ひつぞうとおサル妻の山旅日記 -5ページ目

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ283

綿業会館

 

往訪日:2025年5月24日

所在地:大阪市中央区備後町2-5-8

開 館:10時~20時(日祝・第三土曜休館)

アクセス:御堂筋線・本町駅から5分

駐車場:なし

見学会:毎月第4土曜(10:30~食事つき 14:00~見学のみ)

時 間:1時間

見学料:1000円(事前抽選)

■設計:渡辺節建築事務所(渡辺節・村野藤吾)

■施工:清水組

■竣工:1931年

■国重要文化財(2003年)

■近代化遺産(2007年)

 

《ついに往訪を果たした》

 

2025年5月下旬の大阪ひとり旅。続いて訪ねたのは綿業会館。関西モダニズム建築の雄ともいうべき傑作のひとつだ。大阪赴任時に抽選に応募。幾度はずれたか知れない。ふと思った。ランチつきに拘らなければ競争率は下がるのではないか。狙いは的中。見事に当たった。しかし、無情の異動通知。このためだけに新幹線で戻るのは勿体ない…のか。行くべきやろ。これが事の次第。

 

 

訪れた日は大雨。そんなこともあろうかと離任前に外観を撮っておいたのは正解だった。塔屋つきSRC造6階建て。設計は渡辺節建築事務所。関西にアメリカ流近代建築をいくつも残した渡辺節(1884-1967)の事務所だが、実際の設計は若き日の村野藤吾が担当した。当の村野は「これはあくまで渡辺先生の作品で、自分は手伝っただけに過ぎない」という意味のことを語ったというが、例えば冒頭の写真の(陰になって見づらいが)網目模様の塔屋はいかにも村野だし、各階で異なる窓のスタイルも初期の代表作、大庄村役場庁舎(1938)に通じる。

 

 

とにかく贅の限りを尽くした建築だ。

 

 

到着は1時間前だったが、普通に入れてくれた。

 

 

ホールではランチ付きのグループが優雅に寛いでいた。時間まで待つように優しく言われた。その間会員食堂は自由に見ていいとのこと。神対応である。

 

 

風除室の巨大なシャンデリア。トラバーチン仕様の格天井も彫りが深い。

 

 

ふりかえる。入り口の返し扉の飾り模様が繊細だ。この格子模様は館内至るところに見られる。

 

(エアコン排気口)

 

参考までにドラマ「名建築で昼食を」公開の前後で見学の応募数は変わったかと訊くと60倍近くになったという。それでなくてもモダニズム建築祭の効果で関東関西を問わずに大盛況。昭和建築の取壊し回避のムーブメントに繋がれば。

 

「そればかりはねえ」サル 全て持ち主の意向次第

 

大ホール

 

いよいよ見学会開始。参加者は約30名といったところ。殆どは在阪の中高年。そういう自分もほぼそのひとりなのだが。

 

「自覚ないよねえ」サル

 

 

正面に三階ぶち抜きの大階段がドンと現れる。まるで映画のセットのようだ。中央には東洋紡績の専務取締役をつとめた岡常夫の銅像があたりを睥睨している。岡の遺贈金100万円と業界の寄附50万円で建設され、繊維業界の社交クラブとしてスタートした。現在価値にして約50~75億円。それで建てばすごい。

 

「ていうか専務クラスの遺産が数十億円ってどうよ」サル

 

昔の重役は本当にひと握りだったしね。

 

 

流れるようなマニエリスティックな手摺がたまらない。


 

中央で一段低くして二階への視認性を確保している。よく観察しないと判らないが、下層は天然琉球石灰岩。上層は人工擬石で化粧しているそうだ。

 

 

踊場から入り口を見返す。

 

 

ホールはイタリア・ルネサンス様式で統一。古代遺跡のようだ。

 

 

側廊を連続アーチで飾る。天井はハーフティンバーの折衷式。

 

 

続くエレベーターホール。どこまでも贅沢だ。

 

会員食堂(本館一階)

 

 

つぎは改めて会員食堂

 

 

高さを確保するために一段低くなっている。

 

 

天井は30年代のアメリカで流行したミューラル・デコレーション

 

 

エンボスの効いた幾何学模様とアールヌーヴォー風の唐草模様が絡みあう。

 

 

裸電球による照明。

 

 

透かし彫りの窓。ここにも菱形格子。

 

 

招来の本格的な冷暖房設備の導入を見越してダクト径を大きくし、設備の空間もあらかじめ確保するなど未来志向の設計になっている点も特筆しておきたい。

 

談話室(本館三階)

 

部屋は全て様式が異なる。世界中の人に寛いでもらいたい。そういう願いをこめたそうだ。ちなみに開業間もない頃、この談話室にリットン調査団が訪れている。

 

 

英国ジャコビアン様式。関東では岩崎邸が有名だ。

 

 

当館でも指折りの贅沢な設え。窓には鋼製ワイヤー入りの耐火ガラスを使用。大阪大空襲にも耐えたのはその先見の明ゆえらしい。

 

 

豪華なタイルタペストリーが眼を惹く。関西ではおなじみの京都・泰山タイル製。

 

 

そして、隠れた顔ともいうべき軽快な吊階段。いかにも村野藤吾って感じだ。

 

 

手摺といい丈の高い腰板といい優雅の極み。

 

 

神社建築の手挟に似た添え木が面白い。

 

 

大理石で化粧した暖炉。壁龕のような壁飾り。

 

 

これだけの吹き抜け空間はなかなかない。

 

特別室(本館三階)

 

 

別名・貴賓室。貴顕の賓客もこの部屋に遊んだ。

 

 

天井の鏝飾りや照明に曲線を多用した英国クィーン・アン様式になる。

 

 

細かい装飾もみどころ。

 

 

家具の猫足も。

 

会議室(本館三階)

 

会議室には扉一枚で隣接していた。

 

 

通称「鏡の間」。アンピール様式

 

「なに?あんぴーるって」サル

 

エンパイアのフランス語読みだね。帝政様式ともいうよ。19世紀前半のナポレオンの時代に流行した虚飾を排した室内装飾だ。

 

 

崩し卍にゼツェッシオン風の文様。

 

 

いずれも幾何学的なデザインだ。

 

 

特別室との連絡ドア。

 

 

楕円の時計。

 

 

床石にはアンモナイトの化石がここにもそこにも。

 

 

こちらは珍しい大型巻貝。計算に基づく配置といわれている。

 

「茶目っ気があったのかも」サル

 

グリル(本館B1F)

 

このあと見学会ランチで利用されるグリルを見学した。催し事次第で螺旋階段は観られない日もあるという。幸運だった。

 

 

