横付け。これは時間がかかりそう。階段状に並ぶ開口部を撮りたかったのだが。

 

「だいたいこうなるよね」サル

 

残念ながら粘るだけの余裕はなかった。さっきまで居なかったのに。

 

DOCOMOMOにBELCAに近代化産業遺産に重要文化財認定。タイトル総なめの感がある。それまで(評者によってはその後も)やや色物あつかいだった村野が日本を代表する建築家として認められた記念碑的名作で、この後、宇部に多くの村野作品が生まれることになるが、それはまた別の話だ。このあと関門海峡を渡り、この日の宿をめざした。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ270

山口県立美術館

 

往訪日:2025年5月2日

所在地:山口県山口市亀山町3-1

開館:9時~17時(年中無休)

常設:一般400円 中高生250円

アクセス:中国道・湯田温泉SICより15分

駐車場:無料(200台)

■設計:鬼頭梓建築設計事務所

■施工:鹿島建設

■竣工:1979年

 

《図書館建築の父は美術館もうまかった》

 

続いて山口県立美術館を訪ねた。広大な緑地公園のなかに県立博物館(坂倉準三)、県立図書館(鬼頭梓)と三位一体で構成されている美しい美術館で、郷土出身の画家・香月泰男のコレクションでは国内随一を誇る。

 

 

設計は鬼頭梓(1926-2008)。近代図書館建築のパイオニアとして知られるね。東京生まれで東京大学建築学科を出たのち前川國男の事務所で腕を磨き、38歳で独立。そこで手掛けたのが東京経済大学図書館(1968)だ。前川とその師であるル・コルビュジエの遺訓を継いだ水平なフォルムと「フラットフロア・ノーステップ」の実践はその後のメルクマールとなった。

 

★ ★ ★

 

駐車場は広大な亀山公園のなかにある。まず止められないことはない。そこから地下通路で横断して向かいの美術館に向かった。

 

 

虚飾を排除したすばらしいデザインだ。赤い煉瓦造りはもうひとつの代表作の日野市立中央図書館(1973)を髣髴とさせる。

 

 

往訪者の負担を軽減する低層の階段で導く導線がいい。図書館と違って日光を抑制する構造なのだろう。採光エリアは連続アーチのピロティの奥に限定している。

 

 

横断方向に走るプレキャストの梁とアーチ部を直角方向に結ぶ。

 

 

ちなみにここは山口大学経済学部の跡地だった。

 

 

建物の内外を隔てるのはこの一枚のガラス。空間の連続性と開放性を第一にした鬼頭の設計マインドがよく表れている。

 

 

この日の企画展はカナレット。その実作を初めて観たのは学生時代に訪れた欧州の美術館だった。それがどこだったか既に判然としないが、精密な画風に圧倒されたことだけは昨日のことのように覚えている。しかし、見慣れるにつれて感動は薄れていった。それは画というより、例えば建築の精密なパースをみているような、そんな印象に転じていったのだ。

 

 

屋内の陶板による内装。誰かの仕事だと思うのだが…。多田さんじゃないよな。

 

 

オープンテラスのような解放感。

 

 

屋外彫刻も充実しているので見ない手はない。というのは現代彫刻の登竜門のひとつだった宇部市屋外彫刻展とのつながりが深いからだ。

 

杉浦康益《陶による石の群》(1984)

 

杉浦康益(1949-2000)。東京生まれ。東京藝大院修了。一貫して群れることを嫌った孤高の美術家。作品もそんな感じだ。

 

田辺武《情景あるいはヘンデルの「水上の音楽」に捧げる》(1975)

 

田辺武(1945-)。山口生まれ。愛知県立芸大院修了。公募展で活躍した。波に揺蕩うのはビール瓶。

 

田中米吉《ドッキングNO.40》(1977)

 

田中米吉(1925-2021)。山口生まれ。宇部高専卒。家業(ういろうの名舗・御堀堂)の傍ら積極的に彫刻を公募展に発表した。生涯現役だったそうだ。

 

ダン・グレアム《パヴィリオン》(1990)

 

