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ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ281

東京都美術館

 

往訪日:2025年5月11日

所在地:東京都台東区上野公園8-36

開館:9時30分~17時30分(第1・第3月曜休館)

入館:無料(展示は企画毎に異なる)

アクセス:JR上野駅から7分

駐車場:なし

■設計:前川國男建築設計事務所

■施工:大林組

■竣工:1975年

 

《何回来ただろう》

 

GW明け最初の街歩きは東京都美術館。過去幾度も往訪しているので今更感もあるが、なおざりにできない建築のひとつでもあり、改めて建築目線で見てみることにした。

 

「いまさらか」サル

 

 

陽気というには既に蒸し暑い。そんな一日だった。

 

「年々加速している気がすゆ」サル

 

夏場の開場待ちはできなくなるかもね。

 

(「京」の字がちょっと変)

 

なお当館は二代目。初代は東京府美術館で設計は岡田信一郎が担当した。6本のオーダーが陸屋根をささえる新古典主義的な優美かつ端正な建築だったが、老朽化と手狭感が問題になり、戦後建て替えに至った。それが今の美術館である。

 

 

設計は前川國男(1905-1986)。コントラストの効いたベンガラ色と黒褐色をみれば誰もが判る。前川は既に70歳。最初のパースはどうか判らないが、さすがにこれも弟子の仕事ではないだろうか。

 

 

エスプラナードを進んで一段くだると正面に中央棟。左に公募棟。右に企画棟が並ぶ。特別展示はこの公募棟で開催されているね。入館だけならば無料。建築ツアー(奇数月の第三土曜)も開催されている。

 

 

ここもはつり加工。

 

 

それでは入館。

 

 

おなじみのアーチ式天井。

 

 

福岡市美術館と違ってリング式の照明。

 

 

ベンチもコルビュジエカラー。

 

 

壁も。

 

 

こんな感じで。

 

 

ホワイエの低い天井も特徴。

 

 

埼玉会館(1966年)あたりからかな。この傾向。

 

 

でも階段部はちょっぴりブルータリスティックで好きなポイント。

 

 

こういうトライアングル式の階段は他の前川建築では見たことがない。

 

 

二階ラウンジ室

 

 

二階ホワイエ

 

 

一階ホワイエ

 

個として観察すれば観るべきポイントはあるのだが、(特に後期作品は)マイナーチェンジの連続という感じがあって、複数の作例を比較してしまうと没個性的な印象になってしまう。ついでに野外彫刻にも触れておこう。

 

五十嵐晴夫《メビウスの立方体》(1978)

 

第6回現代彫刻展出品作。一種の騙し絵的な彫刻。

 

 

観る角度で印象がガラリと変わる。「視る」という行為の不確かさを感じさせる。

 

鈴木久雄《P3824 M君までの距離》(1972)

 

第32回行動美術展出展作。鈴木久雄(1946-)は静岡生まれで武蔵野美大で彫刻を学んでいる。母校で教鞭をとりつつ、海外でも広く活動していたらしい。寝そべって片手をあげた男性のようにみえるが、タイトルの意味が知りたい。

 

保田春彦《堰のみえる遠景》(1975)

 

美術館屋外彫刻でおなじみ保田春彦。

 

堀内正和《三つの立方体 A》(1980)

 

こちらもおなじみの堀内正和。

 

堀内正和《三本の直方体 B》(1978)

 

なんか福岡市美術館のデジャヴだな。

 

井上武吉《my sky hole 85-2 光と影》(1985)

 

そしていよいよ井上武吉の球に接近。

 

「どっかで見たことあゆかも」サル

 

箱根彫刻の森芹ヶ谷公園とかね。

 

 

いつものように覗いてみる。何もないと思うでしょ。でもなにかあるのよ。井上の彫刻は見る側のイマジネーションを問うね。

 

(アート篇につづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツの酒【第330回】

✚旭日 麹39 純米生原酒 雄町 R6BY

 

製造年月:2025年3月

生産者:旭日酒造㈲

所在地:島根県出雲市

タイプ:純米生原酒

使用米:倉敷産雄町100%

使用酵母:協会7号

精米歩合:70%

アルコール:17%

杜氏:寺田幸一氏

販売価格:1,778円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒は島根の✚旭日(じゅうじあさひ)。GW明け最初の週末に頂いた。横浜の蕎麦屋で蕎麦前に併せたのが最初。その後(西日本ではポピュラーなだけに)大阪赴任では馴染みになった。初の家飲みに選んだのはこの純米生原酒。味はいかに。(2025年5月10日賞味)

 


ずいぶんと賑やかな表ラベルだ。島根の酒といえば濃厚な旨口系。とりわけ✚旭日は革新的という意味でその極左にあたる。この麹39シリーズはBYごとに造りが替わり、表ラベルはさながら小学校の黒板のようにその思いが記される。R6BYは「ご縁」。

 

 

ちなみに「39」は精米歩合ではない。麹の量を39%に高めたという意味だ。通常は20%。つまり二倍!要するに糖化の割合も二倍ということだ。するとどうなるか。

 

「甘くなる」サル

 

そういうこと!

 

「甘口きゃ~」サル

 

 

ときは明治。混沌とした中央政界をよそに、出雲では酒蔵がまたひとつ生まれた。旭日酒造の創業は1869(明治2)年。のちに大正天皇巡幸のおりに木戸隆正侍従長より「旭日」の揮毫を拝領。そこに能勢妙見山の紋章・切竹矢筈十字を組み合わせて代表銘柄が誕生した(HPより抜粋)。

 

 

手作り感が伝わる上質なテクスチャー。ええとこどりしたような、つまり、濁り酒の上澄みだけを飲んでいる感じだ。トコトン冷やしたのも効果ありで、甘味はグッと抑え込まれている。

 

 

コクがありながら、奇麗にきれる。

 

「本当だ。あんまり甘くない」サル

 

裏ラベルを確認すると日本酒度ー13。歴とした辛口で旨いはず。おサル手製の棒棒鶏でまた一献と酌み交わす。

 

 

「物足りんと思ったから紫蘇チーズ揚げ春巻も作った」サル うめーら?

