企画展「河東碧梧桐と石川九楊 筆蝕の冒険展」(市立伊丹ミュージアム) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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企画展「河東碧梧桐と石川九楊-筆蝕の冒険」

℡)072-772-5959

 

往訪日:2024年2月10日

会場:市立伊丹ミュージアム

所在地:兵庫県伊丹市宮ノ前2‐5‐20

会期:2024年1月12日~2月25日(月曜休館)

開館:10時~18時

料金:一般800円 大高生600円 中小生450円

アクセス:JR伊丹駅から8分

■設計:坂倉建築研究所

■竣工:1987年

※撮影NGです

※終了しました

 

(写真を幾つかネットから拝借いたしました)

 

ひつぞうです。二月中旬に市立伊丹ミュージアムで開催された企画展「河東碧梧桐と石川九楊」を鑑賞しました。アートのジャンルでもとりわけ敷居の高い“書”。しかし、九楊先生の作品は物語性豊かで絵画のような世界観があります。その先生が深く関わり続けた自由律俳句の極星が碧梧桐。門外漢ながらこのコラボレーションに魅力を感じ出かけました。(以下敬称略)

 

★ ★ ★

 

書評欄を賑わせてきた石川九楊の著作。常に気になる存在だった。しかし相手は「書」。毛筆が苦手な僕に歯が立つのか。そう思うと手が出せずにいた。そんなとき今回の企画を知った。愛着ある碧梧桐を介せば親しみが湧くかも知れない。会期末迫る二月の初めに市立伊丹ミュージアムを訪ねた。

 

JR伊丹駅で降りると眼の前に公園がみえた。

 

 

戦国武将・荒木村重(1535-1586)の居城だった岡村城跡だ。謀将村重は織田信長の信認をえて有力武将にのし上がり、ここ有岡城を拠点に摂津を治めた。しかし何を思ったか、その恩ある信長に謀反。一族は皆殺しにされてしまうが、村重は生き恥を晒して一生を終えている。

 

村重といえばこの浮世絵を思い出す。

 

 

歌川国芳描く《太平記英雄傳廿七》である。信長に「摂津国を任せてくんさい」と具申したところ、刀に刺した饅頭を突き出して「喰ってみろ!」と村重の胆力を試すが、身じろぎせずにかぶりついたという説話に材を得た傑作だ。弟子の芳年・芳幾も描いているが、やはり国芳の村重がその異様さと豪胆さをよく表している。

 

「脱線したにゃ」サル

 

話を戻そう。市立伊丹ミュージアムには徒歩7分ほどで到着した。ここは全国で初めて清酒を生み出した酒処(それまで酒といえば濁りだった)。それら酒蔵遺構を中心とした伊丹郷町館と俳諧資料館・柿衞文庫、そして市立美術館が2022年に統合した。

 

 

内庭は日本庭園になっていた。

 

アントワーヌ・ブールデル《ドーミエ像》(1927)

 

風刺画家ドーミエをモチーフにしたブールデルの作品も。相変わらずデカい。

 

アントワーヌ・ブールデル《牧神と山羊》(1908-09)

 

ここにも。浪漫派の巨匠ドビュッシーに捧げられた作品。探してみると意外に多いブールデルのパブリックアート。当館には二点展示されていた。

 

 

寛文元(1661)年以降、伊丹は摂関家である近衛家の領地だったそうだ。不勉強ながら初めて知った。この石灯籠は近衛家が指名した惣宿老(酒造家から選任される行政代理職)が集まる近衛家会所に設えられていたもの(2006年移設)。伊丹は近衛家ゆかりの土地だった。

 

では館内へ。

 

 

当館ゆかりの偉人・岡田利兵衞(1892-1982)だ。富貴長大手柄を醸した老舗酒舗(岡田酒造)に生まれ、京都帝大国文科に進学。俳諧研究と教職に奉じ、戦後は伊丹市長をつとめた。ちなみに逸翁美術館の初代館長も歴任。世の中は狭い。もっと言えばクラシック音楽を判りやすく教えてくれる岡田暁生先生は御孫さんにあたる。

 

「ほんと世間は狭いにゃ」サル

 


伊丹といえば酒と空港。その程度の知識しかなかったが、実は俳諧ゆかりの地。今回の企画も頷ける。展示は二部構成。第一部は九楊先生のコレクションをベースにした碧梧桐の書第二部は碧梧桐の俳句にインスパイアされた九楊先生の書『河東碧梧桐一〇九句選』を一挙展示する。