ダン・グレアム(1942-2022)。アメリカ出身のコンセプチュアルアートの先駆者。今年の秋に大規模な回顧展が東京オペラシティで開催予定。

 

菅木志雄《間中》

 

菅木志雄(1944-)。ものが在るという空間の関係性か。いや。そんなものは感じていない。「菅木志雄」を知ってしまい、同じ視線でしか観ることができなくなった。だから菅の作品の前にたつと未熟な鑑賞者を自認するしかない。苦手だ。

 

川口政宏《作品B-1》(1979)

 

川口政宏(1936-2012)。東京生まれで東京教育大を卒業後、山口大学で生涯教鞭をとった。

 

「ガマの穂?」サル

 

僕には針治療にみえる。

 

 

館内にもどって常設展示を鑑賞することにした。

 

コレクション展示室Aは「日本画の情景Ⅰ理想郷を求めて」と題した、古くは狩野松栄から、新しいところでは松林桂月らの日本画四幅二双が展示されていた。

 

 

一番期待していたコレクション展示室Bの香月泰男コレクション「シベリア・シリーズⅠ応召とハイラル駐屯」は13作が展示。当然だが、収蔵作品すべてを常設している訳ではない。過去の回顧展で実見済みなので、作品そのものの興味よりも、この美術館に香月の画がどのように溶けこみ、風土の空気とどのように感応しているのか、そのことを確認したかった。

 

香月泰男《青の太陽》(1969)

※香月泰男展(2022)より再掲

 

撮影はできないので、ここで実景をみせることはできないが、企画室と常設室、(鬼頭が提案した)左右に長く伸びたスロープの先の小さな画室に、「孤高」の呼び名に相応しいありさまで(《雨〈牛〉》や《ホロンバイル》など)香月の画は並んでいた。

 

山口県立美術館は地方美術館としては珍しく、写真の蒐集にも力を入れている。コレクション展示室Cにおいて、今回はドイツの世界的写真家トーマス・シュトゥルート(1954-)の80年代の都市風景、―ドイツ、新宿、そして山口をモノクロで表現した作品25点が展示されていた。企画展なしでも充分奥深い。そんな美術館だった。

 

残念ながら行程の関係上、県立図書館と県立博物館は別の機会に。こんな晴天二度とないかもしれないが、人生はケセラセラだ。

 

「オーララー」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ269

山口ザビエル記念聖堂

 

往訪日:2025年5月2日

所在地:山口県山口市亀山町4-1

開館:10時~16時(年中無休)

料金:一般200円 小学生100円

アクセス:中国道・湯田温泉SICより15分

駐車場:無料(30台)

■設計:コンスタンティノ・ルッジェリ、ルイジ・レオーニ

■施工:清水建設

■竣工:1998年

 

《モダニズム風のファザード》

 

山口県旧県庁舎に続いて最寄りの山口サビエル記念聖堂を往訪した。ご存知のとおり山口(周防国)はフランシスコ・ザビエルの布教活動ゆかりの地。その布教400年を祝して1952(昭和27)年に建設された。戦後の混乱がやまない頃によく造ったと感心する。それだけ救いを求める声が多かったということだろう。

 

 

残念ながら(ザビエルの生家を模した)初代は失火により全焼。1998年に再建された。設計はイタリア人神父のコンスタンティノ・ルッジェリと建築家のルイジ・レオーニ。神と共に暮らす白いテントを模したらしい。

 

 

広く張り出したテラスの下に漲る大きな水盤が際立つ。

 

 

化粧板はカッラーラ産の大理石だろうか。冷厳な印象を醸しだしていた。

 

 

一階からお邪魔する。聖堂を訪れるたびに普段忘れている慎みを慌てて探す自分がいる。

 

 

一階はザビエルとイエズス会に関連する資料が展示されていた。

 

 

円や矩形など開口部に変化をつけている。

 

 

 

 

 

十字架の道行きがレリーフに表されている。

 

 