 

さすがはおサル。酒飲みの心を鷲掴みだね(笑)。

 

 

初めての火入れではない✚旭日。力強い旨味に満ちた酒だった。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの酒【第329回】

尾ノ下エステートシャルドネ#5

 

ヴィンテージ:2023年

生産者:都農ワイン

所在地:宮崎県児湯郡都農町

タイプ:白・辛口

原料:都農町産シャルドネ100%

酸化防止剤:使用

アルコール:12%

販売価格3,350円(税別)

 

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

朝からビカリアの化石のクリーニングに二時間半かけて満足し、午後は映画「八つ墓村」を視聴。充実した最終日だった。その日は実は僕らの大切な記念日。完全に失念していたが、とっておきの都農ワインで祝福することにした。(2025年5月6日賞味)

 

「やっぱりワインが好き♪」サル

 

 

南国の宮崎でワインなんてできるのか。最初に知ったときは正直そう思った。だが、本場フランスにも負けない仕上がりという評論家の意見を知れば、一度は飲みたくなる。いまだ自分の舌を持つことのできない僕は、他人の評価に振り回されてばかりだが、もう抗うのはやめにした。この歳だし。

 

「ぜんぜんだめじゃん」サル

 

批評家バンザイ!

 

 

銘柄は「尾ノ下地区の第5区の圃場」を表している。都農ワインの醸造所は名峰・尾鈴山山麓の台地に位置し、その気候風土が良質のぶどうを産するという。製法はマロラクティック発酵&シュール・リー。乳酸によって棘のある酸を穏やかに抑え、厚みとコクのある味わいをもたらす。教科書的にはそういうことになりそうだが。

 

「飲もう!飲もう!」サル

 

 

そそいだ瞬間にきめ細やかな泡が。味わいは奇麗な酸。そこに柑橘系のフレーバーが峻烈に弾ける。どちらかといえば北仏のシャルドネに近い感じかな。

 

 

記念日に働かせて悪いねといいつつ、そろそろ家庭料理が恋しいというのもホンネ。

 

「旅行から帰ってすぐできる猪肉鍋にしただよ」サル

 

猪肉の旨味が岡山産コンニャクと舞茸によく染みる。和食でもぶつからないのが国産ワインの好いポイント。

 

 

赤エンドウと新玉葱のオムレツ風。

 

「ちょっと崩れちゃったけど」サル

 

これはこれで旨いよ。というよりなんでも我が家は酒の肴(笑)。

 

 

終わってみればあっという間の連休だった。

 

「ワインもあっという間だった」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

八つ墓村

松竹(1977年)

 

監督:野村芳太郎

原作:横溝正史

脚本:橋本忍

製作:野村芳太郎、杉崎重美、織田明

出演:萩原健一、小川真由美、山崎努、渥美清、市原悦子、中野良子、山本陽子他

音楽:芥川也寸志

公開日:1977年9月23日

鑑賞日:2025年5月6日(amazon prime)

 

(※ネットより節度を持って拝借しました。努めて顛末は伏せてますが一部ネタバレも)

 

2025GWの最終日。荷物の片づけを終えたあと映画「八つ墓村」を視聴した。今回の旅で訪れた津山、安来、そして高梁は少なからずこの映画に関係していて、因縁めいたものを感じたというのがきっかけである。

 

 

封切りされた1977年。TVのゴールデンタイムに映画CMが盛んに流れた時代だ。「八つ墓村」のそれは山崎努演じる狂者・多治見要蔵が日本刀をかざして褌もあらわに駈け寄ってくる姿に「祟りじゃーっ」のセリフがかぶる一度観たら忘れられないものだった。

 

「世代だのー」サル

 

それがドリフのネタになると映画を観た子もそうでない子も何かといえば「たたりじゃー」と言って騒ぎ立てたものだった。残念ながら我が父は映画館に絶対行かない主義。リアルタイムに観ていない。

 

「不憫だのー」サル

 

(多治見家の会席の場で第二の怪死が起きる)

 

製作期間2年3箇月。総製作費7億円。上映時間2時間31分。同じスタッフで挑んだ映画「砂の器」のヒットをうけて松竹が二匹目のドジョウを狙った大作だった。普通は旨くいかないものだが、前作を上回る大ヒットにつながった。

 

あらすじ

 

羽田空港の誘導員として働く青年・寺田辰弥(萩原健一)は、親戚の未亡人・森美也子(小川真由美)の招きで生まれ故郷の八つ墓村に帰る。本家の主・多治見久弥(山崎の二役)が余命幾ばくもなく、このままいけば辰弥が跡取りになるという。その後、関係者の不可解な急死が続く。聞けば久弥の父・要蔵は辰弥の母(中野良子)を強引に妾にし、その母が出奔すると発狂して家人を次々に日本刀と猟銃で惨殺し、行方知れずになってしまう。それが自分の父なのか。辰弥は自分のおいたちに悩み始める。

 

 

この場面は津山三十人殺しと呼ばれる実際の事件をモデルにしている。

 

(尼子一族の居城が安来の月山富田城)

 