 

 

=碧梧桐の書=

 

まずはおサルのために碧梧桐の生涯を簡単に纏めておこう。

 

「よろしくお頼む」サル

 

 

河東碧梧桐(1973-1937)。松山出身の俳人・書家。旧制第二高等学校中退。高浜虚子と並ぶ正岡子規の高弟。子規亡き後、客観写生を唱えた虚子とは対照的に、生涯にわたって革新性を追求。定型と季題に捉われない新傾向俳句を牽引した。

 

入館してまもなくこの句が迎えてくれた。

 

紅い椿白い椿と落ちにけり

 

1902(明治35年)年9月。業病との壮絶な闘いのすえに巨星・子規は果てた。その喪失感を詠った碧梧桐の有名な一句だ。介錯された首のように生々しい椿の花。ボトリと音まで聞こえてきそうだが、凄烈な美しさがある。

 

ご存知のように自分の命が長くないと悟った子規は後継者に虚子を指名した。ところが「学問してまで俳句に邁進したくないぞな」と虚子まさかの辞退。世にいう道灌山事件だ。失意の子規を後目に虚子はその後俳句を棄て雑誌『ホトトギス』を主宰。小説家を志す。(結果的に俳諧に出戻る虚子に九楊先生の言葉は厳しい。)

 

高浜虚子(1874-1959)


戦後、桑原武夫『第二芸術』で現代俳句のゆくすえを論じたように、確かに芸術というより庶民の手すさびと認識され始めていた。だが碧梧桐にとって俳句は改革の余地が余りあった。三千里と銘打った全国行脚を開始。交通の便の悪い時代に本当に日本全国を回り、季題定型(五七五)に囚われない新傾向俳句を唱導した。更に俳句(に限らず文学)は文字に認められて初めて完成する以上、その文字=書の研究こそ新しい俳句の創造に欠かせないことに気づく。そんな碧梧桐に一人の男が新たな光明を授けた。

 

 

中村不折(1866-1943)。信州・高遠ゆかりの洋画家である。ラファエル・コランに古典技法を学びつつ漱石子規らとも交わり、挿絵画家としても活躍した。そしてもうひとつの顔が中国の書の蒐集家だった。もちろん自身も能書家。神経衰弱で参っている時に逗留先の磯部温泉で書きまくったのが『龍眠帖』である。最初は無聊の手慰みだったが周囲が絶賛。刊行に至った。

 

中村不折『龍眠帖』

 

この書を介して不折と碧梧桐の交歓が始まった。

 

「子供が書いた金釘文字のようだにゃ」サル

 

これは中国六朝(漢と随の間の王朝)に流行った六朝様式なんだ。俳句の始祖たる短歌の世界で、雄渾な萬葉秀歌古今集(つまり紀貫之)によって陳腐化してしまったように、書の神様と崇められた顔真卿が書の様式化=陳腐化を招いた。六朝の書には萬葉集の歌に通じるパワーがあったんだ。

 

「どんどん難しくなるのー」サル サルも勉学はいいかも

 

九楊先生はこう記している。

 

“書字が文学を生む。書きぶりの如何が文学の書きぶりを決定し、その書きぶりがそのストーリーまでをも生む”と。

 

 

今回企画展を観るにあたって、九楊先生の近著『河東碧梧桐 表現の永続革命』(2019)で予習した。書を切り口にした碧梧桐伝の決定版。これ以上のものはないだろう。文章は明晰かつ論理的。寸分の隙も見せず、一方で美しくユーモアもある。そして笑いがある。飽くまで俳句は門外漢と嘯きながら、好いものは好い、凡作は凡作と碧梧桐の句ですら容赦ない。自信に満ちた口舌は書を識り、書と俳句は同根という強い信念を持つ実作者だから許されるものだ。

 

河東碧梧桐筆《「雪散る青空の」句ほか二曲一隻屏風》 脱無中心時代の書

 

六朝風を体得したのちも無中心脱無中心の書、そしてそれに呼応する進化系俳句へとアップデートしていった。その変遷を備忘録として記しておく。

 

①一般的書法(子規と出逢う。俳句に没頭)

②六朝風の書(子規亡き後の三千里時代)

③無中心の書(龍眠会の書三昧時代。中心がない文字)

④脱無中心の書(華麗優美。流れるような書体)

⑤晩年の書(ひねり、揺れ。捩じれの筆蝕)

 

 

好きな句を幾つか並べてみよう。

 

君を待たし田与 櫻散る中をあるく

 

