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ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ267

山口情報芸術センター

 

往訪日:2025年5月2日

所在地:山口県山口市中園町7-7

開館:10時~20時(火曜定休)

料金:不要

アクセス:JR湯田温泉駅から徒歩25分

駐車場:無料(161台)

■設計:磯崎新アトリエ

■施工:大林組・安藤建設・旭建設工業JV

■竣工:2003年

■公共建設賞(2008年)

■優良ホール100選

 

《みつけた。なにを。オーラを放つ建築を》

 

山水園投宿の翌朝。14年前におサルの両親と訪れた瑠璃光寺の街並みを追体験すべく市内をジョグした。前夜の雨雲が低く流れる表通りに飛び出した瞬間、建築眼がひとつの建物を捉えた。この造形。組織系ではない。

 

 

調べてみると磯崎新が手がけたものだった。

 

「散歩にいい広場だにゃ」サル ワンコもいるよ

 

 

正式名称は山口情報芸術センター。通称YCAM(ワイカム)。映画館、図書館、展示場、ワークショップスペースが一体となった複合施設だ。磯崎の先例でいえばグランシップ(静岡県)が同じ用途にあたるが、その(悪趣味と紙一重の)象徴的で印象深いデザインとは程遠く(磯崎にしては)無難なシルエットをしていた。おそらく周辺の山並みとの親和を狙ったのだろう。

 

 

1983年のつくばセンタービル以降、怒濤の勢いで活動してきた磯崎が、70歳を超えてアトリエのメンバーに主たる活動を委ねていた頃。ちょうど活躍の中心を海外にシフトした時期に重なる。

 

「そろそろゆっくりしたいお年頃だったのち?」サル

 

グリッドで仕切られたガラス壁に両サイドを挟まれたホワイエは観てみたいが、他の予定が鮨詰めで10時の開館を待つ余裕はなかった。

 

 

開放的かつ柔軟な利用法を念頭においたのだろうか。時として前面に出てくる哲学性やデザイン性が抑えられた、ラボ的でありジムナジウム的な建築だった。

 

「ディスっているのち?」サル

 

いやいや。観るべき建築ですよ。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツの温泉めぐり♪【第191回】

湯田温泉 山水園

℡)083-922-0560

 

往訪日:2025年5月1日~5月2日

所在地:山口県山口市緑町4ー60

源泉名:山水園混合和泉(中野1号・2号・3号)

泉質:アルカリ性単純温泉

泉温:(源泉)46.7℃(浴室)43.6℃

匂味:微量硫化水素臭・無味

色調:無色透明

pH:9.2

湧量:400L/min

その他:動力揚湯・かけ流し

■営業時間:(IN)15時(OUT)10時

■料金:【蓬莱の間】36,000円/人(税別)

■客室:14室

■アクセス:中国道・湯田温泉SICから10分

■駐車場:約25台

■日帰り:なし(専用施設あり)

 

《浴場はいい意味で現代風》

 

続いて湯田温泉「山水園」の温泉篇。

 

 

中居さんに抹茶を立てて頂いて冗談を言い合いながら部屋の調度を愉しんだ。

 

 

湯田温泉といえば外郎。知っているひとは知っているが湯田温泉は三大ういろうに数えられる。名古屋のそれは少しモッサリしているが、湯田産はモチモチ。ちなみに宮崎産はもっとモチモチと食感が違う。

 

ということで温泉探検へ!

 

=山水園はこんな宿=

 

・大正5年創業の老舗の大店

・登録有形文化財の数寄屋建築

・無色透明な湧出量豊富な美人の湯

・料理がおいしく温かいもてなしの宿

 

=温泉利用法=

 

■浴場…内風呂一箇所のみ

■利用時間…15時~11時30分/翌朝6時~9時30分

入替利用…なし

■貸切利用…なし

■日帰利用…なし

 

温泉に関しては至ってシンプル。なので早めに投宿してバージン湯をゲットしよう。とは言いつつ、ここは温泉よりも宿の風情を愉しむ目的で投宿する客はほとんど。焦る必要はない。

 

 

湯屋は二階の通路で繋がっているので一度この大階段を登ることになる。

 

 

奇麗な待合席があった。お茶室用だろう。

 

 

そんなことは後でいい。まずは二階にあがらねば。

 

 

どんどん進む。

 

 

角を曲がって更に廊下が。かなり距離がある。建物が大きいから当然といえばそれまでだが。

 

 

渡り廊下を越えて階段を上がればすぐ。

 

 

ここだ。残念ながら男女の入替はない。女性は方形、男性はやや大振りの円形。それを知ったおサルが悔しがること(笑)。

 

「差別待遇だ!」サル

 

まあ。逆の場合もあるし。老舗の場合は入替なしという処があるよね。

 

 

ではお邪魔します。

 

 

結構奇麗にやり直した感じ。

 

 

これは!広い!

 

 

そして深い!

 

 

不思議と誰も来ない。なんで?

 

 

ジャグジー風呂がある。よくみると小さな白い湯の花も浮かんでいる。普段はこういうものは「ちょっと」だが、折角だしちょっとお試しを。

 

「サルは喜んでやるけどな」サル 大スキ!

 

 

壁の釦を押すと…なんとなく泡が。

 

 

油断した途端いっきにアワアワ!なんか楽しい!

 

 

遊んではいけない。いや。これくらいは許されるか。なかなか好いので三回ほど愉しんだ。

 

「楽しんどるやん」サル

 

(成分表)

 

泉質は極めておだやか。しっかりした硫化水素臭が鼻をくすぐる。そして無味だった。

 

「飲んどるし」サル

 

このあと茶室見学などで有頂天になるなどして時間は瞬く間に過ぎていった。

 

 

=夕 食=

 

料亭なみの献立と訊いたのでランチはコンビニで済ませたことを白状しておく。

 

「お腹いっぱいだとつまんないことになる」サル

 

 

先付 春菊、ズッキーニ、茗荷のみぞれ和え

 

 

蕨てんぷら、茄子の蕗みそ田楽、トマト

 

「一瞬赤いお団子かと思ったよ」サル

 

色合いがいいよね。

 

 

造里 平目、イカ、車海老

 

「酒頼もうぜ!」サル

 

ここでメニューに眼を通して驚愕した…。

 

 

なんと!さすが山口。チュンチュンゴールドじゃないの。それが雁木や貴、東洋美人など比較的容易に手に入る銘柄と変わらない価格で名を連ねている。

 

「ホンモノ?」サル

 

さっそく純米生酛造を頼んだ。一合で1200円。普通の酒だとしてもかなり良心価格。

 

 

豊潤で白桃のような甘味とジューシーさ。それでいてくどくない。人気の秘密が判った。

 

 

あなごの刺身

 

やはり山口。だが刺身が出るとは思わなかった。

 

「やっぱりアナゴだよねえ」サル ←かなり好き

 

 

甘鯛の若狭焼

 

 

ジュンサイと鱸のすまし汁

 

 

湯葉の茶巾蒸しと季節野菜の炊き合わせ

 

 

豚の角煮

 

甘さ控えめで肉の旨味が口いっぱいに。

 

 

その後同じものを三本頼んだので金雀・純米吟醸50(1300円)に替えた。既に酔いが回ったせいだろう。違いが全然判らなかった(笑)。

 

 

蓮根饅頭

 

「とろとろフワフワ」サル

 

ここで料理の主役が最後にでてきた。

 

 

黒毛和牛のロースト

 

 

赤出汁と

 

 

御飯も一緒に。ツヤツヤで歯応えも十分。

 

 

もちろんお新香もついている。

 

 

それをこうして食べるのだ。最高。

 

 

氷菓 桜のシャーベット

 

桜の昂奮に火照った体を冷やしてくれた。大満足の食事だった。

 

「まだ寝にゃい」サル

 

翠山の湯

 

旅館棟の浴場は宿泊者限定利用だが、そのすぐ上に日帰り施設がある。もちろん源泉は同じだ。

 

 

利用時間:10時~22時(入場21時半まで)

料  金:大人1600円 子供800円

 

宿泊者は無料で入ることができるというので酔いを醒ましていってみることに。

 

 

そろそろいい時間なので賑わいも落ち着いたようだ。

 

 

すごいね。萩焼?