設計は同じ渡辺節建築事務所の仕事。ただし村野独立後であり、直接携わっていないが、リスペクトをこめて“村野らしさ”を演出しているという。

 

 

流れる様な吊階段。手摺の曲線も素晴らしい。

 

 

籐家具のような高欄飾りは宝ヶ池プリンスホテルを連想する。

 

 

灰釉タイルとの組み合わせなんか「これ村野藤吾なんですよ」といわれれば「ホントですね!」って思わず言ってしまいそうだ。

 

 

ランチは頂くことはできなかったが見学できればそれでいい。(ちなみに午後の見学者もランチ割引券がもらえる)。

 

 

色ガラスの象嵌。

 

 

リスペクトを感じさせるグリルだった。

 

 

倶楽部にはバーはマスト。大阪の紡績王たちが商談の疲れを癒すそんな場面が想像された。ちなみにガイドの皆さんは紡績会社からの出向でこの日はクラレの方だった。建物同様に皆さん、品格のある紳士だった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

大阪企業家ミュージアム

 

往訪日:2025年5月24日

所在地:大阪市中央区本町1-4-5大阪産業創造館B1

開館:10時~17時(日月休館)

入館:一般500円 学生200円

アクセス:堺筋線・堺筋本町駅から5分

駐車場:なし

 

《大阪は起業の街》

 

2025年の5月下旬。大阪赴任時にやり残したことを遂げるため大阪に向かった。まず訪れたのは大阪企業家ミュージアム。大阪が商人の街であるのは誰もが認めるところ。それ以上に多くの企業、もっといえば産業のジャンルそのものを生み出した街であることは知っているようで知らない。それを一度に学べるミュージアムがここだった。

 

「行っといで」サル 宿予約しといた

 

優しい妻である。

 

 

残念ながらひどい雨降りにあたってしまった。ミュージアムはこのエレベーターで地下一階へ。

 

 

ちなみに大阪産業創造館の一階はこんな感じ。

 

濱坂渉《押照石・I;A.D.2000》

 

隙あらばパブリックアートなのも大阪。

 

ということで開館と同時にミュージアムに向かう。場所柄も観光と無縁な堺筋本町。さすがに朝一からこうした施設にくる客はいない。と高をくくったのが運の尽き。大学生約80人が4パーティに分散して見学するという。きけば週末は学生や修学旅行生の見学で一杯なんだとか。

 

「迂闊だったにゃ」サル

 

 

といってももはや横浜暮らし。今更平日にこれるはずもない。みれば(残念ながら)茶髪にピアス。説明などよそに卑猥な冗句を口にしては奇声をあげる。次のブースに逃れても、分散解説中なので状況は一緒。たまらず頭を掻きむしる。気の毒に思ったのかスタッフがイヤホンガイドを差し出した。なるほど。大音量できけば多少は気がまぎれた。

 

「ようやく見学開始だの」サル

 

4ジャンルに部屋が分かれている。撮影はすべてNG。

 

 

第1ブロック 近代産業都市 大阪の誕生

 

五代友厚(1836-1885)

 

大阪経済生みの親といえば五代友厚(鹿児島)。維新後に官吏として大阪に赴任。株仲間や米取引所が廃止されて大混乱の大阪に、大阪商法会議所(のちの商工会議所)や大阪株式取引所を設立。経済の安定に貢献した。後に実業家として多くの企業を生み出し“東の渋沢、西の五代”といわれた。どうでもいいけど本当にこんなオデコだったのか。見るたびに気になって。

 

山邉丈夫(1851-1920)

 

銀行業と繊維業はこの時代の花形。繊維業では大阪紡績(のちの東洋紡)の山邉丈夫。鷗外と並ぶ津和野藩出身の偉人で、ロンドン留学で最先端の紡績技術を学び、わずか31歳で会社設立にこぎつけた。こういう秀才が今の日本の基礎をつくった。その後、菊池恭三(ユニチカ)、大原孫三郎・總一郎(クラレ)が続く。広告を武器に化粧品など多角化を図った津田信吾(カネボウ)なんて経営者もいる。ほかにも紳士服のオンワード樫山樫山純三)やロゴマーク戦略のデサント石本他家男)なんかも大阪生まれ。ちなみに関西企業にかかわるというだけで、必ずしも関西人に限らない。

 

伊藤忠兵衛二代目(1886-1973)

 

モノ作りはメーカーでも売るのは商社の仕事。多くは呉服商からの転身だ。その筆頭格が近江商人の末裔で繊維卸の伊藤忠兵衛親子。特に総合商社・伊藤忠商事の基礎を作ったのが二代目忠兵衛。ちなみに丸紅も元は忠兵衛の創業で、商号「紅忠」を〇に紅で表したことに由来する。大手商社のひとつ岩井産業(→日商岩井→双日)の創業者・岩井勝次郎は初の海外信用貸しを導入させた辣腕で鉄鋼輸入に強く、日本の重工業化に一役買った。ちょっと残念な末路にいたった安宅産業安宅弥吉も一時はすごかった。

 

野村徳七(1878-1945)

 

きりがないので金融業ね。まずあげるとすれば野村徳七(二代目)だろう。感が勝負の両替商から数理分析を駆使した近代株式売買に脱皮した功績はすばらしい。バブルの頃は「情報の野村」って言われた。野村総研なんか憧れの会社だったな。近代数寄者でもあるし。

 

片岡直温(1859-1934)サルパパの故郷に近い偉人

 

大阪・淀屋橋といえば日本生命の本店が摩天楼のようにそびえる。相互扶助の精神から弘世助三郎(滋賀)が設立。それを懐刀の片岡直温(高知)がささえ、日本初の保険料表による近代的生命保険制度を作った。もちろんニッセイのおばちゃんの活躍も預かりあった。ほかにも三和銀行小山健三、岩下清周など近代銀行史の顔ともいうべき人物がたくさん現れた。

 

 

第二ブロック 都市と大衆社会の形成

 

都市建設といえばゼネコン。関西系SGCの筆頭は大林組だろうか。

 

大林芳五郎(1864-1916)オシが強そう

 

大林芳五郎(大阪)は呉服商からの転身組。よそが手を出さない難工事に挑み、世紀の難工事といわれた生駒山トンネルの成功で一躍名を上げた。竹中工務店竹中藤右衛門(14代)も尾張の宮大工の出だが、神戸に出て三井家の信用を獲得。大阪に本店をおいた。「技術の竹中」「建築の竹中」として完成度の高い“作品”を多数竣工。関西の建築業界をリードする。

 

森下博(1869-1943)メチャダンディ

 

民衆の味方といえば製薬業界。船場の道修町には江戸の頃から薬問屋が軒を連ね、武田長兵衛、田邊五兵衛(12代)、塩野義三郎らが活躍した。名前を聞けば「あの会社ね」とすぐに判る。特に藤澤友吉は樟脳の商品化で成功。宣伝戦略で一躍売り上げを伸ばした。

 

(ひょっとして本人がモデル?)

