名建築を歩く「東山手甲十三番館・東山手十二番館」(長崎市) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうとおサル妻の山旅日記

ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

名建築シリーズ90

東山手甲十三番館

℡)095-822-1076

 

往訪日:2024年4月29日

所在地:長崎市寺町4‐32

開館:7時~20時(無休)

料金:無料

アクセス:長崎道・長崎ICから約5分

駐車場:なし

※撮影OK

 

《高温多湿の日本でよく生き残ったと思う》

 

★ ★ ★

 

興福寺を後にして、寺町を貫く道をホテルまで戻っていった。途中、立派な入母屋造りの料亭があった。軒先を見上げると「一力」の看板。その日観た画家・山本森之助の実家だった。これも何かの縁。こうした偶然の出逢いがあるから街歩きはやめられない。

 

間もなくホテルニュータンダが見えてきた。実はここ、長崎観光では五本の指に入るオランダ坂のたもと。行かなくてどうするとばかりに、空模様が芳しくないのに誘われるように坂を登る。

 

「観光しないって言ったくせに」サル

 

涼しい部屋でワインを飲むつもりだったらしい。

 

 

不思議と観光客がまばら。皆グラバー園と大浦天主堂のあとはどこに行っているの?

 

「稲佐山じゃね?」サル あと中華街で食べ歩き

 

観光地を虱潰しに歩くのは昭和ジジイの証し。

 

 

坂の途中に洋館発見。東山手甲十三番館だ。現在一階がカフェになっている。

 

 

英国人S・F・ローレンスによって1894(明治27)年頃に完成。最初の入居者に香港上海銀行長崎支店の初代支店長A・B・アンダーソンを迎える。その後、リンガー商会の従業員が暮らした記録もある。つまり、あたり一帯の洋館群はこうした貿易商や従業員の仮寓として建設されたらしい。

 

 

2階を覗いてみよう。

 

 

賃貸物件なので、割りに簡素な造りだということが判る。

 

 

天井と窓が高い。

 

 

どの部屋にも暖炉がある。長崎の冬は英国人にはどのように感じられたのだろう。

 

 

壁はドイツ下見板張り。修復の過程で元の色が判明。くすんだ水色に戻された。また古い写真を元にベランダを復旧している。

 

 

活水女子大が気になるので、もう少し坂を登ってみた。すると部外者立ち入り禁止の看板。ま、そうだろうとは思っていたが。その脇にもうひとつ洋館が立っていた。長崎市居留地私学歴史資料館の看板がでている。無料でミッションスクールの歴史が見学できるらしい。

 

★ ★ ★

 

東山手十ニ番館(長崎市居留地私学歴史資料館)

所在地:長崎市寺町4‐32

開館:9時~17時(年末年始のみ)

料金:無料

アクセス:長崎道・長崎ICから約5分

駐車場:なし

■国指定重要文化財(1998年)

※撮影OK

 

 

こちらは全然趣きが違う。支柱と庇の間に持ち送り(コーベル)がついた建築は長崎では珍しいそうだ。

 

1858(安政5)年の通商条約締結ののち、東山手の斜面は外国人用に造成して土地が貸し出された。当館の建築主は米国人貿易商のジョン・グリア・ウォルシュ

 

 

ウォルシュ商会の社員がロシア領事代行を務めた関係でロシア領事館として使用された。

 

 

その後、居住者の変転を繰り返し、活水女学校の宣教師住宅を経て、昭和16年には活水女学院の所有となった。

 

 

「ジオラマがあるにゃ」サル

 

 

ラッセル館の模型だった。

 

 

メソジスト監督派の宣教師エリザベス・ラッセルが1879(明治12)年に開校した活水女学校が起源。ながらく「活水」の意味が疑問だったのだが『ヨハネによる福音書』の「活ける水によってサマリヤの女に天来の福音を説いた」一節に因むとか。ということで長崎の洋館はほぼ制覇。もうしばらくはいいかも。

 

 

「つきあいきれん」サル

 

おサルは去っていった。

 

(旅はつづく)

 

ご訪問ありがとうございます。