 

 

まずは露天風呂。こういう演出は好みではないが偶にはいいよね。

 

 

ヒメシャガが大量に咲いていた。

 

 

室内風呂はこんな感じ。

 

 

不通のスーパー銭湯のノリだった。

 

 

戻るとすでに寝具の用意ができていた。あとは…

 

「飲みなおしゅ」サル

 

寝ようよあせ←運転疲れでマジで眠かった

 

 

=翌 朝=

 

いつものように(周辺の観光調査も兼ねて)ジョグでひと汗かいて朝風呂に。快晴の予報。

 

 

朝食も満漢全席…。

 

 

さすが老舗料亭温泉旅館。エリンギと小松菜の和え物に湯豆腐、茄子の煮浸し、そしておサルの大好きな温泉たまご。

 

 

鰤の塩焼

 

 

蜆汁 飲み過ぎの朝にぴったり。

 

 

そういえば夜半過ぎのこと。障子で仕切った広縁のあたりから聞こえる小さな物音で眼が覚めた。耳をたてると小さな、それも本当に小さな囁き声のようなものが聞こえる。まさか不審者?寝ぼけて状況が巧く把握できない。だがそのうちに聞き覚えのある生き物の鳴き声であることに思い至った。隣りのおサルに「おサル。二十日鼠がいるよ」と囁く。だが、スピーっと寝息を立てるだけで微動だにしなかった。

 

 

そのことを翌朝つげると大層悔しがった。大の生き物好きとして。

 

「本物のハツカネズミの鳴き声、聞きたかった!」サル

 

そうそう体験できることではないしね。

 

「なんて鳴いてたの?」サル

 

チューチューチューって。

 

「そんな。漫画じゃあるまいし」サル

 

ホントだよ。(本当は不審者か座敷童かと思ったんだけど)

 

 

建築、美食、温泉。すべての要素が詰まった素敵な宿だった。このあと市内観光して更に西を目指すことになる。まだまだ旅は長い。
 

(七日目につづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ266

山水園

 

往訪日:2025年5月1日~5月2日

所在地:山口県山口市緑町4ー60

営業時間:(IN)15時(OUT)10時

料金:【蓬莱の間】36,000円/人(税別)

客室:14室

アクセス:中国道・湯田温泉SICから10分

駐車場:約25台

日帰り:なし(専用施設あり)

■設計:笛吹嘉一郎

■施工:笛吹嘉一郎

■竣工:1936年

■国登録有形文化財(2014年)

 

《モダンリビングと数寄屋の競演》

 

僅かな滞在だけで岩国を出発して山口市内を目指した。この日の宿は湯田温泉山水園。湯田温泉はこれで三回目だが、いずれも大衆旅館とビジネスホテルだった。でも今回は違う。大棟梁・笛吹嘉一郎(1898-1969)が設計施工した数寄屋造りの名建築だからだ。

 

「ふえふきかいちろう?」サル

 

これで「うすい かいちろう」って読むんだよ。

 

 

表通りに「山水園」の看板を発見。そこで右折して「本当にこんな通りの先にあるのか」と訝しみつつ細い農道のような小道を進むと…あった。あの茅葺きの門の先だ。勢い込んで先の駐車場に止めてヨロヨロ重い荷物を両手に下げて歩き出そうとすると…。

 

「なんで歩かせるのちにゃ!」サル

 

と怒りだした。こんな好い旅館なら車寄せにつけて先におろすのが当然だろうという。要するに普段こういう宿に泊まり慣れていない田舎者(それは事実だけど)と思われるのが心外なのだろう。ならばと車で戻ると旦那さんが転げ出る様に現れておサルをエスコートしたのだった。

 

 

なんのことはない。駐車場はこの一段上に建てられた日帰り専用施設のためのもので、投宿者はこの車寄せの前にとめてよかった。勉強不足だった。

 

「ふつう判るやろ」サル

 

ということで山水園の日帰り利用はできない。

 

 

因みに源泉タンクは玄関正面にあった。

 

 

チェックインまで間があるので庭園めぐりさせてもらうことにした。見取図がもらえる。

 

 

国の名勝に指定された格式ある庭園で池泉回遊式、茶庭、枯山水からなる豪華版。

 

 

渡り橋の正面にみえるのは行在閣(二間)。昭和天皇皇后両陛下が昭和31年と38年に投宿された。本館ロビーとともに大正時代に建設された山水園でも最も古い宿泊棟である。

 

 

そこを半時計回りに回り込む。この先の潜り門は頭をぶつけやすい。注意しよう。

 

「ぶつけたもんね」サル

 

痛いのなんのって。

 

 

再び潜り戸を抜けるとロビー棟に出る。

 

 

このあたりが一連の茶庭になる。

 

 

更に進むと茶室とともに昭和25年に増築された山水園棟。今夜の僕らの宿所だ。

 

 

枯山水が続く。僕らの部屋のためだけにあるような贅沢さだ。

 

 

その枯山水を通過した先が到着時にみえた茨木門。もちろん嘉一郎の作で片桐石州ゆかりの門が本歌。二階は茶室になっている。

 

 

一旦池泉に戻り、食事処「臨水」を経て…

 

 

高台から庭園全体を望見した。

 

 

さる実業家が大正時代に建設した別荘を創業者・中野仁義氏が買い取り、増築の末に1936(昭和11)年に開業した。

 

 

戦後も二度増築。その増築部分こそ笛吹嘉一郎の作なのだ。

 

 

一番の格式を誇る「蓬莱の間」を予約受付と同時に押さえたのは言うまでもない。

 

 

靴脱ぎからこのあたりまで昭和11年の増築。

 

 

導線上に大正時代の初期建築が並ぶ。

 

 

元別荘だけあって応接間風だ。

 

 

更に洋間が続く。このあたりはチェックイン時の記帳スペースとして利用される。

 

 

床の組子柄。

 

 

モダンな格天井。杢目が縦横に配置されている。

 

 

ふり返ってみるとこんな感じ。引き戸のデザインが洒落ている。

 

 

奥に図書スペースが続く。

 

 

最奥がかつてのサンルームだろう。

 

 

雄勝石だろうか。敷石も贅沢な素材。

 

 

