丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
℡)086-422-0005
往訪日:2024年2月24日
所在地:香川県丸亀市浜町80‐1
開館:10時~18時(月曜休館)
常設料金:一般300円 大学生200円
アクセス:JR丸亀駅の隣り
駐車場:有(丸亀駅前地下駐車場)2時間無料
《なんかよく判らないにゃー》
【建築篇】の続き。猪熊弦一郎の常設展示の鑑賞記です。
★ ★ ★
恒例のおサルのおさらいコーナーから。
(文子夫人とともに 撮影:木下晃氏)
猪熊弦一郎(1902-1993)。丸亀市出身の洋画家。東京美術学校で藤島武二の指導をうける。1936年、小磯良平、脇田和、中西利雄、佐藤敬らとともに新制作派協会を結成。間を置かずして渡仏。マティスに師事。戦後は日本からニューヨークに拠点を変え、作風も具象と抽象の間で激しく変遷した。
「そんなに変わったんだ」
大原美術館で観た満谷国四郎しかり児島虎次郎しかり。特に芸術思潮の変転が激しかった20世紀の芸術家は過去の自分を壊して常に新しいものを生み出すことに腐心したからね。観れば判るよ。
=修業時代から=
《題不明》(1916)
14歳。旧制丸亀中学時代の作品。町内では知らない人がいないほど絵が旨かった。子供の頃の夢は画家か発明家だったそうだ。発明家か…まず選択肢に出てこんな。
《自画像》(1925)
1922年、東京美術学校入学。同期は牛島憲之、荻須高徳、小磯良平、中西利雄、山口長男、そして岡田謙三。日本の洋画壇を牽引する逸材が、これだけ同一学年に揃ったのも稀なことだった。事実、新入生を前に学長の黒田清輝は「この中で芸術家になれるのは一人いるかどうか」と云ったらしい。
「感じ悪くね?」 入学早々
しかし、担当教授の藤島武二も「デッサンがない」と言った。この一言が猪熊をデッサンへの激しい執着へ導いたのだろう。それは弟子の古茂田守介にも受け継がれている。
後に猪熊は述べている。
“デッサンとはものの本質を描くものであり、本当にそのものを理解したかどうかである”
《婦人像》(1926)
自画像を描いた翌年に結婚。この文子夫人がモデルの作品で帝展初入選。ひとつ関門をクリアした。だが、本当の躍進はここからだ。
《海と女》(1935)
この10年間に大きく画風が変化している。人体を正確に再現した20年代と打って変わり、肉体の本質を追求した結果、輪郭線が明瞭になり、陰影や色彩のコントラスト、構図ともに力を増した。1936年の帝展改組問題で権威主義に嫌気がさした若手画家たちは制作派協会を結成。猪熊もそこで新たな技法を開拓した。
《二人》(1936)
人物の遠近法上の処理。外斜視風の心ここに在らず的な表情。マティスの《豪奢Ⅰ》を感じた。
=パリ留学時代=
その心の師匠に逢うために1938年に猪熊は渡仏を果たす。ところがである。猪熊の絵を観たマティスに「お前の絵は巧すぎる!」と酷評されてしまう。
「なんで?マティスの絵に似てんじゃんね」
《三人娘と自転車》(1938)
マティスそのものになっては駄目なんだ。巧い=マティスに酷似=オリジナリティの欠如。これでは画家とは言えない。当のマティスが自己を超越することに腐心し続けた訳だし。そう言われても仕方ない。
「佐伯祐三も同じこと言われてたよにゃ」
ヴラマンクにね。
《K君の像》(1939)
マティスそのもの。
《マドモアゼルM》(1940)
どこか不思議な絵。突然のように初期印象派に戻ったようなリアリズム風の画だ。モデルはハンガリー人のマドレーヌ夫人。戦争の暗い影を人物に仮託したのか。これがパリ最後の作品となり、戦争が始まると猪熊も従軍画家として中国戦線に送り込まれることになる。
=戦 後=
(出典:美術館チラシ)
最初の纏まった仕事は小説新潮の表紙画。1987年まで40年間続くことになる)。
そして油彩も。
《青い服》(1949)
猪熊といえば猫。藤田の猫もいいけど、猪熊の猫は緊張感がなくて好き。
そして、こんな仕事も。
《三越包装紙「華ひらく」型紙》(1950)
