特別展「没後50年 福田平八郎」(大阪中之島美術館) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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没後50年 福田平八郎

℡)06-4301‐7285

 

往訪日:2024年3月20日

会場:大阪中之島美術館

所在地:大阪市北区中之島4‐3‐1

会期:2024年3月9日~2024年5月6日

開館:10時~18時(月曜休館)

料金:一般1800円 大高生1000円

アクセス:四つ橋線・肥後橋駅より約10分

駐車場:あり(有料)

※前期・後期展示替えあり

※一部内部撮影OK

 

 

ひつぞうです。今年歿後50周年を迎えた日本画家・福田平八郎の回顧展を鑑賞しました。観そびれてはならじと今回は会期始めの往訪です。

 

★ ★ ★

 

福田の代表作《漣》を最初に観たのは去年の2023年春に東京・竹橋で開催された重要文化財の秘密だった。名前は朧気に記憶していたが、具体的な功績は理解していなかった。ところが実際にその《漣》を眼にして、従来の日本画とは一線を画した表現に「これはただものではない」と感動。旨い具合に今年大回顧展が開催される。全国巡回だがどうせなら《漣》を所有する大阪中之島美術館で観てみたい。そんな想いから今回のアートの旅は始まった。

 

当日開館40分前に到着。建物の外まで長蛇の列ができていた。しかし、これは同時開催された《モネ連作の風景》のほう。あっさり福田の列の先頭に立つ。今更モネか。「そんな虫干し展示は止して関西ゆかりの大画家にでも触れれば」などと調子をこきつつ、時間になって巨大エスカレーターで4階まで運ばれた。

 

 

4階についた。颯爽と「おとな一枚!」と云う。

 

「あの…チケットはお持ちですか?」

 

え。当日券もこの列に並んで結構とスタッフに言われましたけど。

 

傲然と言い放つ僕に対して、バツの悪そうなそぶりも見せず「ニ階に当日券販売機があるのでそこで購入してきてください」というではないか。もめても仕方ない。またあの大エスカレーターを逆戻りする。すると当日券はモネと同じ券売機。長蛇の列だった…。やはり初めての美術館は予習しなければね。こんな目にあう。

 

「ヒツジっぽい」サル

 

せっかく一番乗りのはずが無駄に時間を費やして気を取り直してのスタート。まずはおサルのおさらいコーナーから。

 

「よろしゅう」サル

 

 

福田平八郎(1892-1974)。大分市出身の日本画家。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。徹底した写実的作風からスタートするが、満足できずに様々な技法にチャレンジ。その到達点が重要文化財《漣》であり《筍》である。生涯京都に暮らし、戦後はその折折の風物を端正に描いた作品で人気を博した。享年83歳。

 

★ ★ ★

 

多くの作品は郷里の大分県立美術館に所蔵されている。関西では17年ぶり、大阪では初の回顧展になる。いい機会に恵まれた。

 

 

=第1章 手探りの時代=

 

大分市内の文具店に生まれた福田は県立大分中学(現上野ヶ丘高校)に入学。今でも名門進学校である。だが、どうにも数学が苦手で落第。そのまま好きな絵の世界に移った。その選択は正しかったのだろう。転入した京都市立絵画専門学校では一年で銀牌、二年から四年まで連続して金牌を受賞。《雨後》は買い上げとなり、京都市立芸大の所蔵となっている。
 

《野薔薇》(1913)大分県立美術館


この《野薔薇》も在学中の制作。観察の行き届いた精緻な作品。構図もいい。そして色遣い。天然自然の色彩ではないのに、たしかに野バラといえばこんな印象だ。中空を舞う花蜂が締まりを与えている。(ちなみに同級生・高久仙外の父が購入したそうだ)

 

ところがである。

 

これだけの完成度を誇りつつも、福田の悩める時代が始まる。

 

《春の風》(1916)大分県立美術館 紙本着色

 

大観麦僊のような様式化された大原女を描いたり…

 

《池辺の家鴨》(1916)大分県立美術館 紙本着色

 

「可愛くね?」サル

 

琳派アールヌーボーを交えたり…はたまた南画に範をとったりと目まぐるしく画風を変えた。

 