美也子の説明によれば多治見家の呪われた歴史は400年前の戦国時代に遡るという。当時、毛利の軍勢に敗れた尼子義孝(夏八木勲)ら落武者八名が村外れで暮らし始めた。多治見の祖先・庄左衛門は褒賞欲しさに彼らを騙して嬲り殺しにする。尼子は「末代まで呪ってやる」と叫んで絶命。その後、庄左衛門は気がふれて自分で首を刎ねて死亡。祟りを恐れた村人は亡骸を懇ろに葬った。それが八つ墓村の由来だ。

 

 

惨たらしい怪死が続くが、なかなか金田一(渥美清)は現れない。現れたかと思うとまたどこかにいってしまう。石坂浩二や古谷一行の金田一を見慣れた客には、無骨で控え目な渥美の金田一に物足りなさを覚えるかもしれないが、原作者の横溝は二枚目の金田一が不満で、渥美を指名したのは他でもない横溝自身だったという。

 

ということでカンタンに脱線したが、実はこの美也子をくさいと睨んだ金田一がその身辺調査に大阪に飛んでいたというのが真相。そう。犯人は美也子。もう幾たびも舞台化、ドラマ化されているからいいだろう。原作は異様に登場人物が多くて複雑な展開なのだが、それをバシッと明快な筋書きにかえたのは名脚本家・橋本忍の技。生臭い人間模様や抜き差しならない業を描かせたら日本一。

 

他方、慶應卒業後に松竹蒲田に入社したインテリの野村も、やはり黒沢組に入っているが、量産タイプの青春ものやコメディが多かった。芸術的志向を持ちながら、映画に関しては職人に徹したひとだったのだろう。評価が定まったのが清張の短編の映画化「張り込み」(1958)だった。

 

 

演出について。双子の老婆、小竹(市原悦子)と小梅(山口仁奈子)は一人二役と長らく思っていた。メイクのなせる業だ。山崎の要蔵しかり、ラストシーンの小川しかり。ドぎついまでのメイクは推理物というよりオカルト。遺産目当ての犯行だったが、実は美也子は尼子の末裔で、知らずして祖先の仇討ちをしていたという設定もオカルトだ。全編を覆うオカルト色は野村と橋本の計算だったそうだ。

 

 

この鍾乳洞での般若顔への豹変シーンは独特の色気とアクの強さをもった小川でしかありえなかった。吉永小百合や栗原小巻ではこうはいかなかっただろう。本篇の要ともいえる場面だ。

 

(ロケは富田城ではなく秋吉台だった)

 

真相を悟った辰弥は美也子に殺されかけるが、突然の地震により美也子は絶命。そして鍾乳洞から一斉に飛び出したコウモリの群れが小竹婆さんが読経をあげる仏間に飛び込み、はずみで倒れたロウソクから引火。多治見の豪邸は劫火に包まれ灰燼に帰していった。そのさまを高台から見ていたのはあの尼子の落武者たちの亡霊だった。

 

 

この映画では脇役にすぎない夏八木勲のこの怨嗟の笑みこそ、本篇の優れた演技のひとつに数えたい。こののち角川映画の常連としてスターダムにのし上がっていく夏八木は、どうしても肉体派のイメージが強いが、無骨と薄皮一枚の演技ながらいい味を出していたと僕は思う。最後の羽田空港のエンディングシーンで流れる芥川也寸志の抒情的かつ哀切なメロディ。メガホン、脚本、音楽が三位一体となった噂に違わぬ名作だった。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

備中松山城

 

往訪日:2025年5月5日

所在地:岡山県高梁市内山下1

開館:【4月~9月】9時~17時30分(年末年始を除き無休)

料金:一般500円 小中生200円 

アクセス:岡山道・賀陽ICから約30分

駐車場:無料(110台)

■国指定重要文化財(1941年)

 

《小ぶりながら秀麗》

 

旅を始めて11日目。今回の旅のテーマのひとつに「城郭」があった。ところが、初日に予定外のビカリアミュージアムを押し込んだばかりに行程修正を迫られ、予定していた備中松山城を泣く泣く捨てることに。だがしかし。折よく新見の山間で朝を迎えることになった。そこからは目と鼻の先。しかも空前絶後の快晴とあってはこのまま帰る法はない。

 

「行こう行こう!」サル

 

(ふいご峠の様子。トイレあり)

 

麓の城見橋公園に停車。早朝だけにほとんど車はない。というのも実質的スタート地点のふいご峠までシャトルバス(往復500円)で坂を登るのだが、8時45分の運行開始だったからだ(平日や閑散期はマイカーでここまで来られる)。

 

 

むしろ誰もいないのは好都合とばかり、ジョグスタイルで先行することにした(徒歩でもここまで20分。そこから天守まで10分。わけはない)。

 

(城内見取り図)

(ネットより拝借しました)

 

標高430㍍の臥牛山山頂に築かれた山城なので城内は地形なりで縦長に細く、ふいご峠から大手門までそれなりに距離がある。

 

 

しばらく階段が続く。

 

 

おサルもトボトボ歩きで参戦。

 

「ちょっとしたハイキングだの」サル

 

備中松山城の開城は鎌倉時代に遡る。最初は砦のようなものだったが、城主の変遷をへて三村元親の代で城郭の体裁に。その後、三村氏を攻め落とした毛利氏も関ヶ原の戦いによって所領は返上。

 

「戦国の世のなかだの」サル

 

徳川幕府の治世になると、城番として小堀正次・遠州親子が入り御根小屋を整備し、のちの水谷氏の大修復によって現在の城郭が完成。その後も藩主は目まぐるしく替わり、最後は板倉勝澄が入城。明治維新までつづくことになる。

 

 

最初の遺構。中太鼓櫓跡だ。

 

 

高梁の町が盆地にあることがよく判る。

 

 

一度くだって先に進む。

 

 