三越の包装紙の原画も猪熊の仕事。これなら判るかな。
「うんうん!」 わかゆ
《鳥と遊ぶ子供たち》(1954)
猪熊と聞いて一番脳裡に浮かぶタッチ。ややキュビスム風。
擦れた筆跡や人体や鳥も構成もいい。実に伸びやか。
という感じで好き勝手に鑑賞。
《対話彫刻》
猪熊に「画家のおもちゃ箱」という短文があり、飽くまでマニアックな収集癖のための蒐集ではなく、アーティストの仕事に滋養分を与えるものを手許に置きたいのだと述べている。その殆どはパリやアメリカでの異国での暮らしのなかで見つけたもの。
他人には唯のガラクタ。なぜインスピレーションになるのか。それは本人しか判らない。
過ぎ去った時代のとある道具屋とそれを包む街の光景。画家が初めて手にした時の手触りと昂奮。店の主との幾つかの遣り取り。そして画家のものになった宝物が語りかけてくる詩数篇。観る立場の僕らはそんなものを、少ない手掛かりをもとに探るしかない。
猫好きに留まらず、こんな小さきものを愛おしむ心根もまた、盟友レオナール・フジタとよく似ている。従軍画家という“汚名”を不本意ながら着せられたことも。
フジタほどではないにしても、日本ではないどこか、パリやニューヨークに新たな活動の拠点を求めたのも単なる偶然ではないだろう。
=具象から抽象へ=
《黄色の反響》(1960)
1955(昭和30)年。パリ行きの途中で降り立ったニューヨークを気に入り、新たな活動の拠点に変更する。そして、それまでの画業を捨て去るように一気に抽象表現に向かった。当時のアメリカと云えばアンフォルメル全盛期。
《Confusion and Order“A”》(1964)
20年間に及んだ渡米生活だったが、10年目あたりから短い線の集合でカオスを表現するようになる。
拡大すると判るね。白の直線に黒の単線をゼブラ状に被せている。
「少しだけガラが戻ってきたにゃ」
ガラね。確かに。
《Water Shores B》(1970)
70年代頃にはマスキングテープを用いた都市空間の表現に。
《Landscape GT》(1972)
「車とか列車とか?」
遠くから観た都市の景色でしょ。
速乾性のアクリル絵の具を使用。乾きが早いし水溶性だから水彩画やポスターデザインのような軽いタッチの表現が可能。猪熊の好みに合ったのかもね。
《自由の住む都市》(1980)
1975年脳血栓を発病。帰国を余儀なくされたが、20年間のニューヨーク滞在中に無名時代のジャスパー・ジョーンズやラウシェンバーグとも交際。多大な影響を与えている。
「50歳すぎて海外生活ってのがすごい」
《宇宙は機械の運動場No.2》(1981)
意慾はまだまだ衰えることを知らない。スペースシャトル計画が加速した頃の空気を捉えている。
「なんでも宇宙だったもんにゃ」
映画も歌謡曲も。
《顔23(B)》(1988)
1988年。文子夫人が亡くなった。猪熊は心の穴を埋めるように顔の連作を制作する。
怒っている顔。ゴキゲンな顔。笑顔。ふきだした顔。ジッと見つめる顔。
全て62年間連れ添った夫人が夫に見せた表情なのだろう。
「愛妻家だったんだろーにゃ」
《鳥とカイト》(1992)
亡くなる前年の大作。再び具象に戻ってきたようにも見える。
だが、画家にとって鳥も凧も形と色を提供するすっかけに過ぎない。20代の猪熊は藤島武二に「デッサンがない」と言われ、マティスには「自分がない」と間接的に批判された。長い画業の果てに猪熊が絵筆で表そうと血肉を削ったのは、形態と色彩による「ものの存在」の証明だったのだろう。
室内はとても静かだった。猪熊を感じるのにこれほど相応しい空間はないだろう。贅沢なひと時だった。
(無題、制作年次不明)
絵葉書を一枚みやげに買って帰ることにした。なぜこれかって?一番猪熊らしく感じたから。
このあとバタートースト一枚とカフェラテ一杯を昼ご飯代わりにして、少し腹ごなしすることにした。
「サルは夜に賭ける」
(つづく)
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