ザビエルがポルトガル国王に充てた自筆の手紙(1548年1月20日)。孤児院への支給金の増額や遺産相続への官吏の不当介入の禁止、そして修道士の市議会業務免除など、実に現実的な申し出をしている。神のしもべであるザビエルも、本国においては一官吏としての重い役割を担っていたことが判る。

 

「王様がいうこと聞くかな」サル

 

最後にこう付け加えることをザビエルは忘れていない。

 

 

「脅すにゃー」サル

 

いやいや。立派なお言葉だよ。

 

 

1549年に鹿児島に到着したザビエルは翌年平戸を経て山口に赴く。だが、藩主・大内義隆は清貧の佇まいで貢物も持参せずに謁見をもとめたザビエルにひどく腹をたてる。

 

「了見のせまいヤツだのー」サル

 

当時の慣例を考えると義隆の怒りも判らないではない。しくじったザビエルは船で堺に渡航。雪山越えで京都に向かう(左図)。狙いは帝の擁護と布教のお墨付きを得るためだった。しかし、当時の京都は戦乱のさなか。失望したザビエルは再び山口に戻る。

 

「なんか旨くいかんね」サル

 

過去の失敗を繰り返すことなく、許可をえて布教を開始。わずか三箇月だったが、多くの民心を捉えることに成功(中図)。次なる布教のために中国をめざしたが、病をえて志半ばにしてサンシャン島で客死(右図)。46歳だった。

 

 

この階段が素晴らしい。

 

(キリシタン墓碑)

 

支柱のない中空式のコンクリート階段。しかも三次元変化つき。痺れるね。

 

 

二階は祭壇になっていた。正面には銀色に輝く十字架。その中央に小さなイエスの像が。

 

 

色鮮やかなステンドグラスが神の国を表している。

 

 

ドイツ・ベッケラート社製。奏でられるパイプオルガンの響きに心を洗われた。

 

 

下弦の月に脇から流れる赤い血。救い主キリストがわれわれに代わって流した血を表している。その下には原罪の象徴である蛇の姿が。

 

 

聖櫃にはイエス・キリストを意味するI・Xと太陽が意匠化されていた。背後のステンドグラスは救いのカリスを描いている。

 

 

「いろんな意味が込められているんだの」サル

 

他にもΑとΩとか。神の眼とか。

 

「サルは見ている」サル 頭の黒いヒツジを

 

(ネット拝借画像)

 

「怒られるよ」サル

 

ごめん。マジメなことばかり書くことに耐えられなくて。

(聖書配布教会の活動に心から平服する者であることを誓います)

 

ちなみにザビエルの書簡は137通現存している。当時の船便の送達が不確実だったため、同じ書簡を三通出すのが通例だったとか。それはそれで怖いね。沈没するってことだし。

 

 

ザビエル聖遺物(右手指の骨の一部)。聖遺骸はゴアのボン・ジェズース教会に安置されている。

 

 

やはり教会建築はどこの建物もいい。心穏やかになれる。

 

「節操ないね」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ268

山口県旧県庁舎・旧県会議事堂(現 県政資料館)

 

往訪日:2025年5月2日

所在地:山口県山口市滝町1-1

開館:9時~16時30分(月曜休館)

料金:無料

アクセス:県庁前バス停前

駐車場:無料(約50台)

■設計:武田五一・大熊喜邦

■施工:不詳

■竣工:1916年

■国指定重要文化財(1984年)

 

《器用な建築家ですねほんとに》

 

山水園の支払いをすませて見送られたあと、最初に向かったのは旧山口県庁舎県議会議事堂だった。

 

 

1984年に新しい庁舎が建てられ、旧庁舎は県政資料館として開放されている。申し訳ないが新庁舎は面白味のない現代建築。

 

山口県旧県庁舎

 

 

戦前建築都道府県庁舎24のひとつ。連続するドーマー窓が眼を惹く。ちなみにその24庁舎は以下の通り。

 

北海道、山形、栃木、群馬、茨城、神奈川、富山、石川、山梨、長野、岐阜静岡愛知、三重、滋賀京都大阪、兵庫、和歌山、山口、徳島、愛媛宮崎、鹿児島。(※現役庁舎は青アンダーラインつき。それ以外は記念館・ホールとして利用されている)