まもなく石垣が見えてきた。

 

 

大手門址だ。

 

 

要塞のような景観に転じる。

 

 

三の平櫓東土塀。重要文化財の残存遺構。

 

 

継ぎ目の先が当時の築造。

 

 

そこから見あげる石垣がまた素晴らしかった。

 

 

三の丸を過ぎれば天守は近い。

 

 

二の丸広場に到着。

 

 

ここで記念撮影。

 

 

天空の山城としても知られ、10月から12月の条件が揃った早朝に、雲海に浮かぶ姿を展望台から観ることができるそうだ。

 

 

まだ時間前なので開いていない。五の平櫓など天守以外は全て復元だ。

 

 

二の丸を見返す。

 

 

時間があるので裏手にまわってみた。

 

 

現存遺構の二重櫓

 

 

時間になったので本丸へ。

 


そして三番目の残存遺構の本丸だ。 唐破風出格子窓竪板張りの腰板がなかなか類をみない特徴。左には六の平櫓と連廓する廊下があったが、再利用できる状態ではなく、石垣だけを残して、独立した本丸として復旧したらしい。

 

 

天守見学の前にさんじゅーろーに挨拶(新選組の谷三十郎にちなむ)。2018年からすみついたお爺さん猫。とても愛想よし。

 

 

痒い痒い痒い🐈

 

 

小ぶりだが、藩主の居室や政庁としての役目は麓の御根小屋が担い、天守はあくまで権威の象徴だったといわれている。

 

 

平成の大修理で漆喰があざやかに。

 

 

天守に囲炉裏がきられるのは珍しい。籠城用だとか。

 

 

造りは望楼式の二層二階。

 

 

突当りには御社壇があった。

 

 

江戸の大修築にあたった水谷勝宗が天照大神や羽黒大権現など十の神様を祀ったという。

 

 

狭間が美しい。

 

 

反対側。まだ誰もいない。そのうち観光客でごった返すのだが。

 

 

堪能したので一階に。

 

 

奥にもうひとつ。装束の間。

 

 

籠城の際に集まる親族専用の部屋。つまり死を迎える場という意味だ。

 

 

この城の狭間は本当に奇麗だね。

 

 

平成の修復の際に撤去された原材。天守にあった蕪懸魚

 

 

こちらは唐破風板裏甲と呼ばれる部材。最初の昭和の大修理で撤去されたものといわれる。

 

「判らないんだ」サル

 

そういうこともある。

 

 

連休中は二重櫓が特別公開中だった。

 

 

行ってみることに。

 

 

狭いながらもしっかりした造り。

 

 

上下二層になっている。

 

 

城が生き残ったいきさつが紹介されていた。僕も長らく不思議に思っていた。失礼ながら他の残存天守は今でいう県庁所在地に位置する大城郭。対する備中松山藩は石高5万から10万程度の小藩。

 

明治6年に名藩主・板倉勝静が無血開城に応じたあと、払い下げ取壊しという案も当然あった。しかし、こんな山の上では取壊しの人件費だけでも馬鹿にならない。加えて利用可能な木材もたいした量にならない。結局放置されてしまった。

 

「不便が命を救ったんだにゃ」サル

 

 

木造建築の宿命で人の済まない城は朽ち果てるしかない。それを再生に導いたのが広島出身の教員・信野友春(1890-1970)だった。旧制高梁中学に赴任した信野は大の歴史好き。1929年に城下町の歴史を一冊の本にまとめる。

 

(ほとんど廃墟)

 

その一冊によって、うち棄てられて40年以上が過ぎ、高梁の人びとすら忘れていた廃城が俄然脚光を浴び始める。

 

 

なんとかしようという声があがり、1940(昭和15)年に大修理が実現。旧国宝保存法の対象となり、現在の重要文化財に指定された。その後も昭和32~35年の部分修理、そして平成15年完工の三度目の大修理が行われた。白アリ被害と石垣の孕みだしに関するものだ。

 

 

天守を裏から見あげて念願の備中松山城をあとにした。こうして今回の旅は岡山に始まり岡山に終わった。あとはひたすら脇目もふらずに渋滞に溜息をつきながら家路についたのである。

 

(2025年GWの旅おわり)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ280

旧古賀銀行本店(佐賀市歴史民俗館)

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀県佐賀市柳町2-9

開館:10時~17時(月曜祝日の翌日休館)

アクセス:長崎道・佐賀大和ICから20分

駐車場:あり(道路向かい側)

■設計:舟木右馬之助

■施工:舟木右馬之助

■竣工:1909年(1916年西側増築)

 

《木造には見えんね》

 

長きにわたった2025年GW建築の旅もそろそろ大詰め。最後に訪ねたのは古賀善兵衛が興した旧古賀銀行だった。第一次大戦後の戦後恐慌のあおりをうけて昭和の初めに解散。現在は存在しない。だが、一時は九州の五大銀行と称された大企業だったらしい。ちなみにその五行とは古賀銀行(佐賀)、第二十三銀行(大分)、肥後銀行(熊本)、百四十七銀行(鹿児島)、日州銀行(宮崎)。福岡の銀行は番外。

 

「いがーい!」サル

 

 

その建設には佐賀でも指折りの棟梁だった舟木右馬之助があたっている。南側から見あげると左右対称なシンメトリカルな構造をしている。褐色のタイルに白いラインが印象的。ただし、このタイル装飾は1916年の増改築の際に貼られたもので、当初は漆喰造りだった。水平な陸屋根に突き出した雨除けも特徴のひとつ。しかし、仔細にみれば木造二階建ての疑洋風建築だと判る。

 

 

更にその北側に回り込むと、あら不思議。増築部分は南面同様な造りだが、1906年竣工の部分は和風建築そのままのナリではないか。

 