《緬羊》(1918)大分県立美術館 絹本着色(部分)

 

四曲一双の大作。旅先の島原でのスケッチが元になっている。強烈な写実性と動と静を左右の二曲に表した意欲作だったが文展落選。日本画らしくなさが保守派に理解されなかったのだろう。

 

「表現方法がぜんぶ違うね」サル

 

もともと器用だからね。それが災いして自分の画風が確立できず卒業制作に苦労したらしい。当時の指導者、中井宗太郎から「土田麦僊の如く主観的に進むか榊原紫峰のように客観的に進むか」よく考えるといいとアドバイスを受けたのもこの頃だ。その結果、写実を重んじた客観描写に自己の画風に据えようと決心する。

 

 

=第2章 写実の探究=

 

《安石榴》(1920)大分県立美術館

 

卒業二年後の作品。紫峰ら国画会の影響を感じる。言うなれば“洗練された悪趣味”。もっとも個人的には好きな画風だけどね。

 

拡大してみよう。

 

 

果実の輪郭線や外皮のリアルな着色。かたや単調で様式化された青葉。まるで洋画のような厚塗りだ。

 

 

ムクゲが陰鬱。

 

 

「猫も怖い」サル

 

葉鶏頭もちょっと。

 

そのスランプを打ち破ったのが第3回帝展で特選受賞する《鯉》(1921年)だ。のちに宮内庁買い上げになるこの作品は宗元時代の院体画風に舞游ぐ鯉の群れを精緻に描いている。当時南禅寺の近傍に寄宿していた福田は、五右衛門風呂の中の自分の足の形と影をヒントに鯉と影の表現に成功。画家として生きていく自信を得て妻ていと結婚した。“鯉を描いて恋を得た”と周囲からひやかされたそうだ。このあと鯉は福田の定番モチーフになっていく。

 

《朝顔》(1926)大分県立美術館

 

第7回帝展出品作。写実の極み。同じ国画会の麦僊《朝顔図》とは随分違う。

 

(参考資料)

土田麦僊《朝顔図》

 

若い頃の福田に対して向けられた批判は「細かすぎる」「一本調子」。先の《緬羊》などまさにその典型だった。

 

(同上部分)

 

よく観察すると雌しべに胡粉が盛られているんだよ。几帳面な福田の気質を物語っている。

 

散々寄り道し自己のスタイルを模索していったのかもしれない。福田はこう述べている。“画塾というものがなんとなく私の気分に添わぬ感じがしたので遂に入らなかった。今日からみてこれが為に大変遠い道を歩んで来たようにも見えるが、一面それ故に私は私なりの好きな道を歩んできたようにも思われる。

 

「師匠と弟子って大変そうだし」サル

 

特定の師につく従来の在り方ではなく、言ってみれば同好会のように横の繋がりで切磋琢磨する。そんな関係を求めていたようだ。

 

 

=第3章 鮮やかな転換=

 

1930(昭和5)年。ジャンルの垣根を超えた六潮会に参加。日本画の山口蓬春(帝展)、中村岳陵(院展)、洋画の木村荘八(春陽会)、中川紀元(二科会)、牧野虎雄(帝展)、評論家の外狩素心庵、横川毅一郎がいた。年齢は皆30代後半。更なる飛躍が期待される斯界の星。特筆すべきは所属団体が違うこと。団体間の衝突も激しかった時代だけにその意義は大きい。洋画家から受けた刺激によって大胆な色遣いや簡略化が生まれたのだろう。

 

その時代の到達点がこれだ。

 

《漣》(1932)大阪中之島美術館 絹本白金地着色

 

第13回帝展出品作品。二度目の鑑賞。この年、生活の1/3を占めるほどの生涯の趣味となる釣りを始めた。恩師・中井宗太郎の手解きだった。その日も琵琶湖の北岸で釣り糸を垂れていたがまったくアタリがない。何気なく眼をやったさざ波に突然ヒントを得た。“これを絵のモチーフにできないか。”

 

早速画材を注文。福田は逆光の湖面を銀の鈍色で表現しようとした。しかし表具屋の手違いで届いたのは金屏風。帝展出展まで時間もない。一か八かで表面にプラチナ箔を貼ったところむしろ面白い効果を得ることができた。