記帳のあと中居さんに部屋まで案内してもらった。とても愛想のいい方だった。

 

 

このあたりから嘉一郎の意匠がつづく。

 

 

本日のお部屋「蓬莱の間」。奥の部屋は市内の秋穂の上田家からの移築。襖を外すと40畳の宴会場になっている。

 

 

館内の間取りはこんな感じ。

 

 

ではお部屋へ。引き戸を開けると手前に3畳の次の間。そして奥が10畳の間。

 

 

正面から見たところ。中居さんが着座するなり「私もこのお部屋が一番好きなんですよ」と褒めちぎる。またまたそんなとただの客の癖に相好を崩す。「いえ。ほんとに」。いったい何の会話をしているのだ。

 

 

建具はいいものを使っているが、床の間の意匠などは簡素。割と華奢なラインが嘉一郎流。

 

 

L字状の広縁は勾配天井。

 

 

トイレの引き戸は大胆な網代。

 

 

欄間や引き戸など様々なモチーフや組模様が鏤められている。

 

 

全体的に茶室のエッセンスが引用されているのが判るだろう。

 

 

開けたところに次の間が続く。

 

こんな感じで、性懲りもなくロビーを取材しまくっていると女将さんから声を掛けられた。てっきり「いい加減にしてください」と叱られるかと思ったら「うちの旅館ってそんなにフォトジェニックでしょうか」と言われる。「フォトジェニックかだなんて。だってここ笛吹嘉一郎の設計ですし」と幾分首を竦めて答えた。すると「でしたら茶室もご案内しましょうか」と言うではないか。「え!いいんですか。そりゃもうぜひ」ってな感じで速攻でおサルを呼びつけて案内してもらうことにした。

 

「急に呼ぶんだもの!」サル

 

 

京都の残月亭を模した十畳・上段二畳の山月亭と、不審庵を模した三畳台目の不嗔庵二畳台目向切席五畳席からなっていた。

 

 

まずは山月亭へ。六畳台目のサヤの間が続く。ちなみに(以前紹介した)竹中大工道具館一滴庵(1958年)も嘉一郎の作で不審庵を模していた。因みに嘉一郎は表千家の茶人。

 

 

女将さんが「雨戸をあけると明るいんですけど」とガタガタ慣れない様子でこじ開けようとする。普段扱わないのでよく判らないらしい。壊しでもしたら事なので「いいですよ」とこっちが心配になるほどだった。

 

「サービス精神旺盛だの」サル

 

 

つづいて不嗔庵

 

 

掛込天井には突上げ窓が見える。

 

 

反対の隅角に水屋。一度廊下に出て二畳台目の部屋へ。

 

 

二畳台目から五畳へ。紺紙の引き戸に低い腰貼り。壁は恐らく聚楽仕上げ。

 

 

五畳。赤松の床柱がいい。躙り口がやや大きいね。期待していなかっただけにとてもいいものを見せて頂いた。

 

(温泉篇につづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

ひつぞうの偏愛的読書【第46回】

平山亜佐子『戦前エキセントリックウーマン列伝』(左右社)

2025年刊 310P

 

 

久々に面白い本に出逢った。身分も行動も雁字搦めだった戦前に、自分の信念を貫いた女性たち。社会通念的には風変りだが、時代の先端を行っていた女性たち。そんな20人が取り上げられている。(2026年2月17日読了)

 

★ ★ ★

 

丹いね子、深谷愛子、松乃門三艸子、小林孝子、江木欣々照葉諏訪根自子田中路子、月谷初子、ラグーザお玉、出上キク、大石米子、花園歌子、薩摩千代、阿部銀子、楠瀬喜多、林禮子、中村照子、木村駒子、山田順子の20人だ。既知の人物は着色したわずか7人。残しておきたいエピソードを紹介がてらメモしよう。

 

小林孝子

 

恋多き女、守銭奴まがいの女、殺人犯に虚言癖などエキセントリックウーマンは多数いるが、小林孝子(1899-?)の場合はどうか。父親は出版社を営む実業家。大層羽振りは良かった。その孝子が道を誤ったのは46歳年上の伯爵との結婚。まだ19歳だった。相手は田中光顕。ここで記憶が交差する。

 

土佐国佐川村出身で宮内大臣まで出世した田中が曽禰達蔵の設計で後年小田原に建てた別荘を以前見学した。そうか。田中はロリコンだったのか。そういう器量なので人妻になっても近寄る男は尽きなかった。この時代は男が浮気するのは当たり前。自活の手段が限られているとなれば、女も利用しようという気にもなる。

 

結局ゴタゴタに嫌気が差したのか田中は離婚に応諾。されど女が損をするのは世の常。水商売、女優、尼僧、自殺未遂というのが零落のパターンだった。しかし孝子が転身したのは守銭奴。最後はやはりカネか。それじゃあまりにつまらない。

 

「カネやろ最後は」サル

 

江木欣々

 

江木欣々(本名:栄子)(1877-1930)の場合はどうか。大正三美人九条武子、柳原白蓮、そして江木)として記憶していた。九条も白蓮も夢二風で面長。個人的に趣味ではない。

 

 

では欣々はというとやはり面長なのだ。それでも長谷川時雨の『近代美人伝』で一章割かれているのだからその評判は本物だったのだろう。

 

「美の基準がまだ江戸なんじゃ?」サル

 

驚いたのは栄子には数人の姉妹がいて、そのひとりませ子が清方の名作《築地明石町》のモデルという。その栄子だが法学者の江木衷の妻となり、才気あふれる上流階級の華となるのだが、どういうわけか『女閨訓』なる夜の指南書を出版している。それも当時は遊女しかやらないような…いや、よそう。しかし、淑女たる人がなぜ知っていたのか。

 

照葉

 

閨事といえば芸妓。新橋の名妓・照葉(本名:高岡たつ)(1896-1994)をひいてみる。日露戦争から大正にかけて芸妓は女優なみの人気。ブロマイドは飛ぶように売れた。有名なのは三越のポスターのモデルも務めた栄龍。「酒は正宗、芸者は萬龍」と称えられ、建築家・岡田信一郎の妻になった萬龍

 

(完成された色気。まだ子供なんだよね)

 

しかし照葉はすごい。旦那に浮気を疑われ、潔白を証明するため剃刀で小指の先を切り落とした。犯行に及んだのは15歳。若さゆえの浅慮か。どうでもいいが怖い。想像するだけでお尻がモゾモゾする。その後、国際俳優の早川雪洲に接近したり、芸者に戻ったり、波瀾の人生を歩んで最後は尼さんになり、98歳まで生きた。

 

「結局長生きしたんだね」サル

 

大石米子

 

刃傷沙汰なら社会奉仕家の大石米子(1888-1968)のエピソードがもっと怖い。妓楼の主・萬次郎の養女になるのだが、若い妻の浮気に対して嫉妬に狂った萬次郎が、皆が寝静まった夜更けに妻と浮気相手、妻の姉妹、そして養女の米子を次々に日本刀で斬り捌いていく。

 

闇のなかで事態を悟った米子が「あっ」と小さく叫んだ瞬間、腕がボタっと敷布団の上に落ちた。しかも片腕は皮一枚で繋がっている。怖いでしょう?。

 

「もうよい!」サル

 