「頭かくして尻かくさずだにゃ」サル

 

なんか変だよ。逆じゃない? ←そういう自分もあやしい

 

 

増築の一部であるポーチも寄棟に寺院建築の垂木ような和の意匠。それをエンタシス風の柱で支える。当時流布していた図案集を引っ張り出して折衷案を拵えたのではないか。

 

 

なんとなく愉しみながら設計している舟木の姿が眼に浮かぶ。

 

 

内部は喫茶&レストラン「浪漫座」が入店している。佐賀のB級グルメ、シシリアンライスが名物らしく、ビーフをしこたまぶち込んだその匂いが漂い、ヨダレがでて仕方なかった。でも食べる訳にはいかない。まだ建築の調査が終わっていない。

 

「おサルはその頃…」サル

 

ウナギでしょ。もう聞いた。

 

 

一階がかつての執務室。午前中に拝見した旧唐津銀行と同じく吹き抜け構造。

 

 

但し、内部はアンシンメトリー。斗栱つきの梁をドリス式オーダーが支える。

 

 

では二階へ。

 

 

このあたりは英国風の物真似。

 

 

1954年までは佐賀商業会議所。1986年までは佐賀県労働会館。1992年までは自治労佐賀県本部として活用。その後復旧工事をへて1997年より佐賀市歴史民俗館としてスタートしている。

 

「どんどん利用者が変わったんだ」サル

 

自前の建物が完成するたびに独立していったんだろうね。木造ワンフロアではバブル移行期の事務量をさばききれなかったとだろうし。まあ残ってよかったよ。

 

 

疑洋風建築も捨てたものではないね。あれ。このセリフ一度どこかで口走ったような。

 

 

愛の籠った改修のあとを感じる。

 

 

当行が面している長崎街道はいまは唯の細い田舎道に過ぎないが、開港した長崎から異国の物資を運ぶルートとして重要な役割を果たしたそうだ。

 

『佐賀県独案内』(野中万太郎氏蔵)銅版画

 

とりわけ砂糖の文化は一度に花開いた。名づけてシュガーロード。

 

 

後の時代としては大原しょうろ饅頭とか村岡屋の佐賀錦とかね。CMが懐かしい。お武家は居ても茶の湯が盛んだったとは聞かないし、なぜ和菓子が多いのかと疑問に思っていたが、理由はそういうことだった。

 

 

長崎街道でも煙草屋の経営は盛んで、とりわけ寛政年間に生業を始めた森永家は大店として栄え、六代目の時代に鍋島家の御用煙草屋に召し上げられたとか。特に森永作平の作る「富士の煙」は格別だったそうだ。

 

「なんでなくなったの」サル

 

明治に入って専売になったからね。自由に売り買いできなくなったのよ。

 

 

画家・山口亮一(1880-1967)のコーナーも。佐賀出身の洋画家といえば久米桂一郎岡田三郎助がまず浮かぶ。山口もまた彼らに続き、東京美術学校に学び、将来を嘱望されたひとりだったが、故郷に帰り、後進育成に力を注いだ。中央画壇にいればまた違った栄達の道があったはずだが。しかし、どんな人生にも正解や誤りはない。ただひとつの一生があるばかりだ。

 

 

応接室。

 

 

天井の鏝絵がひときわ豪勢だった。

 

(当時の通帳と出納帳)

 

その古賀銀行。古賀善兵衛が明治18年に資本金5万円で設立した。その後順調に業態を拡大し、明治31年には佐賀銀行(戦後に改名した旧唐津、伊万里銀行がルーツのそれとは別)と改名。しかし、先に述べたように恐慌の影響は払拭しがたく、昭和8年の臨時株主総会で解散を決める。

 

(一族の写真。後列中央が善兵衛)

 

地方の経済史は読み込んでみると面白い。

 

このあとおサルを拾って一路1200㌔を横浜村まで戻ることになるが、さすがに途中で仮眠しないと死んでしまう。ということで岡山山中で車中泊することにした。

 

「ひつもジジイだからのー」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ279

佐賀県庁舎本館(現 旧館)

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀市城内1-1-19

開館:

(平日)9時~18時

(週末)9時30分~18時

アクセス:長崎道・佐賀大和ICから15分

駐車場:地下駐車場

■設計:阿部美樹志

■施工:大林組

■竣工:1950年

 

《簡素な陸屋根が特徴的》


村野藤吾の隠れた遺作を見学したのち、この日の出発点に戻ってきた。向かう先は佐賀県庁舎本館である。1994(平成6)年に新館が増築されたため「旧館」の呼称がある。

 

 

佐賀と言えば維新を支えた雄藩の一角だが、権力者たちの思惑が絡み、県の統廃合を繰り返したことは周知のとおり。明治9年に現在の佐賀県の形ができあがり、木造ルネサンス式の県庁舎が完成した。

 

 

戦争にも耐えた名建築だったが、惜しくも昭和24年2月の失火でほぼ全焼。県の威信をかけて再建されたのが現在の旧館である。一刻を争う再建だっただけに、意匠検討に割く時間と予算も限られていたのか、近年の現代建築とかわらない簡素な造りになっている。

 

阿部美樹志(1883-1965)

 

設計に抜擢されたのは阿部美樹志。岩手県一関出身で札幌農学校卒の阿部は、アメリカやドイツで研鑽をつんだ鉄筋コンクリート工学の開祖として知られる。主要作品に旧阪急百貨店、日比谷映画劇場、有楽座など、そして戦後RC橋梁発展の礎となった西鉄・名島川橋梁阪急・原田拱橋がある。いずれも銘品揃いだが、その殆どが建替えで残っていない。残念だ。