 

同じく宣伝で成功したのが森下博(広島)。今でも続く森下仁丹の生みの親である。

 

上山英一郎(1862-1943)

 

そして日本の夏といえば金鳥。蚊取り線香のパイオニア、大日本除虫菊を立ち上げたのが植山英一郎(和歌山)。アメリアから虫殺しに効くという植物の種を輸入。そこから試行錯誤。最初は棒状で持ちが悪かった。あの渦巻は奥さんのアイデアだったんだよね。

 

鉄道業はこれまで散々小林一三(阪急)と金森又一郎(近鉄)で語ったので割愛。太田光凞(京阪)、大塚惟明(南海)の名前をあげておこう。

 

産業機械系では山岡孫吉(滋賀)。優れた宣伝企画力のヤンマーだ。和式帳簿から出発してコクヨを世界の事務用品メーカーに育てた黒田善太郎(富山)。広告の旨さでは今も光る。子供の頃一番欲しかった文具はサクラクレパスだった。あの新品の箱をあけたときの独特の匂いにときめいたものだ。西村俊一(山口)は代理販売制度を導入して中興の祖となった。

 

その他にも象印マホービンの市川銀三郎。コニカミノルタの田嶋一雄(和歌山)。サントリーの鳥井信治郎(大阪)。グリコの江崎利一(佐賀)。こうして振り返ると、アイデア、技術革新、販売法、広告活用の組み合わせによって関西メーカーはブランドを作ったことが判る。

 

 

第三ブロック 復興から繁栄へ

 

早川徳次(1893-1980)

 

でも一番心に残ったのはシャープ早川徳次だった。極貧の環境で育った早川は奉公先で学んだ金属加工技術を武器に錠前、蛇口などの特許で成功。更に(今ではあたり前に使っている)シャープペンシルを考案。またまた大ヒットする。しかし、ここで悲劇が。関東大震災で愛する妻と工場を失ってしまうのだ。

 

(ラジオ開発中の早川(右)。若い頃は二枚目だった)

 

早川は早々に資産を譲渡し、大阪で一からスタートする。次に眼をつけたのがラジオだった。もちろん専門的知識はない。ないのに努力する。それが早川だった。日本初のラジオ放送開始直前に商品化に漕ぎつけ大成功。つけられた商品名がシャープだった。のちに電子計算機も開発。のちに“液晶のシャープ”といわれたように、常に新分野に挑戦する企業マインドは早川が源流だった。

 

「範囲が広すぎる!」サル

 

他にも百貨店、電力、新聞、芸能も。これでも1/20には絞ったけどね。イヤホンガイドを真面目に聞くと90分はかかる。社会世相史や産業史が好きな人にはたまらない博物館。お薦めです。

 

「松下幸之助と中内功は?」サル

 

当たり前すぎて。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす

 

往訪日:2025年5月18日

会場:県立神奈川近代文学館

会期:2025年3月20日~2025年5月18日

開館:9時30分~17時(月曜休館)

料金:一般700円 大学生350円 高校生100円

アクセス:みなとみらい線・元町中華街駅から10分

駐車場:なし

※撮影NG

 

 

会期中の最終日。ぎりぎり行くことができた。詩人で文芸評論家の大岡信(1931-2017)の生涯をたどる特別展に。学生の頃の僕らにとって、大岡といえば『折々のうた』がなじみ深い。わずか200字程度の枠によくまとめるものだと感心し、現代文の演習によく利用した。そして、自分の文才のなさにひどく落ち込んだ。当時の国語教師に「もっとよく読み込め!」と言われたが、そんなもの、才能以上のことができるかと言い返したかったができなかった。

 

「ですよね~」サル

 

 

期待を背負っての出生

 

大岡信は歌人・大岡博の長男として伊豆・三島にうまれた。父は信の誕生を殊のほか喜び「あゝして泣き乍ら湯の中であばれてゐるのがおれの跡つぎだ。おれの出来ないであろう仕事をあの子が継いでくれるのだ」と日記に17ページにわたって記した(31.2.16)。さすがに歌をやっていただけに博にはつい拾いたくなる言葉が多い。

 

鼻が高い。眼は開かないが大きいらしい。口も一文字だ。そして大きい」。なるほどよく観察している。その後の大岡の風貌をそのまま見るようだ。最初泣かないことをひどく心配している様子もよく伝わってくる。博は窪田空穂の指導をうけた地方歌人のひとりで家庭の事情で進学を諦めた。だからこそ子供にはいい教育を与えてやろうと思ったのだろう。

 

「親心だの」サル

 

 

多感な学生時代

 

それに答えるように大岡は優秀な成績をおさめて旧制沼津中学に入学する。沼中時代の詩の指南者は学友・太田裕雄だった。望月市恵訳『マルテの手記』が陳列されていたが、ボロボロになるほど読み込まれていた。

 

だが、当時の大岡の心を占めていたのはこの時代に思春期を迎えた少年たちに共通した憂愁、すなわち「いずれ戦争にとられて死んでゆくのだ」という思いだった。ところが中学三年の夏にあっけなく戦争は終わり、大岡の前に「果てしなく続くものと思い込んでいた戦争が終結すると二十で死ななくてもいいのか…。想像もできない生きるべき将来が広がった」

 

「一気に世界観が変わるのー」サル

 

思いのたけ文学にのめり込めるという喜びと共に友人の日野啓三、佐野洋らと同人誌「鬼の詞」を創刊。この関係は一校、東大、職場まで一緒。“いろんなたくらみの仲間”として続いていく。

 

また一校ではフランス語教師だった寺田透の薫陶をえた。フランス語の一語一語がもつ抵抗感や物質的な手触りとでもいうべきものに対して眼を開かされたと述べている。

 

 

東大時代は詩人の菱山修三、エリュアールに傾倒。卒論『夏目漱石』は著作集(77)で初めて公になったが、大岡昇平小島信夫が「なぜもっと早く発表しないんだ」と叱るほど出色の評論だったという。「漱石は決して巧みな作家ではなかった。彼は巧みさに出発して次第に巧みさの拒否に向かって進んだ作家であった」。なるほどと言いたいが、全文を読んでからにしよう。

 

戦後詩模索の時代

 