米子自身の文章が抜粋されているのだが、文才があるのだろう、その乾いた描写が日本刀の切れ味と惨状を巧みに捉えて…やめとこう。夢に出そうだ。やはり米子も尼になり、社会奉仕に身を捧げた。

 

諏訪根自子

 

話が陰惨になってきたので明るいところを。諏訪根自子(1920-2012)は「ねじこ」と読む。なかなかパンチのある名前だが、戦前に活躍した名ヴァイオリニスト。音楽愛好家で知らないひとはいないだろう。

 

 

彫りの深いいわゆる西洋美人タイプ。その美貌と早熟な才能を期待され、大倉財閥の二代目・喜七郎がパトロンとなり、渡欧したまではよかったが、折あしくナチスが擡頭。あろうことかゲッベルスからストラディバリを受け取ってしまう。のちにこれが二重の非難(親ナチス批判・預けただけという非難)に繋がるが、根自子は歯牙にもかけなかった。

 

「音楽のためならゴシップも平気なのね」サル

 

田中路子

 

諏訪根自子を取りあげたならお騒がせ女優の田中路子(1909-1988)もあげるか。日本画家・田中頼樟の長女として不自由なく育つが、若い頃から恋多き女だった。なにしろ学生なのにあの(妻子ある)斎藤秀雄に恋するのだから。当然親は激怒。近衛秀麿が間に入って路子はウィーンへ。そこでオペラ歌手や映画俳優に。

 

 

しかしね。本人もコンプレックスを抱いていたように全然奇麗ではないのよ。こんなこと書くと「セクハラ」と訴えられそうだが、それでも西洋の貴公子たちに言い寄られまくったんだから世の中は不思議だ。田中が根自子のストラディバリ問題をチクったのも美貌に対する劣等感だと見立てているがやはりセクハラ的発想だろうか。

 

「あまり言わんほうがいい」サル

 

蓼食う虫も好き好き。

 

木村駒子

 

著者の平山さんと違って僕が書くとパンチがなくなるが、この木村駒子(187-1980)はすごい。熊本の比較的裕福な家庭に生まれたが、若くして降霊術や心理学に傾倒。将来の志望は教師、渡米して女優、更には女医と妄想は膨らむ。教師と女優も飛躍があるが、勉強もしてないのにどうやったら医者になれるのか。発想に脈絡がないのだ。

 

(アメリカで意気揚々の駒子)

 

結婚後は社会主義に目覚めて(ロジックゼロなのに)「青鞜」の一派に対抗したり、問題行動の多い女に成長する。驚くのは自己流で学んだ舞踏を渡米先で披露。咎める邦人がいないのをいいことに「日本の女性参政権運動の第一人者」「哲学博士」として賞讃されるようになる。周囲が知らないことをいいことに好き勝手な発言するひと。あれです。

 

山田順子

 

最後はこのひと。山田順子(1901-1961)。夢二がお葉とグダグダになったあとに現れた第四の女ですな。夢二よりも徳田秋声に接近して利用した毒婦というイメージが圧倒的だ。「そもそも文才がない癖に暴露小説なんて書くとはけしからん」とマスコミから袋叩きにあった。しかし、著者は本当は順子こそ被害者なのだと説く。そうかもしれない。秋声はまんまと順子との関係を小説『仮想人物』として仕上げ、自然主義文学の金字塔と賞讃された。まあ、秋声以外の複数の男と関係したのも世間の評判を悪化させた一因なのだが。

 

「不倫はいつの時代も叩かれるよ」サル

 

ということでお騒がせ女性数名についてメモしてみた。貧しい階層出身の叩き上げもいれば、華族階級出身もいる。だが、ひとつ共通しているのは、己の進む道は正しいと信じていることだ。これはなかなかできることではない。

 

(おわり)

 

 

ご訪問ありがとうございました。

名建築シリーズ265

岩国徴古館

 

往訪日:2025年5月1日

所在地:山口県岩国市横山2-7-19

開館:9時~17時(月曜休館)

料金:無料

アクセス:山陽道・岩国IC から5分

駐車場:あり

■設計:佐藤武夫

■施工:不詳

■竣工:1945年

■DOCOMOMO選定(2019年)

■登録有形文化財(1998年)

 

《これが戦時下の築造とは…》

 

呉市内をあとにして、次に向かったのは岩国だった。ここも前年のGWに訪れているが、重要な建築をスルーしていたのだ。それが佐藤武夫が手がけた岩国徴古館だった。

 

 

前回は雨模様のさえない天気だった。青空だとこうも映える。かくて確率は収束する。

 

「山頂に岩国城がみえるね」サル

 

 

前回往訪済みの吉川史料館を通過。

 

 

ここだ。戦後まもなく岩国市に譲渡されて、無料の歴史資料館になっている。この日は刀剣の企画展が開催されていた。

 

「ツツジが奇麗だのう」サル

 

河川敷の有料駐車場に停めて歩いてきたが、建物の脇に無料のスペースがあった。


 

岩国藩主・ 吉川家が寄贈した美術工芸品を保存するために、最後の藩主の弟にして外務官僚だった重吉の意向を汲んで吉川報效会が建設した。

 

 

戦局が厳しさを増す昭和17年9月に起工。竣工したのはなんと終戦間際の昭和20年3月だった。

 

 

設計は佐藤武夫(1899-1972)。軍人だった父の赴任先の旧制岩国中学に学んでいる。その縁だろうか。

 

 

初期作品がことごとく失われてしまった今、大隈講堂とともに貴重な作例といえる。

 


一般的にドイツ表現主義と紹介されるが、ウィーン分離派と同様に古典主義への反動として生まれたカテゴリーであり、佐藤の企てが果たしてそうだったのか、洋風建築を設計するうえで「ドイツ」という肩書が好都合だったからではないのかと幾分訝しんでいる。

 

 

小さな採光窓がいいアクセントになっているが、限りなく窓が省略されているのは資料の保護ではなく、灯火管制が敷かれたため。実利的な意味があった。

 

 

後背部もモダンな意匠。

 

 

佐藤の建築は(DNAを引き継いだ佐藤総合計画も含め)ある意味で地味。よく言えば堅実。だが初期の作は挑戦的。一見無機的なデザインのなかに見るこれらの工夫。建築家としてのせめてもの主張だったのかもしれない。

 

 

遠目には自然石のように見える外装は、鉱滓を利用したタイルを貼った煉瓦積みだとか。無装飾に纏めた外見だが、見どころ(或いは個性)は内部にある。

 

 

風除室は後から加えられたのだろう。

 

 

一見するとジャンカの多い粗悪なコンクリートのようだが。

 

 

これはどうやら最初から狙ったもの。

 

 

力強いバチ形の列柱は、建築というより堰堤などの土木構造物を髣髴とさせる。

 

 

左翼の事務室棟には階段が摺りつけてある。

 

 

パーシャルな曲線の採用がオシャレ。

 

 

展示室。直線と曲線の競演。

 

 

たしかに表現主義的。

 

「美しい!」サル

 

 

展示スペースを犠牲にせざるをえない構造特性を逆手にとった装飾に唸った。

 

「外と全然違うんだね」サル

 

 

基本的に平屋建てだが中二階もある。

 

 