 

 

その意味でこの建築は貴重。因みに4本の円柱は旧庁舎の焼け残りを活用したもの。

 

「ベージュで統一されてんだね」サル

 

 

正面一階ロビー

 

 

翼廊への導線。漆喰の装飾や床材の意匠もかなり控え目。

 

 

改修によって幾分アーティスティックなエキスを加味したとか。

 

 

モダンと懐古趣味がうまく溶け合っているような。

 

 

知事きもいりのふれあいスペース。落ち着かないという声もあるが僕は好き。こういうの。

 

「狭いところ好きだもんね」サル

 

 

階段部に戻る。戦後間もない建築とは思えないくらい現代的な印象。

 

 

ベージュの大理石が落ち着いた印象を醸しだしている。

 

 

天窓からふりそそぐ光の粒子。訪れるならば晴れの日だ。

 

 

二階ロビー

 

 

見晴らしがいい。この日は筑肥の山並みまで奇麗にみえた。

 

 

三階ロビー

 

 

旧知事室。この日は公開していなかった。そもそも連休中。ここまで入れただけで十分。

 

 

四階天窓部分。

 

 

見下ろしてみた。

 

 

鉄筋コンクリート造4階建て。残念ながらギリギリ戦後建築。

 

せっかくなので新館も散歩してみた。

 

 

設計は安井建築設計事務所。1994(平成6)年の完成で地上11階塔屋3階。建物の外観は平成期の公共建築そのもの。禁欲的で端正。だが部分に事務所のこだわりがチラホラ。

 

 

例えばこの雨除け。バーバリスティックな異様な面構え。

 

 

一階ロビー。

 

 

一見すると開放的なだけで凡庸にみえる。

 

 

でも天井は異様な圧迫感。ただバブリーなだけでないんだよ。

 

 

取ってつけたような階段もいい。

 

 

技術者の“遊び”が感じられて。

 

杉本好守《孔雀と少女》

 

絵画も一枚。東光会と日展で活躍した郷土の画家。孔雀を好んで描いたそうだ。

 

古賀忠雄《二人の女》(1963)

 

やはり古賀の彫刻はアフリカンプリミティブ的な作風が一番いい。泥臭いのはちと苦手。

 

 

最後に展望塔にあがってみた。

 

 

東側。佐賀城址の堀端に並ぶ佐賀県立図書館佐賀県体育館

 

 

背振山地方面。この日は雲一つない晴天だった。五月の連休といえば博多どんたく。開催三日すべて晴れるのは稀とよく言われる。しかし、この年は好天に恵まれすぎて建築巡礼には申し分なかった。もう一箇所寄れそうなので欲張ってみよう。

 

「サルはその頃柳川の鰻食べてた」サル

 

ずるい。自分たちだけ…。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ278

佐賀県職員研修所(現 佐賀県自治修習所)・佐賀県教育センター

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀市大和町大字川上930

開館:外観のみ

アクセス:長崎道・佐賀大和ICから5分

駐車場:無料

■設計:村野藤吾

■施工:不詳

■竣工:1979年

 

《これはレア中のレア》

 

玄海灘から再び来た道を佐賀市内に戻った。無駄な行程に見えるかもしれないが、日照角度、混雑具合など熟慮をかさねて巡礼の道行きは考える。これぞ建築巡礼の鉄則。単なるタイパ&コスパだけで語ることはできない。

 

(構内は一方通行)

 

ということで次に向かったのは佐賀県職員研修所・佐賀県教育センターだ。長たらしい名前を読むとただの行政機関のようだが、あながち間違っていない。ただこれが村野藤吾(1891-1984)の仕事となれば少し様子が違ってくる。

 

 

というのは村野もまた唐津出身なのに、唐津はおろか、佐賀県全域ひっくるめても、この一件しか足跡を残していない。もっというと本件は経歴から落ちているケースもある。それくらいレアなのだった。

 

「ふむふむ」サル

 

 

GoogleMapでみると、場所は佐賀大和IC近く。確かに案内はすぐに見つかった。

 

 

旧称は佐賀県職員研修所。それに佐賀県教育センターが東西に棟を並べる。一段うえには宿泊棟が横に構え、一段下の南側に理科情報処理棟の名前がある。いずれも竣工当時の模式図と思われ、その後、職員研修所は自治修習所と名を改めたらしい。なんとなくだが、その自治修習所以外は使われていないのではないだろうか。

 

 

平行する二棟を横一文字に道路が貫く。このあたりの構造は心地いい。昭和だ。

 

「昔の高校みたい」サル

 

 

これが村野の設計だと云われなかったら、シゲシゲと観察しただろうか。確かにブリッジや階段で立体感と導線を築いているが、それにしても四角い箱が並ぶばかりで画一的。いつもの異様なエモーションがこれっぽっちもない。

 

 

せいぜい壁のリシンにそれらしさがあるにはあるが、それとて、構造や意匠と組み合わさって初めて意味をなすものである。いったいどうしたことなのだろうか。

 

 

昨年の10月に神奈川大学の松隈先生がシンポジウムを開催したらしいが。

 

 

情報が欲しい。

 

 

連休期間で職員もいないのだろう。それはそれで気兼ねなく闊歩できるので悪くはないが。

 

「不法侵入なんじゃね?」サル

 

建物には入っていないし。ダメって書いてなかったし。

 

 

こちらは理科情報処理センター。ドームのようなものは天体観測施設か?