大学卒業後、読売新聞社に就職。10年勤務したのち批評家として独立する。『戦後詩論 鮎川信夫ノート』で「荒地」や「列島」が展開した戦後詩を批判。50年代を「感受性の祝祭の時代」と表し、詩は政治や観念ではなく感性を謳うものだと宣言する。『わが詩と真実』(62)で回想しているように「一所懸命詩を変えることも考えたし、少なくとも言葉の質感とか詩の作り方、構成の仕方を何とか変えてみようとした時期」だった。

 

 

美術評論へ

 

71年に谷川俊太郎、茨木のり子、川崎洋らと「櫂」を発足。シュルレアリスム研究会では東野芳明、瀧口修造、阿部公房とも交流。このように詩や文学に留まるところを知らない大岡だが、決定的だったのは63年のパリ青年ビエンナーレ。出席に際して現代美術を見て回ったのが美術評論のスタートに繋がり、ひとつのスタイルを作った。

 

連詩とともに

 

後半生の主な仕事は(連歌に範をとった)連詩だろう。詩人が個の枠にとらわれ過ぎて、共通の言葉として慈しみ合えないという危機感。それがそうさせたと大岡はいう。晩年の詩はどこか平民的で俗っぽく感じられるが、それは寄り添おうとした時代がもつ言葉がそうだったからだろう。平易な文章で古典の面白さを若い世代に伝える試みは大切な仕事でもあった。

 

「サルには詩は難しいだよ」サル

 

でも言葉が面白いと思えばそれは詩だよ。

 

「モッピー!」サル

 

それが詩。

 

サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

サルヒツの酒【第332回】

伊根満開 古代米酒

 

製造年月:2025年3月

生産者:向井酒造㈱

所在地:京都府与謝郡伊根町

タイプ:純米酒

使用米:京都産「輝」古代米「紫小町」

精米歩合:非公開

アルコール:14%

杜氏:向井久仁子氏

販売価格:2,600円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒は伊根満開。舟屋で人気の伊根町にある向井酒造が醸す酒だ。創業は江戸中期の宝暦4(1754)年の老舗蔵。女性杜氏の向井久仁子氏が卒業研究のテーマでもあった古代赤米を使用した酒造りに成功。果実酒をおもわせる味わいという。一度は飲んでみたかっだけに興味津々。(2025年5月17日賞味)

 

 

2019年の大阪サミットのふるまい酒に選ばれたことで知名度もアップした。まさに満開の桜色。色といい、飲みやすい低アルといい、日本酒というよりリキュール的な飲み心地にシンパが急増。海外での売れ行きも上々らしい。大漁旗のラベルで知られる代表銘柄《京の春》は力強い生酛系。では《伊根満開》はどうだろう。

 

「飲んでみないと判らない」サル

 

 

もっと酸味のある酒をイメージして平杯にしたんだけど…。これはグラスだったか。というほどに味は果実酒そのもの。品のいい梅酒を思わせる甘酸っぱさ。舌に絡みつく甘味。独特のスグリの果実のような渋味。これは純和食には不向きなような…。

 

「そんなこと聞いていないからさ」サル

 

 

「ドストライクに和食だよ」サル

 

ザ・和風つきだし「空豆」。

 

 

ザ惣菜。蕗のカレー風味炒め。

 

「カレー風だからいいんじゃね」サル

 

甘酸っぱいのとはちょっと…。

 

 

「これならいいんじゃない」サル

 

辛うじて洋食に近いか。わさび菜の素揚げと鶏皮煎餅。

 

 

本当にリキュールだった。オンザロックやソーダ割りでもいい。ただ本当に甘い。食前酒にいいかも。好みは人ぞれぞれだしね。

 

「一回は飲んでみないとにゃ」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

生誕100年 中村正義 -その熱と渦-

 

往訪:2025年5月17日

会場:平塚市美術館

会期:2025年4月12日~2025年5月18日

開館:9時30分~17時(月曜休館)

料金:一般1,000円 高大生500円

アクセス:JR平塚駅から20分

駐車場:あり(有料)

※撮影一部OK

 

 

2025年5月中旬。雨模様のなか異端の日本画家・中村正義(1924-1977)の回顧展を観にいった。

 

 

中村の遺族にとって僕のような手合は許されない存在かもしれない。というのも建築家・篠原一男の延長上で中村を知ったからだ。逆引き的な記述になるが、中村がアトリエの設計を篠原に依頼したのは1971年。《直方体の森》と名づけられたそれは没後も美術館として生き続けている。だが、そこは純粋に中村の絵をみる場であり、建築目的の来訪は“禁止”。建築の写真もダメとなかなか手厳しい。そこまで聞けば「中村正義とはいかなる画家か」と好奇心も募ってくる。

 

 

そんな矢先、平塚市美術館で生誕100周年を記念する特別展が開催されると知った。天の恵みとばかりに飛びついたのは言うまでもない。(中村岳陵と髙山辰雄の作品については撮影NGだった。)

 

中村正義(1924-1977)

 

愛知県豊橋市のこんにゃく問屋の家にうまれた中村に絵の手ほどきをしたのは父だった。長じて「絵描きになりたい」と告白すると、目を丸くして「絵はいかんぞ!メシは喰えん」と逆に猛反対。しぶしぶ愛知県立豊橋商業学校に進学した中村は、そこで生涯の友となる星野眞吾と出逢う。星野もまた絵描きの卵だった。

 

(基本的に撮影OKだった。なんか意外だ)

 

まもなく肺結核で学校を中退。やはり絵が生きがいだったのだろう。京都絵専に進学した星野の伝手で願書をとりよせるが学歴がたりずに挫折する。そして父が死去。自宅は空襲で全焼。終戦後まもなく母が後を追うようになくなる。このように不幸と隣り合わせのような青春時代だった。

 

第1章 研鑽の時代 日展と蒼野社

 

《斜陽》(1946)豊橋市美術博物館 紙本着彩

 

1946年、星野の縁で中村岳陵の画塾「蒼野社」に入門。その二箇月後には、《斜陽》で第二回日展で初入選した(この下絵をみせて岳陵に入門を許されている)。ようやく人生に春が来た。

 

 

細密で丁寧な色の塗り重ねによってその才能が知れる。二匹の蝶は亡くなった母「てふ」と自身を表したものかもしれない。そのあくる年に、ふみ子夫人と結婚する。しかし、直後に夫婦で結核に罹患。しばらくは画業から離れることに。

 

 

第2章 反逆の兆し 日展復帰と一采社

 

《溪泉》(1950)豊橋市美術博物館 紙本着彩

 

長い中断期間をへて、1949年に多くの岳陵と蓬春門下生が参加した髙山辰雄らが主宰する一采社に加わった。この《溪泉》で第6回日展特選を受賞した。

 

 