ステップも戦時中とは思えない懲りよう。

 

 

吉川家と岩国藩に関する展示品だった。

 

企画展

 

 

青龍軒盛俊を中心に岩国ゆかりの刀工に関する資料が展示中だった。

 

 

 

 

刀剣以外も制作したらしい。

 

 

刀剣の撮影OKは珍しい。

 

「盗難に遭うしにゃ」サル

 

 

部位名称がなかなか覚えられない(笑)。興味はあるのだが。違いが難しくて。

 

 

直線が織りなす厳粛さと曲線美に眼を奪われ通しだった。

 

 

錦帯橋まで戻ってきた頃には空は再び高曇りに。なかなか青空と縁のない橋だった(笑)。このあとその日の宿所を目指して西進した。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

呉市立美術館

 

往訪日:2025年5月1日

所在地:広島県呉市幸町4-9

開館:10時~17時(火曜休館)

料金:一般700円 大学生500円

アクセス:JR呉線・呉駅から15分

駐車場:あり

■設計:不詳

■施工:不詳

■竣工:1982年

※作品撮影NG

 

《なんとなく浦辺っぽい?》

 

入船山記念館で旧日本海軍の歴史と建築を見学し終えたあと、併設された呉市立美術館を訪ねた。呉市政80周年記念事業として1982年に竣工。40年が経過しており、31年度の供用開始を目指した新美術館構想が進められている。

 

 

その意味でこの建築も間もなく見ることができなくなる。

 

「誰かの設計なのち?」サル

 

そう思って調べたけれど設計会社も建設会社も判らなかった。
 

 

悪くないけどね。ポストモダン以降バブル以前といった感じで。既に撤去された旧呉市庁舎坂倉準三の名作だったが。

 

 

1階は常設展示、2階が企画展示となっている。

 

 

亀甲型の煉瓦タイルが昭和50年代風。

 

 

ロビーには国立西洋美術館や箱根彫刻の森でもおなじみのブールデルの《弓を引くヘラクレス》が展示されている。

 

「見たことある、これ」サル

 

 

壁材はイタリア産大理石。

 

 

この宙に浮いた折り返しの階段がたまらない。

 

 

空間の使い方がダイナミック。

 

「しずか~」サル

 

 

高欄は割と簡素な疑英国風。

 

 

二階ロビー。

 

 

ここから車寄せの屋根越しに風景を見渡すことができる。

 

常設展


 

秀作揃いでつい見入ってしまった。山口生まれで京都絵専に学んだ小林和作(1888-1974)の《日本海》は、師匠の梅原や林武らの影響を色濃く残し、東尋坊の厳しい荒磯のさまを力強いタッチと色彩で捉えていた。

 

中村琢二《三保ヶ関》(1981)

 

チラシの表紙も飾る中村琢二(1897-1988)の幅162㌢の大作は、僕らの郷里の画家として、そして実兄・中村研一との比較(その通底と差異)において興味深く鑑賞した。広く湾をとらえた構図がいい。

 

奥田元宋《焼嶽》(1968)紙本・着色

 

奥田元宋(1912-2003)もまた広島ゆかりの画家だ。児玉希望に私淑しながら「やっぱり自信ない」と師匠のもとを飛び出して映画の脚本家に転職したのは有名な話。結局出戻っている。今でいうアルムナイ。もちろん児玉の憤慨はしばらく収まらなかった。

 

「でも充分すぎるくらい旨いよね」サル

 

才能あるひとはこの程度で満足しないのよ。

 

奥田元宋《霧雨》(1982)紙本・着色

 

とりわけ“元宋の赤”と賞讃された沈んだ色調ながら鮮やかな独特な赤で知られる。

 

初見の画家としては石川滋彦(1909-1994)の作品《初夏のアムステルダム、運河とハウスボート》(1984)が印象的だった。水彩画黎明期の画家・石川欽一郎の息子で、東京美術学校に学び、岡田三郎助に師事。志賀高原などの平明で穏やかな風景画を得意とした。

 

「風景画は判りやすくてよい」サル

 

ほかにも荻須高徳、野見山暁治、牛島憲之など贔屓の画家が。そのほか油彩《クレーンのある風景》(1931)をはじめとする長谷川利行の水彩他7点。呉出身で近代洋画に大きな足跡を残した南薫造が4点。

 

南薫造《大震災後の東京Ⅰ》(1923)

 

英国留学を経験してアカデミズムをスタートに激しく画風を変えていった。《六月の日》などになじんでいる僕の眼には新鮮だった。

 

企画展

 

 

この日は軍艦島を撮り続けた写真家・雜賀雄二(1951-)の作品展が開催されていた。

 

 

愛知県立芸大卒だが写真は独学らしい。高島炭鉱が稼働していた1974年に端島(軍艦島)を訪れて無人化するまで島の写真を撮り続けた。新即物主義の影響も感じさせる作りは物悲しさと神々しさを同時に備えている。特に長時間露光によって夜の波打ち際を撮影した《月の道》シリーズは、無人島とは思えない美しさを表していた。

 

「軍艦島はめちゃ船酔いした」サル

 

圓鍔勝三《未来》(1998)

 

ちなみに美術館前の道路は“美術館通り”として1981年に整備され、幾体もの彫刻が設置されている。とりわけ郷土ゆかりの圓鍔勝三(尾道市出身)や空充秋(広島市出身)などが眼を惹く。

 

空充秋《くれの木》(1984)

 

日本の道100選にも選ばれていた。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

入船山記念館

 

往訪日:2025年5月1日

所在地:広島県呉市幸町4-6

開館:9時~17時(火曜休館)

料金:一般250円 高校生150円 小中生100 円

アクセス:JR呉線・呉駅から15分

駐車場:あり

※撮影OK

 

《軍港呉のイメージそのままに》

 

旧呉鎮守府司令長官官舎を独立した一篇として取り上げたが、それ以外の施設も切り捨てるには惜しい。ということで無駄に長い日記の続篇である。(GWの記録としては既に破綻の域に近づいているが)

 

 

正門脇に移築されているのは東郷元帥が呉在任中(1890-1891)に暮らした家屋の離れだ。以前も書いたが東郷平八郎は海外でも人気の高い名将だ。

 

「たった二年か」サル

 

 

旧高烏砲台火薬庫は陸軍の施設。

 

 

屋根にトラス架構が構築されている点が珍しいそうだ。

 

 

登録有形文化財。

 

 

12㌢国産高角砲とアメリカ製パロット砲砲身。兵器のことはよく判らん。

 

 

加藤友三郎の銅像。第8代司令長官をつとめた。痩身でロウソクと揶揄された加藤だが、ワシントン海軍軍縮条約批准を成功させた平和主義者として賞讃された。1922年には内閣総理大臣に任命されるが、病魔に侵されて在任中に死去している。広島出身の偉人のひとりだ。

 

「わかんにゃい」サル

 

郷土館

 

 

郷土館(1979年開館)でチケットを買う。長官庁舎と歴代長官に関する資料がある。

 

 

二階一室なのでサッと鑑賞。

 

 

初代から続く司令長官。初期は圧倒的に薩摩派閥。

 

 

名将・米内光政大将の書。白雲去りて月輪高し。白雲が去ったあとに月が輪をなして煌煌と輝いている様を謳ったのだろう。

 