 

 

近寄ってみるとスレンダーな支柱で構成されたピロティつきの棟で悪くない。悪くないが、村野には似つかわしくないモダニズム調である。

 

 

竣工した1979年は村野88歳。死の直前まで図面と睨み合っていたと云っても、箱根プリンスホテル、八ヶ岳美術館、宝塚市庁舎、新高輪プリンスホテルなどを同時進行していたはず。スタッフに恵まれているということは、こういう“デイリーワーク”的な仕事も普通にあったのか、あるいは(港北区庁舎のように)研究対象から偶々漏れていただけかもしれない。

 

 

だから凡作と言っているのではない。出身の佐賀でなぜこれ一件なのか。ようやく得た錦を飾るチャンスを棒に振ったようにみえるのはなぜか。謎という手土産だけが手許に残し、しばし呆然と僕は佇んでいた。

 

「考えても判らんよ」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ277

玄海海中展望塔

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀県唐津市鎮西町波戸1628

開館:(無休)

(4月~9月)9時~18時

(10月~3月)9時~17時

料金:一般1000円 小中生500円

アクセス:西九州道・唐津ICから40分

駐車場:無料(235台)

■設計:清家清

■施工:日立造船

■竣工:1974年

 

《山も好きだけど海も好き》

 

旧唐津銀行の遺構を眼に焼きつけたあと、更に北上して玄界灘国定公園の域内に入った。目指すは玄海海中展望塔。なんだヒツゾウは、選りに選って子供に混じって海中公園かよ。そういうアキレ顔が眼に浮かぶが、実はここ建築家・清家清(1918-2005)が設計を手がけた構造物なのだった。

 

 

唐津市内から玄海国定公園の先端までクネクネと丘を越えたりカーブを通過したり。約40分かけてやってきた。無料駐車場の前では浜焼きの店が早くも客を呼び込み、盛大に煙をあげていた。

 

 

ここ波戸岬は恋人たちの聖地。独りでくる場所でないことは判っている。しかし、この晴天。次回はないものと腹をくくり、カップルや家族連れの奇異なものに向ける視線に耐える覚悟でやってきた。

 

 

清家といえば住宅で名をなした建築家。なのに構造物系の設計。確かに意外だった。

 

清家清(1918-2005)

 

調べてみると東工大を卒業したあと戦争を迎えた違いのわかる男は、海軍の技術将校として航空機格納庫の設計に従事したらしい。


(天気が悪いと簡単に閉鎖になる。往訪のハードルは決して低くない)

 

戦時中の造船や航空機関連技術の民生転用が戦後の技術革新の原動力となった事実は、戦艦大和の例を引くまでもないだろう。とりわけ狭隘空間の活用に関して、清家は優れた知見を発揮したに違いない。

 

 

昼前後でもあり、比較的おとずれる観光客は少ないが、いるにはいる。旨くタイミングを狙った。皆「このおっさんは何がしたいのだろう」と怪訝な表情を浮かべて通過していく。

 

 

桟橋のジョイントは腐食防止のカバープレートで覆われている。

 

 

見えてきた。

 

 

開館している時間以外はローラー式の扉で覆うのだろう。

 

 

北側には 松島と加唐島が浮かぶ。

 

 

桟橋の長さ86㍍。展望塔は高さ20㍍×直径10㍍。そして深さ7㍍。この時代は海洋開発ブームの時代で南紀白浜での建設を皮切りに同時進行的に推進された。

 

白浜(和歌山) 1969年

部瀬名(沖縄) 1970年

串本(若山) 1971年

足摺(高知) 1971年

波戸岬(佐賀) 1974年

 

つまり5番目。日本海側では最初の例だ。

 

 

フッ素系重防食塗装だろう。色で判る。明石海峡大橋と同じだ。

 

 

構造物は日立造船㈱因島工場で製作され、大型起重機船で一括架設されたらしい。歴板をようやくみつけた。

 

 

螺旋階段を降りる。

 

 

若い頃であれば野暮ったい昭和の観光施設くらいですませたかもしれない。しかし、改めてみると、機能一点張りの造形がむしろカッコいい。リニューアル工事で追加したお飾りがむしろ無粋だ。

 

 

そうなのだ。実は利用者の数はじり貧の一途。最悪封鎖の可能性もゼロではなかった。

 

 

それを2024年4月にリニューアル。ミラー装飾を加えてプロジェクションマッピングを導入。奇蹟の来場者数の復活をはたしている。

 

(でもこのダイヤ型の鏡は要らんよ)

 

ということで誰もいないようだが、カップルに小さな子供を連れた家族連れなど右往左往する客の群れ。当たり前といえば当たり前か。

 

「そういう施設だし」サル

 

 

そこを(映り込みを避けて)絶妙な角度とタイミングを狙う。自分でも天才ではないかと思う。その代わり、もう一箇所ほかの建築を回れるだけの時間を費やしたことを白状しておく。

 

「皆ヘンな目で見てたでしょ」サル

 

うん。←もう慣れた

 

「やっぱり」サル

 

魚じゃなくて内装ばかり撮ってたし。

 

 

これでお客さんが増えたのだったら、それはそれで良かったのではないだろうか。

 

 

 天気はいいのに透明度は今ひとつ。海の環境、変わってないか。

 

 

ウマそう。皆考えることは同じだ。

 

 

ときおり現れるクロダイ。温暖化で江戸前の海苔を食い尽くしている厄介者。

 

 

これは喰えん。

 

 

潜水艦みたい。入ったことはないけどね。

 

 

なかなかよかったよ。やっぱりおサルと来たかったかも。

 

「浜焼き食えるしにゃ」サル

 

 

藤森照信先生が『建築探偵の冒険・東京篇』のなかで書いているように、戦争で焼け落ちた東京駅のドームを鍋蓋を被せるように仮復旧したのが海軍の技官たちで、戦闘機のボディになる予定のジェラルミンを貼ったという。そんなことを知ればこの展望塔もまた違った風に見えてくる。