特有の女体造形やアーモンド形の瞳など、先輩画家・髙山辰雄の影響を色濃くみることができる。その後ふたたび夫婦ともに結核の症状が悪化。経過が思わしくない妻と、1954年(30歳のとき)に協議離婚。翌年に鷹野あやと再婚。病気が理由ではあるが翌年に再婚というのは…いや、画業とは関係ないので深掘りはよそう。

 

「サルはそっちが気になる」サル ←大のゴシップ好き

 

《女》(1957)豊橋市美術博物館

 

その間、自分をとりまく環境や運命がそうさせたのか、療養復帰第一作の《女》は14歳の少女がモデルとは思えない妖艶で不気味な絵に仕上がった。別名《赤い舞妓》。

 

《舞妓》(1958)豊橋市美術博物館

 

更に翌年の作品。別名《白い舞妓》。本当は着物の前をはだけて裸身をさらす舞妓の姿を描くつもりだったが、師の岳陵から「皇室の方々も御覧になる日展で不謹慎だ」と諫められ、変更したというエピソードがある。

 

《舞子》(1959)新潟放送蔵

 

結果的にはその翌年には当初通りの裸身の舞妓を出品する。いわゆる《黒い舞妓》だ。多分貸してもらえなかったんだろう。パネル展示だけだったが。

 

「おーらら~」サル

 

《不動八大童子》(1960)亀岳林 萬松寺蔵

 

中村は非常にマジメな画家なのだろうと思う。マジメさゆえに、また技量がありすぎるがゆえ

に、師である岳陵や髙山の絵に囚われ、そして縛られ、息苦しさで一杯になったのだろう。

 

 

信長の父・信秀開基の萬松寺から依頼品を描いた翌年の1961年に一采社は解散。同時に中村は蒼野社と日展から脱退することになる。

 

 

第3章 日本画題への挑戦 日本画研究会発足

 

定型文学に対する第二芸術論と同様、戦後、日本画滅亡論が声高に叫ばれていた。その様な状況下、身内からの内部告発的な批判に対して画壇はヒステリックなまでに拒否反応を示した。1961年、中村は追放された。同時に中村はそれまでのスタイルをかなぐり捨てる様に画風を変える。

 

《自画像》(1962)名古屋市美術館 紙本着彩

 

この画は額縁と一緒でなければならない。まるで遺影のような自画像は、それまでの自分との決別の意をこめてのことなのだろうか。そう感じた。

 

《妓女》(1962)豊橋市美術博物館 紙本着彩コラージュ

 

過去の色彩とタッチを棄てて、中村の赤とでもいうべき、血潮のような赤、ベタ塗りの赤が顕著になる。鮮やかというより残酷なまでに視覚を虐める対抗色との絡み合いが、画家が秘める破壊衝動そのもののようだ。

 

《男と女》(1963)豊橋市美術博物館 紙本着彩

 

アクリル絵の具、蛍光塗料などを大胆に採用。膠のかわりに合成樹脂の接着剤を用いるなど日本画の既成概念をこえる制作に意欲をみせた。

 

「片岡球子みたい」サル

 

型破りという意味で同じだね。

 

 

木工ボンドを混ぜた顔料のマチエールがすごい。

 

《爽爽(蒼明)》(1963)岡崎市美術博物館 紙本着彩

 

その色だけからは判然としないが、狩野派風の松の大木の様にも見える。この年、美術評論家・針生一郎らの協力で日本画研究会が発足。洋画、建築、音楽、グラフィック、そして評論の各界の俊英が参加。大きな変換点をむかえる。

 

《源平合戦絵巻・第3図玉楼炎上》(1964)東京国立近代美術館

 

発表の場を失えば注文も来ない。崖っぷちに立たされた中村を救ったのが映画界だった。

 

(同上 部分)

 

社会派の大御所・小林正樹がメガホンを取った八雲原作のオムニバス映画「怪談」(1965)の「耳なし芳一の話」で使われた大作である。

 

《源平合戦絵巻・第4図修羅》(1964)東京国立近代美術館

 

五部構成で挿入画として使用された。

 

「おサルは途中で寝た」サル

 

芸術偏重の映画だったかもね。

 

(制作中の中村と小林。映像の後ろ姿の芳一は若き日の中村賀津雄)

 

映画のなかでは武満徹の怨念のような不協和音とともに芳一奏でる琵琶の音曲のむこうにカットバックのように挿入される。一度観たら忘れられない迫力があった。
 

 

第4章 生と死の狭間で 人人会と東京展

 

1970年になると大腸癌手術の影響か、破天荒な色彩は影を潜め、どこか暗鬱な画風に変化する。

 

《蝦蟇仙人図》《鉄拐仙人図》(1975)名古屋市美術館 紙本着彩

 

中村が後生に残した功績のひとつに1974年の人人会の結成があげられる。文字通り上下関係に縛られないフラットな組織を目指した。旧友星野を頭に、山下菊二、田島征三、斎藤真一、片岡球子など、ひと癖も二癖もありそうなメンバーが集まった。

 

《ピエロ》(1975)神奈川県立近代美術館 紙本着彩

 

鴨居玲もまた自らを道化に擬して自画像を描いた。そして、幾度もみずからを殺める“ふり”をし、そして最後に本当に死んでしまったが、中村にもそうした「死」に、あるいは「凶事」にとらわれた自己を露悪的に描こうとしたきらいがある。

 

《うしろの人》(1972-77)豊橋市美術博物館 紙本着彩

 

最晩年の作品。

 

 

陰鬱な絵ながら、創作に関しては意慾的だったことが判る。

 

「暗い絵だね」サル

 

思いがつまっているわけよ。

 

 

ミキサーもつかっていたのか。

 

 

チャレンジのあと。

 

 

こんな作品も残していた。芸術家には愛猫家が多いが中村もそうだった。

 

 

第5章 深掘り!中村正義をよみ解く 風景と山水

 

《雪景色》(1969)

 

こんな絵も描いたのか。蒼野社時代とも日展脱退後とも異なる落ちついた画風だ。この画は(画壇や美術商などのそれまでの拒否反応とは裏腹に)第18回五都展で大評判となった。そんな世間をみて「面白いことは、僕を疎外してきた画壇がたった一枚の絵で動くという事だ」と冷ややかな口ぶりで語っている。だが、これら風景画が再び中村を迎えようという世間の風潮に一役買ったのも事実である。

 

 

他方、生涯にわたって自画像にもこだわり続けた。

 

《緞帳下図》(1963-69)

 