「どういう意味?」サル

 

「一点の曇りもなくなった。前途は明るい」てな意味では?達筆だね。

 

 

降伏を呼びかけるアメリカが撒いたビラ。

 

 

戦後は司令長官官舎をGHQが接収。せっかくのハーフティンバーも美意識ゼロの米軍によって白一色に。敗戦時に長官だった金沢正夫中将の心のうちは如何ばかりだっただろうか。それとも余計な腹の探りあいなどなく、素直に仲良くやっていたのだろうか。

 

歴史民俗資料館

 

 

1986年開館。資料館があるのに「なぜまたここに」と思ったが企画展用のスペースらしい。

 

 

なおここもワンフロアのみ。

 

 

ロビー正面からの呉市内の眺望。

 

 

この日はこういう企画が開催されていた。

 

 

戦艦「摂津」の進水式(明治44年)。日本の造船技術は世界最高水準だったからね。

 

 

終戦直後の空撮。入船山周辺のひと区画だけが奇蹟的に被害を免れている様子が判る。

 

「盛りだくさんだった」サル

 

これらの資料をみると、海軍の街「呉」の記憶をなんとかして形に残しておきたいという先人たちの思いが伝わってくる。もちろん戦争を良しとする意味はない。その光景は、その賑わいは、そしてその発展の軌跡は間違いなくあったし、それは彼らの先祖の絶え間ない努力の結晶だったからだ。いいものを見た。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

名建築シリーズ264

旧呉鎮守府司令長官官舎(入船山記念館)

 

往訪日:2025年5月1日

所在地:広島県呉市幸町4-6

開館:9時~17時(火曜休館)

料金:一般250円 高校生150円 小中生100 円

アクセス:JR呉線・呉駅から15分

駐車場:あり

■設計:櫻井小太郎/呉鎮守府建築科

■施工:不詳

■竣工:1905年

■国指定重要文化財(1998年)

※撮影OK

 

《初期洋風邸宅の名作》

 

2025年GWの旅7日目。この日は朝一番にホテルを出て呉市内に飛んだ。2024年の往訪の際に取りこぼした場所があったのだ。

 

「どーしていっぺんに行かないのち?」サル

 

そのときは気づいてなかった…。

 

 

それがここ。旧呉鎮守府司令長官官舎。現在は海軍関係の施設を集めた入船山記念館として整備されている。

 

 

ゲートを過ぎてまず目に入るのが旧呉海軍工廠塔時計(1921年)。海軍工廠造機部庁舎の残存施設だ。ちなみに石畳は呉の路面電車の敷石を移設したもの。国内では六番目に敷設されている。

 

 

番兵塔。庁舎の警備に使用された。

 

 

最後にみえてくるのが目当ての長官官舎だ。設計は櫻井小太郎(1870-1953)。コンドルの愛弟子として明治初期の洋風建築に足跡を残した重要な建築家のひとりだ。主要作品として旧丸の内ビルジング旧三菱銀行本店を筆頭とした一連の三菱関連のオフィス建築があげられるが、その殆どが解体されてしまった。そのうえ住宅建築の作例はいよいよ少なく貴重な財産といえる。ここは是非観たかったのだ。

 

 

ロンドン大学留学から帰国した櫻井は、曽禰達蔵の推薦で海軍技師として呉鎮守府経理部建築科長の職についている。三菱と関わりを持つのはその後の話で、建築家としてのスタートは海軍だった。

 

「立派な建物だの」サル

 

前面にはハーフティンバー様式の洋館を配置。雄勝の天然スレートの鱗屋根やアンシンメトリーなベイウィンドウなど多彩な意匠を採りいれている。
 

 

裏手には私邸にあたる和風建築が連続する。見学はこの裏玄関から。

 

 

鄙びた漁村だった呉に鎮守府が開庁したのは1889(明治22)年。一気に軍港都市として発展する。当館は芸予地震で倒壊した軍政会議所の廃材で建設されたいわば二代目。

 

(洋館部 平面図)

 

 

洋館の玄関内側。

 

 

摺りガラスも海軍をモチーフに。

 

 

このステンドグラスも建設当初のもの。

 

 

唯一残る家具。

 

「馬足型の脚がかわいい」サル

 

 

応接所。家具はジョージアン調の復刻。

 

 

客室。

 

 

食堂。

 

 

ローストビーフ。チキンシチュー。サーモンテリーヌ。1930年の軍艦「出雲」の艦上午餐会の献立を当時の文献をもとに再現。こんなに本格的な洋食があったとは驚き。

 

「腕利きのコックがいたんだね」サル

 

 

天井の模様。

 

 

壁紙には金唐紙を使用。GHQによる占領時代に漆喰で塗り固められてしまったが、平成の大修復で甦った。

 

(平成の大修復で制作された版木棒。回転させて柄を作る)

 

上野の岩崎邸日本郵船小樽支店など国内では数例しか残っていない。

 

「ただの壁紙じゃないんだにゃ」サル

 

 

このドアから和館部へ。

 

(和館部 平面図)

 

 

表の間(主人の仕事の間)。表8畳(奥)と表12畳半の座敷。全部で6つの間に茶の間と離れで構成されている。

 

 

畳廊下から続く奥南8畳(奥)と奥10畳の間。

 

 

奥の間(家族の間)はすべて襖仕切りの隣りあわせ。

 

 

奥10畳の座敷。

 

 

離れ座敷。鶯色の聚楽壁。三種類の色が使われている。

 

 

内玄関脇の使用人室。6畳間だが充分な広さ。

 

 

終戦を迎えるまでに32名の司令長官とその家族が暮らした。

 

 

1956年に返還されたのち1967年に入船山記念館はオープンした。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございました。

サルヒツのグルメ探訪♪【第270回】

鮨 稲穂

℡)082-545-5458


カテゴリ:寿司

往訪日:2025年4月30日

所在地:広島市中区胡町5ー7ウィンザービル2F

営業時間:(月曜定休)

(L)12時~14時(火曜なし)

(D)18時~23時

アクセス:広島電鉄・銀山町駅から徒歩3分

駐車場:なし

■14席(カウンター8席+個室)

■予算:(D)コース14,300円(税別)+酒

■予約:要

■カード:可

 

《この張りと艶をみよ》

 

広島市二日目の晩は待望の鮨だった。やはり瀬戸内といえば魚。魚といえば鮨だ。前年の憂さを一気に晴らすつもりでこの店を選んでもらった。もちろん予算管理はサル任せである。

 

「まかせとき!」サル 酔うまでは大丈夫

 

全然大丈夫じゃないな…。

 

 

場所は電車道にたつ三越の裏、流川通りに面したビルの二階。エレベーターのドアが開けばそこが店。いわゆる大人の隠れ家系。なので予約はさほど困難ではないが値段は相応に張る。客層は自営系か観光客。料理は一斉スタート制だ。

 

 

鮨10巻に先付、椀物、焼物などがつく14,300円のコースにした。(HPによると現在はその上の「極み」コース16,500円しか提供してないようにみえる)

 

「食べきれるかのー」サル ←最近ホントに小食なおサル

 

