名建築シリーズ75
根岸競馬場 一等馬見場
往訪日:2024年3月31日
所在地:神奈川県横浜市中区根岸台
開館:遠巻きに見るだけ
料金:無料
アクセス:横浜市営バス・山元町4丁目バス停から約5分
■設計:ジェイ・ヒル・モーガン
■施工:大倉土木(現大成建設)
■竣工:1929年
※近代化歴史遺産(2009年)
※個人的な撮影はOK
《廃墟感がたまらない》
ひつぞうです。おサルがジョギングを始めてそろそろ一年が経とうとしています。ラインで送ってくる街中で出逢った風景や小動物の写真に見たことのない建築が紛れていました。それが旧根岸競馬場の第一馬見台でした。戦後GHQに接収された後、横浜市が買い戻したもののいまだ立ち入り禁止。今ではふたりの定番ジョグコースになりました。以下、往訪記です。
★ ★ ★
既に幾度も来ているが、人の少ない週末の朝を狙って取材した。
伊勢佐木町の街中から打越の坂道を辛坊して駆け上り山手本通りに入る。昔ながらの商店街を抜けていくと、山元小学校の向こうに、連なる鐘楼のような建物が見えてくる。それが旧根岸競馬場第一馬見台だった。この日も北側入口から根岸森林公園に入った。
突き当りは旧米軍住宅(撮影不可)。移転したので今は廃墟になっている。その右隣りに円形の芝生広場が接している。富士山と丹沢の眺望が特に美しい。
長らく撮影不可と思って取材しなかったのだが、よく読んでみると「個人で愉しむための撮影は自由」と(小さく)書いてあった。大人数や長時間の撮影がいかんと云うことらしい。
「どーいう集団よ」 おるか?そんなひと?
んー。大学の建築科のゼミとか?
日米和親条約締結後、多くの西洋人が横浜に暮らすようになると、彼ら上流階級の嗜みである競馬の開催を求める声が浮上。1866(慶応2)年に根岸競馬場は誕生する。政府の欧化政策と旨く結びつき内外の要人の社交場として繁栄した。しかし、関東大震災で木造三階建てのメインスタンドが半壊。鉄筋コンクリートの新しいスタンドの建設が急がれ、設計者として選ばれたのがモーガン(1873-1937)だった。
アメリカ最大の建設会社フラー社の主任建築士だったモーガンは、大規模オフィスビルの名作、旧丸之内ビルヂングの設計に携わるために1920年に来日。竣工後の1922年に東京に設計事務所を設立したところだった。
側面を見ると、御座なりなバリケードが施されているだけで、老朽化が加速しているように見える。まだ季節は春先で建物に絡まる蔦の葉が落ちて構造そのものを観察するには好いタイミングだった。
「緑色に覆われているときも素敵よ」
ちょうど第一馬見台の裏を見ている形になる。観覧席側は(使われなくなったとは云え)米軍施設が丸見え。だからいかんという訳だ。もともと日本が建設したものだし、日本中央競馬会としても早く取り戻したい。しかし、全て返還されたのは1973年。もはや住宅地に囲まれて競馬場再開は不可能だった。
「他にも立派な競馬場あるし」 府中とか
1977年、結局、森林公園として整備されることになった。敷地内の根岸競馬記念公苑と馬の博物館(現在建替工事中につき休館)がかつての競馬場を偲ぶよすがとなっている。
裏側を観てみる。オフィスビル、個人邸宅、学校建築など幅広く手がけたモーガンは(外国人居留地があるせいか)神奈川県に多くの足跡を残している。当然現存しないものも多く、貴重な建築といえる。ただ現在も将来の用途が判然としないまま。時間だけが徒に過ぎている。
「手を拱いている訳じゃないんだろうけど」
お。おサル、おとな。
耐震補強しないと一般見学者を受け入れることは無理かと。無駄だと議会で紛糾したら終りかも…。難しい時代になったね。
一等馬見所に続いて二等馬見所も増築。残念ながら後者はパドックともども取り壊されている。
裏は憩いの広場になっていた。犬の散歩に朝の体操、ジョギングなど、沢山の市民が利用している。
完成直後の第一馬見所の観覧席側。一度観てみたい。
側面図。
写真との比較。中央最上階は貴賓席。
貴賓席は和洋折衷式。格天井に鳳凰の絵が描かれていたそうな。
二等馬見台の様子。天井のガラス張りの庇がグンと伸びている。観客席を広く取る工夫らしい。もちろん一等と二等では料金も違った。このスタンドのスタイルが、その後全国の競馬場に採用されていく。謂わば競馬場の雛型。
ということで建築散歩は終わり。森林公園に行ってみる。
かつての馬場。起伏に富んでいてどうしても競馬場のイメージじゃないんだよね。
「ゴルフ場みたい」
実際に進駐軍がゴルフ場として利用していたそうだ。
梅の季節になると梅園に多種多様な花が咲く。
朝夕はわんこの挨拶会場(笑)。馬ではなくて犬が走りまわっていた。
「サルも走り回ってゆ」
(おわり)
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