 

「たった12庁舎しか使われてないんだ」サル

 

だからとても貴重なんだよ。

 

 

当時大蔵省の臨時建設部長をつとめていた妻木頼黄が指導。武田五一大熊喜邦が設計にあたった。ちなみに竣工時の武田は44歳。大熊は39歳。

 

大熊喜邦(1877-1952)

 

大熊は初めて取り上げるので経歴を附すると、東京生まれで東京帝大工科大学卒。横河工務所などをへて大蔵省や内務省技師を歴任。多くの営繕施設の設計に携わった。最大の実績は(複数関与者がいるものの)国会議事堂だ。

 

 

ネオルネサンス様式を基調としつつ、ゼツェッシオンや東洋的エッセンスを採りいれているのは武田の趣味だったのだろうか。

 

 

玄関ホール。大抵は豪華な装飾が施される場所だが意外にも簡素。

 

 

翼廊部。卍崩しの意匠がみえる。

 

 

二階への階段が(正面大階段ではなく)両脇から続くのも珍しい。草色の連続模様も独特だ。

 

 

二階ホール。正面がバルコニーに連続している。

 

 

バルコニーを望む。支柱の面取りがゼツェッシオン風。

 

 

2004年に大規模改修をおえているのだが、廊下の塗装の剥離が目立つ。老朽化というより、補修の塗装系が漆喰に合わなかったのでは?

 

 

もっとも格式高い正庁会議室

 

 

別角度から。

 

 

シャンデリアは往時のものらしい。

 

「お客さんいないね」サル

 

大型連休のど真ん中なのだが。最近判ってきたが、同じレトロ建築(好きじゃないけどこの表現)でも県庁舎は大味に映るのか、意外に観光客や俄か建築好きの食指を動かさないらしい。

 

 

建物はロの字に中庭を囲む。飛び出している矩形二階建ての部分はトイレ。

 

 

旧副知事室。腰板のブルーがオシャレ。

 

 

歴代の知事の顔が並ぶ。

 

 

部屋ごとに天井や暖炉の意匠が違う点も注目ポイント。

 

 

資料より。東宮時代の昭和天皇の行啓記念写真(大正15年5月29日撮影)。

 

 

旧知事室。さすがに豪華絢爛。

 

 

組紐細工のような折上げ天井が類をみない。

 

山口県旧県会議事堂

 

次はお隣の県会議事堂だ。

 

 

特徴的な塔屋つき。旧県庁舎と議会庁舎の一体現存はここと旧山形県庁舎(文翔館)しかない。

 

 

二階窓が円型。一階窓は方形。ネオルネサンスの典型的パターン。

 

 

車寄せの支柱は県庁舎と同じ。先程ゼツェッシオンと書いたが、表現主義的な彫塑性も感じる。1910年代以降(ヒトラーに叩き潰されるまで)の流行は時代的に重複するが、この頃のイズムの伝播には数年単位のズレはあっただろうし、単なる印象論でクロスチェックを行ったわけではない。あくまで直観だ。

 

 

階段の親柱が塔屋とほぼ同形。どれだけの人が気づくだろうか。

 

 

参事会場

 

 

展示室にて。幕末期に藩庁が萩から山口に移転。その遺構(懸魚ほか軒飾り)。

 

 

竣工した当初は田園にうかぶ白堊の城だったのだ。

 

「ホントだ」サル なにもないね

 

 

一階玄関ホール。正面に議場が続く。右手が議員控室だ。

 

 

議員控室。昔の写真をもとに窓の緞帳を再現。天井の漆喰飾りと斜めに走る格縁が眼を奪う。

 

 

まさに職人技。

 

 

最後に議場へ。

 

「天井が高いねー」サル

 

 

演壇から正面を。二階は記者席と傍聴席だった。

 

 

今度は二階傍聴席から演壇と議長席を見下ろす。

 

 

控室などと比較すると柔和な装飾だった。ということで次なる目的地へ。

 

(つづく)

 

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