席に着くなり飲み物をきかれ、酒と答えた。すかさず好みを問返されたので「特約店系で」と判りやすく伝えた。「辛口で」とか「飲みやすいやつ」とか当たり障りのない表現だと「ここでしか飲めない酒でお薦めです」と言われて“地元で売るしかない”いわゆる地酒が出てくるのがオチだからだ。

 

 

しかしさすがは名代の店主・三原美穂氏。「うちはすべて特約店系ですよ」と自信にあふれた笑みを返す。続けて「今夜の料理にはこれが合います」と差し出したのが安芸椿 真吟50だった。

 

「それくださーい!」サル


そう云われては返す言葉もなかった。


 

うーむ。知らんな。後で調べたら量産系醸造メーカーが鑑評会向けに売り出した銘柄らしい。広島の酒にしてはベタ甘くない。むしろ辛口でウマイかも。

 

「普通にうまいよ」サル

 

ここで先付配膳。

 

 

先付 江田島産アイナメの炙り

 

こごみ、アスパラ、赤貝の砧巻を添える。地産のアスパラは潮風をうけるため甘味が強い。なので水に通す必要もない。アイナメは神経〆したものを二日間かけて熟成。旨味が強い。

 

 

揚物 コシアブラの天麩羅、千両茄子、生麩、鱧

 

どうでもいいが、隣りに陣取った(エステ系の自営三人組の)女性、とりわけヤニ嗄れしたけばい妖艶な女性の声が異様に大きく静かに一杯やる雰囲気にならない。そういうとおサルから「すぐ隣の客に気を取られるんだから」と叱られるので、なるべく知らん顔をしていたが。

 

「あらやだ。コスアブラっての?見たことなーい!」。

 

そんなの新潟の山にいけば幾らでも採れるわいと心のなかで毒づき、頼むこら静かにしてと祈るしかなかった。

 

 

そんな感じだから酒のなくなるスピードも自然早くなる。

 

「次はなんにしましょう」

 

次の料理にあうものを。

 

「ではこれで」

 

また安芸椿だった。精米歩合が違うらしい。ここから刺身をツマミで出してくれた。

 

 

 

酔いが回ってきたせいか、段々周囲の喧騒などどうでもよくなってきた。

 

 

黒鯛(上)、真鯛(下)


山口県境の桂島産。

 

 

平目

 

ひと晩熟成もの。

 

 

焼物 愛媛産地鰺の南蛮

 

薬味は新玉葱、パプリカ。

 

 

箸休めの山芋もずくを挟んでいよいよ握りだ。

 

 

広島産鱚

 

素材と拵えにこだわる江戸前ならぬ広島前。素材勝負の造里と鮨の対比を愉しむ。

 

 

ここで同じものをもう一杯。

 

 

島根の柚子烏賊

 

ねっとり

 

 

茎生姜を箸休めに。これがまた異様に旨い。ラッキョウと同じでガリも店ごとに味が違う。

 

 

三日寝かせた真鯛は醤油で。こだわりは広島産のシャリ。それを尾道造酢とゴトウの赤酢をブレンドしたもので握る。絶妙なほぐれ加減だ。

 

 

平目

 

醤油で洗ったものを軽くヅケにして。

 

 

大島の伊佐木

 

皮が香ばしい。

 

 

三杯目。寳剱 純米吟醸 超辛口湧水仕込を。やはり広島で魚を食べるならこれだ。

 

 

鰹の漬け 赤身特有の甘味が零れ落ちる。

 

 

ご当地鱒の広島サーモン

 

 

八函目。宮城県産鮪大トロの漬け。

 

「かなりおなかいっぱいかも」サル💦

 

 

魚のアラ、鰹節、昆布で出汁をとったなめこの味噌汁で一息つく。

 

 

富山産白エビ

 

「これは食べる!」サル ←無類のエビ好き

 

 

最後は雲丹の軍艦で〆。柑橘の香りがすばらしかった。

 

 

最後はデザート代わりのギョク。塩味はなく飽くまで卵本来の甘さを追求した玉だった。

 

「旨かった!」サル

 

 

鼠志野の湯呑であがりを戴くと少し落ち着いた。気がつけば隣の女性の気勢は収まらず、酒の勢いもますばかり。さすがは広島の女性。かつて「わしぶち可愛いじゃろ」と豪語していた広島支店の女性のことを思いだしていた。

 

(七日目につづく)

 

ご訪問ありがとうございます。

ごろごろまるまるネコづくし

 

往訪日:2025年4月30日

会場:ひろしま美術館

会期:2025年4月26日~2025年6月22日

開館:9時~17時(会期中無休)

常設:一般2000円 高大生1000円 小中生500円

アクセス:市内電車・紙屋町東駅から5分

駐車場:なし

※撮影NG(常設OK)

 

 

あちこちの美術館に巡回したので観たひとも多いのではないか。サブタイトルにあるように、浮世絵にみる猫の生態、猫と人間のかかわり、そして猫を擬人化して描いた江戸の世相。そんなものを一挙にみせる企画展だ。ただし全て個人蔵。なのでアップするのは遠慮する。

 

「サルはイヌ派」サル

 

猫は好きだ。むしろ比類なき愛猫家だと思っている。しかし、こうも大量に見せられると個々の作品をつぶさに鑑賞する気力がついてこず、すぐにお腹いっぱいになってしまった。

 

「じゃ常設だけでよかったんじゃ」サル

 

この美術館に常設チケットはないのよね。ということで常設室へ。

 

第1展示室 ロマン派あら印象派まで

 

一企業が蒐集したとは思えないクオリティ。近代西洋画の蒐集においては大原美術館にも負けない。

 

クールベ《雪の中の鹿のたたかい》(1868頃)

 

《世紀の起源》の存在を知ったのは中学生の頃。それ以来クールベの何たるかも究めず、ひたすら追いかけてきた。その度ごとに写実とはなにかを教えてもらった。

 

コロー《花の輪を持つ農婦》(1869頃)

 

この絵はよく知っている。コローといえば必ず美術の教科書で取り上げられるバルビゾン派の大家。初めて現物にふれて感動した。

 

「女性の顔が怖いね」サル

 

独特の写実性があるんだよね。ただリアルに写すというだけではなく。

 

ミレー《ヒツジの毛刈り》(1862)

 

「これから丸裸にされるんだの」サル

 

ルノワール《パリスの審判》(1012-14頃)

 

円熟期の作。もう利き手の自由が利かなかった頃。

 

 

古来多くの画家がとりあげたギリシャ神話の逸話。三人の女神を前にして、魅力的な賄賂工作をはかったアフロディーテに「一番美しい女神はあなたです!」と黄金のリンゴを差し出す審判パリス。これをきっかけにトロイア戦争が勃発するのだが、その割に緊迫感がない。

 

第2展示室 ポスト印象派と新印象主義

 

シニャック《パリ、ポン=ヌフ》(1931)

 

色彩分割の先駆者。

 

ロートレック《アリスティド・ブリュアン》(1893)グワッシュ、油彩・紙

 

ノーベル平和賞も受賞したフランス左派の政治家・ブリュアンを描いた作。ポスター画の試作だろう。

 

 

入念な塗り直しがある。

 

アンリ・ルソー《要塞の眺め》(1909)

 

こういう暗い画が好きだ。絵の嗜好は観る人の性格が反映される。

 