また、名古屋御園座(1963)をかわきりに名古屋国際ホテル(1964)、神奈川県立音楽堂(1965)、中日劇場(1966)など緞帳下図を手がけている。これらも干されていた頃の貴重な収入源になっているし、気持ちよく仕事をしていることが見て取れる。音楽堂は見学したことがあるが緞帳はなかったなあ。

 

「ほとんど取り壊されたし」サル 残念だの

 

《月刊「20世紀」表紙原画》(1968-69)中村正義の美術館蔵

 

タイトルは「日本を動かす人たち」。実際に本人を前に描いたそうだ。福田赳夫はこんな表情をみせたのか。「描いているうちにスゴ味がでてきた」と書いているので、画家の眼は侮れない。戸川昌子さんが日本を動かす人だったというのは意外だ。

 

「皆よく我慢したにゃ」サル

 

スケッチだけササっとやったんじゃないかな。

 

 

この画はよく知っている。作者が中村であることは今回初めて知った。てっきりあの有名なポートレートから描き起こしたのかと思っていた。「私は三島ほど意思を意識する人間にあったことがない」とコメントを残している。「意思」は自意識と読み替えてもいいだろう。

 

《屈然》(1977)豊橋市美術博物館

 

晩年は仏画をおおく描いたといわれる。

 

《屈然》(1977)豊橋市美術博物館

 

絶筆となった水墨画。病床にあって描けるものは水墨画くらいだったのだろうが、父から手解きを受けた南画に戻っていった中村の心のうちは偲ばれる。病苦に苛まれた52年の生涯だったが、画業はもとより、日本画にとどまらず人人会を通じて戦後美術を育てた功績は大きい。いい展覧会だった。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ282

新橋駅前ビル1号館・2号館

 

往訪日:2025年5月13日

所在地:東京都港区新橋2-20-15(1号館)

開館:

(平日)7時~0時30分

(土日祝)7時~21時

アクセス:JR新橋駅の眼の前

駐車場:地下式(有料)

■設計:佐藤武夫設計事務所

■施工:戸田建設

■竣工:1966年

 

《東口に佇立する1号館》

 

2025年4月。建設工業新聞紙上の「新橋駅前ビル取壊し」という記事に愕然とした。たしかに日比谷近傍の建設ラッシュはすごい。遠からぬ日にそういうことが起きてもおかしくない。そう漠然と思っていた。しかし、突きつけられた以上、ジッとしていられない。人流の少ないよく晴れた平日の昼下がり。近在での打ち合わせを口実にチラ見に出た。

 

「さぼったのち?」サル

 

お昼タイムだよ。

 

 

新橋駅前ビルといえばニュー新橋ビルと並ぶサラリーマンの聖地。それが名建築だといわれて戸惑う向きもあるだろう。低層階は有象無象の飲食店やサービス業が犇めく雑居ビルである。しかし、このグリッドライン。ピンとくるものがあった。

 

 

グリッドといえば佐藤武夫だ。60年近くの風雪によってくすんでいるが、当時は画期的なカーテンウォールだったに違いない。ちなみに竪板状に嵌め込まれているのは溝型ガラスらしい。

 

 

「オサルチーヌはまだ生まれてない」サル

 

 

地階にくだる階段側壁には抽象的なレリーフが施されている。

 

 

そして信楽焼の狸の銅像。もともとこの界隈は「狸小路」と呼ばれる大衆酒場街だった。

 

 

寄進に参加した企業。飲食関係のなかに日本ヘラルド映画の名前がある。竣工翌年の1967年にゴダールの代表作「気狂いピエロ」を配給した。高校生の頃に福岡の場末の名画座テアトル天神で観た。そのへラルドが入居していたと思うと万感胸に迫るものがあった。

 

 

普段は何の気なしに利用しているが、無くなると思うと名残り惜しい。

 

 

緑釉じみた焼成タイルがモダンだ。隅角を塗りまわし風に処理している。

 

「細かいところに工夫があるにゃ」サル

 

 

地下街に続く壁にはエンボス加工。

 

 

カラフルな床材は高度経済成長期の勢いを物語っているようだ。

 

 

しかし、なぜデッドスペースが生まれやすい断面になったのだろう。再開発に充てられた用地がこの形に限定されていたのか。であれば、そこから複雑なレゴブロックのような構造を立ち上げた佐藤の想像力に惜しみない拍手を送りたい。

 

 

階段部。この時代の建築ではこの手の防護ネットをよく眼にする。

 

 

鉄筋コンクリート造地上9階・塔屋3階。2号館も同じ仕様。平面の形が小ぶりなだけだ。

 

 

二階。商業フロア。いずれなくなる日のために。

 

「ただの商業ゾーンだにゃ」サル

 

それもまた味。

 

 

化粧材は白色トラバーチン。昭和だ。

 

 

ただ一番の見所は、スリットとポチ窓がついた分離派風の塔屋だと思っている。

 

2号館(2026年4月3日撮影)

 

二号館の塔屋は某信販会社の広告が外されて竣工当時の姿が拝めるようになった。朝夕の通勤の際に眼を細めて見ている男がいたらそれは僕だ。

 

 

それからおよそ一年。今もビルは健在だ。

 

(国道15号・汐留方面より)

 

肩透かしを食らったような気もするが、ミキプルーンの三基商事東京本部ビルの例もある。油断はならない。ある日突然のようにバリケードで封鎖され、たちまち重機による破壊が始まる。昭和の建築とは儚い存在なのだ。

 

「昭和ジジイだのー」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツの酒【第331回】

新神亀 GAMERA -rebirth- 純米酒

 

製造年月:2025年4月

生産者:神亀酒造㈱

所在地:埼玉県蓮田市

タイプ:純米酒

使用米:阿波山田錦100%

精米歩合:60%

アルコール:15.5%

杜氏:太田茂典氏

販売価格:2,200円(税別)

※特約店限定品

 

※味覚の表現は飽くまで個人的なものです

 

今夜の酒は埼玉の神亀。嘉永元(1848)年創業の老舗蔵で、日本で初めて全量純米酒に切り替えた蔵として有名だ。幾たびか飲食店で頂戴しているが、昔ながらの純米酒特有の香気がやや苦手。しかし家飲みはしたい。ということで稀少性の高い新・神亀にチャレンジした。(2025年5月11日賞味)

 

 

映画「GAMERA ーRebirthー」がNHK総合で放映されるのを記念して醸造したそうだ。観てないね。

 

 

表ラベルがカッコいい。ジャケ買いでもあったんだよね。これなら“いつもの”神亀とは違うんではないかと。杜氏は奈良の春鹿(今西清兵衛商店)から2003年に移った太田茂典氏が南部杜氏のわざで醸し続けている。

 

 

基本的に燗酒で飲むことを想定した造りだけに花冷えで飲んでいいのか説もあるのだが。

 