 

(同上部分)

 

銀地に群青。浮世絵に先祖返りしたようなデザイン。カットもいい。しかし、思惑に反して世間は賛否両論。日本画の伝統に反しているというのだ。

 

「なんでも最初は叩かれるだよ」サル

 

継続が命だね。

 

《水》(1958)大分県立美術館

 

しかし、福田は兵児たれず同じ水をテーマに追求。その30年にわたる研究成果がこれだった。

 

《カーネーション、百合》(1942)大分県立美術館 鉛筆・着色、紙

 

とにかく膨大な素描を残した。

 

 

=第4章 新たな造形表現への挑戦=

 

《新雪》(1948)大分県立美術館

 

本阿弥光悦ゆかりの光悦寺に続く石畳と新雪を描いたもの。下塗りに明るい紫を30回。その上から胡粉を刷毛で加えてこの“白”を表現している。石と土で被る雪の色の違いを出すのに苦労したと語っている。

 

《氷》(1955)個人蔵 紙本着色

 

これも水研究の延長上にある作品だろう。

 

《桃》(1956)大分県立美術館 紙本着色

 

色彩と形をつきつめる一方、旧来の写実画も並行して制作した。

 

 

=第5章 自由で豊かな美の世界へ=

 

戦後はフォービスムなど西洋絵画の技法も間接的に取り入れつつ、独自の表現に昇華していった。

 

《海魚》(1963)大分県立美術館 紙本着色

 

水族館でスケッチしたのだろう。ウツボと蛸はよく特徴を捉えている。

 

《游鮎》(1965)大分県立美術館 紙本着色

 

釣り好きな福田。鮎は好きなモチーフだったらしい。

 

「渓流の女王だしにゃ」サル そろそろ旬だにゃ

 

以下戦後まもなく描かれた素描三連作。

 

《紅白餅》(1949)大分県立美術館 鉛筆・著色、紙

 

九州北部の伝統行事、餅踏みを一瞬想像した。名作《青柿》を描いた1938年、福田は体調を崩して実家の大分に帰省している。その際に偶然スケッチしていたとしたら。戦後4年目。いまだ物資が窮乏している時代だが。

 

《うす氷》(1949)大分県立美術館 鉛筆・墨・着色、紙

 

富山銘菓うす氷。謹製品なので貰い物だったのだろう。

 

《栗・松茸》(昭和20‐30年代)大分県立美術館 鉛筆・着色、紙

 

これも同じ。祝いめでたい感じが出ている。頂き物に雅趣を感じて絵に認める。家人には待たせて。大山忠作もそうだった。

 

《雲》(1950)大分県立美術館 絹本着色

 

所蔵館以外では初公開。戦後五年。暗い時代を経て福田の眼には“あの日”以上に青い空と猛り立つ入道雲が眩しく映ったに違いない。青と白の単純な構成ながら、異形の雲が画家と鑑賞者の心を繋ぐ。

 

拡大してみよう。

 

 

絹の折り目に薄く幾層も顔料を塗り重ねたあとが見て取れる。単純にオフホワイトだけが使われている訳ではないことも。代表作のひとつ《雨》(東京国立博物館蔵)は後期展示だった。その意味では慌てる必要はなかったか。

 

《竹》(1942)京都国立近代美術館 絹本着色

 

 

 

まあいい。実は同じ後期展示の《竹》を所有する京都国立近代美術館の常設コーナーで後日偶然にも観ることができたのだ。個人企画は混雑しても常設だとガラガラ。美術館アルアル。だから常設コーナーが好き。

 

 

終生自ら“スケッチ狂”を自認した福田。1961(昭和36)年の新日展を最後にデパートや画廊での小さな展覧会に発表を減らしていった。

 

後年こう述べている。

 

“この頃ではもう装飾的にしても写実になってもかまわんと思っている。問題は内容だ。ただ単なる装飾に流れるきらいもあることに気づいているので、もっと内部に喰いついていきたい。”

 

なかなか見応えがあった。もうへとへと。

 

「細かく取材しすぎだにゃ」サル ひつじっぽい

 

ちょっと感動してしまいまして…。

 

(おわり)

 

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