アンドレ・ボーシャン《人物》(1928)

 

こういう野放図に明るい画も好きだ。

 

ボナール《白いコルサージュの少女》(1930)

 

ボナールが描く女性はほぼその妻マルトが務めている。これもそうだろう。入浴シーンでないボナールは逆に新鮮。というより不思議。

 

「女性のヌードが一番美しいからでしょ」サル

 

美術史的な解説だとそうなるけど、ボナール家ではちと事情が違うんだ。

 

 

マルトというひとは異常なまでの潔癖症で、一日の殆どを入浴に費やしていたんだ。

 

「おぅ!同志!」サル

 

おサルは温泉じゃん。

 

第3展示室 フォービスムとピカソ

 

なかなか強引な括りだ(笑)。

 

デュフィ《エプソム、ダービーの行進》(1930)

 

マティス次世代のデュフィはそのテキスタイル的な洗練性を継承している。

 

 

ザックリ描いているようで、入念な描き直しがみられる。

 

ヴラマンク《木のある風景》(1950頃)

 

やはりヴラマンクは天才だ。佐伯が惚れたのも判る。

 

ヴラマンク《雪景色》(1920以降)

 

これなんか《立てる自画像》の頃の佐伯そのもの。

 

 

「逆でしょ?」サル

 

ルオー《ピエロ》(1937-38)

 

いまだルオーの絵が判らない。同じ構図と色彩で道化師やキリストばかりを描いてなにが生まれるのか。加藤周一によれば「ルオーは自己を追求したのではない。世界を巻き込んだ悲しみを、自らの存在を超えた眼で描いたのだろう」と書いている。

 

 

そして、その黒い線と原色と見紛う鮮烈な色彩はルオーだけが見た世界である、という意味のことも。

 

ピカソ《酒場の二人の女》(1902)

 

個人的には青の時代の頃が一番いい。

 

ピカソ《女の半身像(フェルナンド)》(1909)

 

この頃もいい。

 

ピカソ《仔羊を連れたポール、画家の息子、二歳》(1923)

 

キュビスムに傾倒しすぎて、そして描きすぎてピカソはダメになった。むしろ後年の遅くできた息子の絵に画家本来の画力が素直にでていて好感が持てた。

 

「いつも否定から入ってない?」サル

 

そういう性分なのよね。

 

レジェ《踊り(第1作)》(1929)

 

レジェもまた(ボテロと同じ意味において)苦手な画家だったがこの絵はいい。

 

 

少し好きになった。

 

ブラック《果物入れと果物》(1935)

 

第4展示室 エコール・ド・パリ

 

象徴表現主義流行以前の近代絵画で一番好きな画家があつまっているのはこの領域かもしれない。

 

モディリアーニ《頭部像》(1911-12)

 

巨大な漬けもの石かと思った。

 

ユトリロ《モンモランシーの通り》(1912年頃)

 

アマノジャクな性格なので大衆的な人気画家はあまり見てきていない(ピカソの時とは逆なことをいうようだが)。ユトリロもそのひとり。

 

 

でもこの絵はいい。丁寧な手の加え方に心惹かれた。

 

キース・ヴァン・ドンゲン《トゥーツの像》(1957)

 

もう少し絵画熱の再発が早ければ汐留の回顧展を観にいけたことだろう。ひとつのことに熱中するとそればかりになる癖はいまだ治らない。治るどころか加速すらしている。ドンゲンの描く女性はほかのパリ派の画家同様大きく誇張され、どこか退廃と艶冶な空気を帯びている。

 

 

とりわけ現実ばなれした大きな双の眼と赤い唇。他のフォービニストと違ってデッサンを捨てきっていないところが惹かれる要因かもしれない。

 

パスキン《緑衣の女》(1927)

 

パスキンについては国吉康雄との関連でいくつか書いてきた。35歳。自殺する3年前の作。若描きのパスキンは自分を壊そうとして、無理な破壊と再構築を繰り返している歪さが出過ぎであまり好きではなかった。20年代の一連の作に至って詩情と余裕を取り戻した気がする。

 

 

だが、私生活は破綻のさなかにあった。パスキンは何のために描いていたのだろう。手に入らない女の理想の姿(「姿」とはリアリティとしてのそればかりを云うのではない)を手慰みとして描いたのだろうか。間近で見る絵筆の運びは本当に美しかった。

 

シャイム・スーチン《椅子に寄る女性》(19191頃)

 

もしバーンズがスーチンを掘り出さなかったら、歴史に埋もれていただろう。殴り描きのようなタッチ、歪んだデッサン、陰影や抑揚の放擲。この画家の豊かさと複雑さを認めるには幾千という画家と作品に触れなければならない。そんな気がする。

 

モディリアーニ《青いブラウスの婦人像》(1910年頃)

 

モディリアーニの場合は親友フジタと対比してしまう。裕福な家庭に生まれ、愛に貪婪で肉体の錬磨も絶やさず、モードを追求し、最後は母国を棄て、信仰に生き81歳の生涯を全うしたフジタ。対するアメディオは極貧に甘んじ、精悍ながら薬物とアルコールに溺れ、ひとりの女性ジャンヌ・エピュテルヌを愛し愛されつつ、結核に犯されて35歳で死んだ。どちらの絵も好きだが、死ぬまで素敵な絵を描いたのはアメディオではないだろうか。

 

キスリング《ルーマニアの女》(1929)

 

キスリングへの飽くなき情熱をといた読書家がいた。そのひとの文章を読むのが好きで、多くの現代海外文学の書き手の存在とキスリングの魅力を教えてもらった。

 

 

キスリングが描く少女像に惹かれる理由は様々だが、やや焦点を失ったようなアーモンド型の瞳にある。そしてどこか挑発的で、投げやりでもある。

 

レオナール・フジタ《三王礼拝》《十字架降下》《受胎告知》(1927)

 

決してフジタを軽んじている訳ではない。むしろ逆。

 

 

やはり初期のレオナールはいい。

 

レオナール・フジタ《裸婦と猫》(1923)

 

この絵は2018年の藤田嗣治展以来7年ぶりの鑑賞。裸婦と猫はよく似合う。

 

「ネコがいいアクセントだの」サル

 

ちょっと警戒してる感じがね。

 

エドゥアール・ヴュイヤール《アトリエの裸婦立像》(1909)デトランプ・紙

 

ナビ派のひとりヴュイヤールの裸婦。フォーヴィスムの嵐が去ったあと、色彩と形と構成を静かに取り戻した一連の画家の中にあって、取り分け平面的で装飾的な画家と教科書的には説明されている。

 

 

だが、豊かな奥行きと、ひとつの色調に統一されたこの室内画を、いわゆる「ナビ派」の一語で括りたくない。そんな魅力を湛えた作品だ。

 

シャガール《インスピレーション》(1925-26)

 

シャガールもなんか苦手。この場合は生理的な問題。旨い下手とかそういう問題ではない。

 

 

でもいつもの「よのなか皆平和」みたいなシャガールじゃなくていいよね。これ。

 

最後に

 

観光気分であれば常設30分+企画30分程度の展示数だが、本格的に絵画の勉強をしている人ながらば常設だけで1時間は欲しい。静かないい美術館だった。

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。