 

「サルはサザエよりアワビがいい」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ276

旧唐津銀行本店(現 辰野金吾記念館)

 

往訪日:2025年5月4日

所在地:佐賀県唐津市本町1513-15

開館:9時~18時(年末年始休館)

料金:無料

アクセス:西九州道・唐津ICから15分

駐車場:19台(100円/h)

■設計:(監修)辰野金吾(担当)田中実

■施工:清水組(現 清水建設)

■竣工:1912年

 

《名物は唐津くんちだけではない》

 

話は一度前日に戻る。美術館をでて実家の両親の霊前に線香をあげたあと、急ぎ足で佐賀市内に入った。あいにくの帰宅ラッシュで投宿は6時すぎ。コンビニの惣菜で飢えをしのぐ淋しい晩餐になった。相棒がいないと酒も欲しくない。

 

「サルは飲むね」サル

 

その頃おサルは記憶も疎らな母を相手に晩酌に勤しんでいた。そして翌朝。僕はジョグから戻り、朝食難民の末尾に並び、快晴の空のもと飛び出したのだった。

 

まずは北に進路を取り、旧唐津銀行をめざす。唐津は近代建築の父、辰野金吾曾禰達蔵の出生の地であり、その唐津に残る辰野式赤煉瓦建築となれば、建築巡礼者としてまずは押さえておく必要があった。

 

 (南側正面)

 

建物の隣りにコイン式駐車場があり、わずか100円/hなので1時間前に入場。抜かりなく周辺を取材する。

 

(東側)

 

「思ったよりも小さいにゃ」サル

 

駐車場側には肩を並べるだけの建物があったのだろう。見えない処は飾らない。贅沢しない。銀行だけに堅実だ。

 

(北側)

 

唐津銀行本店の竣工は1912(明治45)年。施主は唐津経済の父・大島小太郎(1859-1947)。この設計を依頼されたのが藩校・耐恒寮の同級生辰野だった。しかし、当時の辰野は人生最大の大仕事、東京停車場の設計を受託したばかり。そこで白羽の矢がたったのが東京帝大の教え子・田中実(1885-1949)だった。

 

 

卒業と同時に清水組(現:清水建設)の技師として就職した田中を、一時的に清水から引っこ抜いたのか、あるいは外注という態にしたのかは判らない。近代建築史において、兜町の開発で競いあった疑洋風建築の先達・清水喜助の興した会社に結果的に下駄をあずけるという偶然がまたおもしろい。その田中はのちに葛西万司と事務所を設立。大同生命保険福岡支店(1912)、国分商店(1915)、白木屋大阪支店(1921)、藤山工業図書館(1921)などを設計している。

 

 

クィーンアン様式を主体とした折衷式。一見赤煉瓦っぽいが、あくまで辰野へのリスペクト。実際は装飾タイルだ。天井は天然スレートで隅角に緑青色に輝くドームと尖塔が載る。大八車の車輪のようなアーチ窓受飾り突石が辰野式。

 

(西側)

 

かつて相当酷い状態だったらしい。清水建設が改修工事を受託し、2010年完工。2011年から一般供用された。そして(いろいろ訳はあるのだろう)ひと月前の2025年4月から見学無料となった。

 

「タダだったんだ」サル

 

 

北側に資料館が附設されている。

 

 

そして建物の脇に辰野と曽禰の銅像。

 

 

開館と同時に入場した。

 

 

当時一般的だった吹き抜けフロア。

 

 

赤煉瓦系の名建築は注意が必要。レトロの三文字は団体客を案内するのに容易だからだ。適度な説明だけで客を放せばいいし、これほど便利はものはない。だが、こっちは細に入り微を穿つ巡礼者。観たいのは建築の意匠であって、オジオバの尻背中ではない。

 

 

ザッと構造を確かめてディテールは後で追う。

 

 

かつて全国に200はあったという辰野が設計した(もしくは監修した)建築は現在国内に24箇所しかない。その多くがテナント利用。残念ながら建築としての素顔は判らない。展示内容は紋切り型でも記念館として残すのが、われわれ巡礼者には最善の策と実感した。

 

 

頭取室かな。

 

 

調度品は資料をもとに清水の担当者が復旧した。さすが京橋。

 

 

造りは煉瓦造二階建。

 

 

みればあれほどいた団体客はもういなかった。

 

「来たって証しが残ればいいんじゃね」サル

 

 

この細工はあとづけかも。

 

 

応接室

 

 

端正な付け柱と腰板。

 

 

暖炉の導入は石炭産業が盛んな北部九州ならでは。

 

 

アールヌーヴォー風の漆喰装飾。

 

 

辰野関連の建築資料が展示されていた。

 

 

配膳室

 

小屋根に続く螺旋階段は田中の発案。旧大同生命保険福岡支社に同じものが残っている。

 

 

明治から大正に代わろうとする時代。

 

 

田中は最新のデザインを積極的に取り入れたそうだ。

 

 

一階イベントスペース。かつての執務室。

 

 

1885年創業の唐津銀行は三度にわたる大きな合併をへて1931年に佐賀中央銀行となり、唐津から佐賀市内に移転。戦後に佐賀興業銀行との合併ののち佐賀銀行となり現在に至っている。

 

 

最後に一階の大金庫室へ。

 

 

堅牢だ。

 

 

唐津銀行の銘板がしっかり残っていた。

 

実質的な共作に違いないのに「辰野金吾記念館」と看板をかかげられては田中も立つ瀬がない。ないが集客のためには致し方なし。客が来なければ建築そのものの命脈すら危うい。堅牢堅固にできているようみえて、ヘリテージ建築とは薄氷のうえに浮かぶ儚い存在なのだった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。