「サルは冷やして飲む!」サル

 

と言って聞かないので。で飲んでみたら、やっぱり強烈にパワフル(笑)。辛口で旨味重視。華やかさはない。ザ・男酒。燗にすればまろやかでバランスも良くなったかもしれないが全てあとの祭り。しかし…

 

 

青豆と赤玉ねぎとチクワの和え物

 

これが癖になるわけで。

 

 

主役は太刀魚のソテー。無塩バターを効かせて。でもなんか痩せっぽちだよ。これ。

 

「いい形のが入ってなかったんだよ」サル

 

海の生態系も変わってきているのかも。

 

 

やっぱり手強かった神亀。いつになったら「うまい!」と手放しに言えるようになるのか。まだまだ修行の日々は続く。

 

「サルヒツの永遠の課題」サル

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

生誕100年 朝倉響子展

 

往訪日:2025年5月10日

会場:上野の森美術館ギャラリー

会期:2025年5月11日~2025年5月21日

開館:10時~17時(会期中無休)

料金:無料

アクセス:JR上野駅から2分

駐車場:なし

※撮影OK

 

 

この数年のアートの旅を経なければ朝倉響子という彫刻家を積極的に知ることはなかっただろう。大袈裟かもしれないが、ひとりの人間がある物事や人物に出逢うには、些細な偶然や時の悪戯がなければ果たせないのだとつくづく実感した。

 

朝倉響子(1925-2016)

 

ミロ展を観た帰り道に、たまたま通った上野の森美術館ギャラリーでその回顧展が開催されていることを知った。響子はあの朝倉文夫の次女で、姉は絵本作家や舞台芸術家と知られる朝倉摂である。写真でみる響子の面立ちは父・文夫からは遠く思われた。ただ、文夫と違った意味での堅固な意思を感じさせた。芸術家ならば必ず持つであろう意思を。

 

《帽子》(1976)

 

わずか10日あまりの会期に偶然出くわした幸運を素直に嬉しく思った。

 

(同上)

 

響子の作品は都内の路上や公共施設の屋外彫刻として身近な存在だ。さすがは一流の彫刻家を父に持つだけに、その血は色濃く受け継がれている。ただ、それは飽くまで技術的素質という意味に留まり、表現のありようは佐藤忠良やその後継・笹戸千津子、あるいは舟越保武の後期の作風を思わせる。

 

《バネッサ》(1977頃)

 

スタイリッシュで無駄な装飾を嫌い、若さとその華やぎを形にしていた。

 

(同上)

 

見る角度で表情も違う。

 

《ツキー》(1977)

 

匿名性を剥ぎ取るタイトルも舟越のそれに似ている。ただ、こうした比較芸術論的な意見を述べたところで理解を深めることにはならない。

 

《ツキー》(1978)

 

響子の彫刻の学校は朝倉彫塑塾。特別にアカデミックな教育は受けていない。1928年に有名な朝倉塾集団脱退が起きた。ときに響子三歳。とすれば安藤照小室達ら、その後の彫刻界を牽引する世代がいなくなった、いわばもぬけの殻のなかで父直伝の教育をうけたのだろうか。

 

《F(憩う)》(1978)

 

今回の展示品は1976年から2005年までの、51歳から80歳までの後半生の作品が中心だった。

 

「布施明がモデルらしいね」サル

 

ファンだったんじゃない?

 

《リサ》(1994)

 

芸術家の最良の作品は(学者の研究成果と同じく)20代前半に占められるというのが持論だ。功成り名を遂げたあとに代表作といわれるものがあっても、やはり悪戦苦闘のすえに生み出された造形こそが傑作だと確信をもっているだけに是非観たかったのだが。

 

「叶いませんでしたな」サル

 

 

圧倒的に女性像が多い。

 

 

遺族から台東区に寄贈された12点を展示。生誕100周年を祝う企画だった。ということは昭和の元号と年齢が同じ。もっと言えば三島由紀夫と同年の生まれということになる。

 

《セーラ》(1999)

 

だから何がどうだという訳ではないが。三島が戦後文化を呪詛とともに否定したのとは逆に、響子は若さと華やぎの発露の時代と捉えたように感じる。

 

 

少なくとも作品を観るかぎり、同世代でも人生の歩み方、いやむしろ、そもそも生まれながらに宿った詩的天分の違いによって世界の見え方は変わるのだと示唆をうける。

 

《無題》(制作年不詳)FRP

 

個人的には一見ぞんざいにみえるこの抽象彫刻にあふれる魅力を感じた。

 

《クリスティン》(2000)

 

「手練れ」の作は好きではない。それはもはや商品に近い。

 

《アリサ》(2005)

 

わずかな時間ではあったが、ひとつの部屋がすべて朝倉響子で埋め尽くされるという僥倖はなにものにも代えがたい体験だった。ときおり雑踏でみかける無垢な若い女性の笑顔のような、ふんわりとした、常温の、春風にのった温かい気持ちを抱いて上野駅に戻った。

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。

ふ魅惑のパブリックアート⑫

大熊氏廣「小松宮彰仁親王騎馬像」(1912年)

 

往訪日:2025年5月10日

所在地:東京都台東区上野公園8-83

アクセス:JR上野駅から3分

 

《馬と宮様のバランスがいい》

 

美術全般をおさらいし始めて早二年。おかげでパブリックアート鑑賞という愉しみが増えた。東京都美術館の帰路、園内に大熊氏廣(1856-1934)が手がけた銅像があったはずと四方に眼を配ると簡単に見つかった。上野動物園のすぐ手前の広場に。

 

「立派な銅像だね」サル ヒツの好きな皇室関係?

 

大熊といえば靖国神社の天を突くように聳える大村益次郎像で有名だ。現在の埼玉県川口市の農家に生まれ、長じて工部美術学校彫刻科であのラグーザに学び、工部省に入省。技術官僚としてアカデミックな彫像を生み出した。総じて軍人、政治家、啓蒙家などの銅像、胸像をたくさん残している。

 

 

ことにこの小松宮彰仁親王の像は代表作のひとつに数えられている。馬格のある軍馬に跨る小松宮の皇族軍人らしい颯爽たる姿。大熊の旨さをよく語っている。ただ高すぎて仔細に観察できないのが悔しい。

 

「権威の象徴だからの」サル

 

だから手に届かないんだな。

 

 

台座も立派だと思ったら、東京府美術館を設計した岡田信一郎が29歳で手がけた作だった。古典主義的な力のはいった意匠だ。

 

「注意深く観察するといろいろ発見があるにゃ」サル

 

ちなみに小松宮彰仁親王(1846-1903)は仁和寺の第三十世門跡を襲名しながら、幕末の動乱に際して還俗。皇族軍人として征夷大将軍に任ぜられ、鳥羽伏見の戦いや奥羽征討で陣頭指揮をとっている。上野公園といえば光雲の西郷隆盛像が有名だが、他にもすばらしい銅像がたくさんある。探してみてはいかが。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

ミロ展

 

往訪日:2025年5月10日

会場:東京都美術館

会期:2025年3月1日~2025年7月6日

開館:9時30分~17時30分(月曜休館)

常設:一般2,300円 大学生1,300円

アクセス:JR上野駅から7分

駐車場:なし

※一部撮影OK

 

 

今夜は東京都美術館のアート篇。決定版ともいえるジュアン・ミロの大回顧展を観にいった。僕らが子供の頃、まだホアン・ミロという表記が一般的だった。カタルーニャの独立機運と連動してのことだったのだろうか、次第に“正しい”表記に置き換えられるようになった。カタルーニャといえば、ダリ、ピカソ、ガウディといった著名な芸術家を産んだ“国”として知られる。それはカタルーニャの豊穣な大地と、灼きつけるような陽の光が育んだ、生命の汪溢とでもいうべき奇蹟だった。

 

ジュアン・ミロ(1893-1983)

 

一度スペイン全土を二人で旅したことがある。まだオーバーツーリズムなど無縁な時代に。そこで見たカタルーニャ人は酒好きで女好き。陽気な反面、気位の高さもときおり見せる高貴な民だった。きっとミロもそんな男気のある芸術家だったのではないか。と長年勝手に買いかぶってきた。そう。カタルーニャ四騎士のうち、ミロの人と芸術に関しては殆ど無知の領域だったのだ。

 

 

第1章 若きミロ カタルーニャからの出発

(1910年代~20年代)

 

《自画像》(1919)ピカソ美術館

 

金工細工師の家に生まれた若きミロに芸術家としての啓示をあたえたのは、彼が病気療養で滞在したモンロッチ村の風土だったらしい。《スペインの踊り子》とこの自画像はピカソが手許に置き続けた一枚として知られる。

 

共に一時代を築いた関係にありながら、どちらかといえば初期キュビスム風の、やや生硬な構成のこの自画像を好んだという点に、ミロの個性をいち早く見抜き、そして尊んだ先達の思いが透けてみえる。

 

《ヤシの木のある家》(1918)国立ソフィア王妃芸術センター

 

1918年はミロにとって記念すべき年、つまり、ダルマウ画廊で初の個展を開催した年だった。この時代の作品をみるとゴーギャン、ゴッホなど後期印象派の影響や、更にはフォービスム、未来派まで取り込もうとした跡がある。その意味で、この《ヤシの木のある家》は第一のターニングポイントだった。

 

「わりとちゃんとした絵だね」サル

 

それをいかに破壊していくかが画家の本領だ。

 

 

第2章 田園から前衛の都へ シュルレアリスムとの邂逅

(20年代)

 

1920年。ミロはパリに飛んだ。時まさに喧噪の時代。そしてその4年後にはブルトンが『シュルレアリスム宣言』を刊行する。ミロもまたその運動のさなかに飛び込み、自動筆記風の得体のしれない絵画を表した。

 

《パストラル》(1923-24)国立ソフィア王妃芸術センター

 

それが「絵画の詩」と呼ばれる独自の絵画言語だった。画風は更に進化を重ねる。

 

《オランダの室内Ⅰ》(1928)ニューヨーク近代美術館

 

「もうなんかよく判らん」サル

 

僕らが「ミロといえばこれ」的に想像する最初のスタイルだ。この間100点以上の夢の絵を描いている。上の絵はヘントリック・ソルプの《リュートを弾く人》(1661)をベースにした作品で、オランダ旅行で買い求めた絵葉書を下敷きにしたとされる。一見無造作にみえて六段階も素描を重ねた計算のうえに成り立っている。

 

 

第3章 戦禍を逃れて パリ、マヨルカ島

(30年代~1946年)

 

1936年にスペイン内戦が勃発。戦禍を逃れてミロは家族とともにパリへと脱出した。戦争は第一次大戦へと続き、安寧の地を望めて流浪の民さながらの生活を強いられた。ミロの絵もまた陰鬱なタッチに傾斜していく。

 

《明けの明星》(1940)ジュアン・ミロ財団

 

メゾナイト(木質板)が画材に取り入れられた頃だ。またこの頃にマヨルカ島にアトリエを構え、陶芸を守備範囲におさめ、代表的連作のひとつ「星座シリーズ」23点を描いている。

 

 

第4章 アメリカでの名声 巨匠の誕生

(40~60年代)

 

第二次大戦後のアートシーンはアメリカ。

 

 

このコーナーはフルで撮影可能。

 

《夜の風景》(1966~74)ジュアン・ミロ財団

 

当時は抽象表現主義の全盛期。

 

《太陽の前の人物》(1968)ジュアン・ミロ財団

 

それでもミロはミロらしさを失わなかった。そうした潔さがアメリカで受け入れられ、巨匠としての地位を確立していったのだろう。ただ、それをミロ自身が良しとしていたかどうかは知らない。

 

 

年齢を重ねるに従って領域と規模は拡大していった。いずれも1967年を中心にした立体作品。

 

《逃避する少女》(1967)ジュアン・ミロ財団

 

晩年特有の色使い。

 

 

第5章 新たな挑戦

(70年代)

 

1970年代。ミロ80歳の境地である。

 

《焼かれたカンヴァス2》(1973)ジュアン・ミロ財団

 

依然旺盛な創作意欲は止まることを知らなかった。

 

 

画家の筆触。

 

 

画家の爪痕。

 

《花火Ⅰ》《花火Ⅱ》《花火Ⅲ》(1974)ジュアン・ミロ財団

 

アクションペインティングにも挑戦している。オートマティズムに回帰したのだろうか。

 

 

どこか東洋的。こうして通観すると「子供の落書き」と比喩的にいわれるミロの絵も、実は時代によって大きく変貌を遂げていることが判る。そして時代の空気と、生活の場とした大地の呼吸そのものが影響を与えていることも。

 

「子供の絵って逆に描けないよね」サル

 

おとなの絵は作為が出てしまうから。

 

 

若い頃は商業芸術を嫌悪したはずのミロ。実はポスターデザインも手掛けている。

 

 

バルサのポスターも。そりゃそうだよね。

 

 

90歳で亡くなるまで多くの作品をここで創作した。政治的コンクエスト。生命の讃歌。偉大なる画家の思いが籠った絵の数々だった。上野公園の街歩き。もうちょっと続く。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。