(「待たしたよ」を萬葉仮名のように「田与」と記すと、不思議な力強さが伝わってくる。待たせたのに堂々としている。そして二人は歩いていく。恋の歌。)

 

思わずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇

 

(思いもせぬような温かい日だったのか。ポコっと卵から孵ったヒヨコ。ひよこでもなく雛でもなくヒヨコ。そこに狂い咲きのような冬のバラ。「冬のバラ」ではなく冬薔薇(ふゆそうび)と硬く持ってくる処が旨い。)

 

「ひよこは可愛いよ」サル

 

焦りついた鹽から鮎を離すのであった

 

(好きだったのだろう。碧梧桐には鮎の句が多い。鮎好きといえば日本画家・福田平八郎を思い出す。猪口を脇に、顔寄せて鮎と向き合う碧梧桐の視線に自分のそれが同化する。)

 

釣れた鮒をつかんで座敷の皆の前にあがった

 

(少し間違えば凡庸な散文になるところ。敢えて「あがった」と断定形過去で表すことで出迎える家族の視線が浮かびあがる。「つかんで」がまた旨い。「さげて」でも「吊るして」でもなく。獲物はいいから風呂を浴びて一献やりたい。一日の終りが眼に浮かぶ。)


髪を梳き上げた許りの浴衣で横になつているのを見まい

 

(妻の油断した姿を描いた句も少なくない。水気を帯びた髪のまま、しどけなく横になる。一言いいたいが「見まい」とする。夫は古女房に弱い。)

 

子を叱るさまでもと思ふ瓜の宿

 

(子がなかった碧梧桐は妻の姪・美矢子を養女に迎えた。不勉強で「瓜の宿」の意味は不明だが、娘をつい叱り「そこまで叱る必要もなかった」と後味の悪い思いをしている父親の不器用さが伝わってくる。好い関係を築くことのないまま12年後に美矢子を病で失った。)

 

「紆余曲折があったんだのー」サル

 

そういう処も含めて碧梧桐の人生は魅力なんだよね。

 

個人的には無中心論(句の中心を捨てて出来事を日記のように詠む)の頃の句が響く。その後、大正9年から10年の渡欧を通じて優美な句が完成。大正14年頃に長句化して短詩の域に至る。昭和4年頃のルビ俳句など新たな挑戦もあったが、1933(昭和8)年の還暦祝いの席上で引退を表明。その僅か四年後に腸チフスで命を落とした。一大派閥だった碧門派も教科書のなかだけの存在になった気がする。

 

 

それでは二階にあがって第二部へ。

 

 

=河東碧梧桐一〇九句選=

 

第二部は九楊先生の作品。すごい数だった。それに全ての句にコメントつき。

 

「よく全部読んだにゃ」サル

 

★ ★ ★

 

ここで九楊先生の経歴を。おサルのために。

 

(痩身で哲学者のような風貌)

 

石川九楊(1945‐)。福井県出身の書家・評論家。京都大学法学部卒。弁護士を目指すが、在学中に法律以前の不文律の重要性に気づき、弁護士を断念する。何のことかさっぱりである。大学では書道部に在籍。メキメキと腕を上げ、一方で現代詩も旺盛に発表。卒業後一般企業に就職するも35歳で脱サラ。書道研究室を立ち上げ、1982年に書家デビュー。書道だけに留まらず、広く芸術論を発表。現在に至っている。

 

「すごい経歴だにゃ」サル

 

京大を出ていながら書道一本で食っていこうという決断が潔すぎるね…。などと勝手にプロフィールなど書いていいのか。

 

「いろいろ載せて…」サル 叱られるよ

 

以下、もらったチラシから。碧梧桐の俳句を書に表した作品が並ぶ。

 

《天下の句見まもりおはす忌日かな》

 

もちろん文字なのだけど情景が絵画的に表現されているんだよ。

 

「フニャフニャした線だの」サル

 

碧梧桐が六朝式で磨き上げた連続微動法の昇華だろうね。

 

《ざぼんに刃をあてる刃を入るゝ》

 

ざぼんの厚い皮。そこに鋭利なナイフが刺さっている。対角線上を画面いっぱいに薄墨で覆った処に成功の秘訣がある。

 

《夜も鳴く蝉の灯あかりの地に落ちる声》

 

右から文字が続く。書道の定石をまさに裏返し。「蝉」という文字が街灯にとまる夜の蝉のようだ。都会の空は夜も無闇に明るい。

 

★ ★ ★

 

 

九楊先生は言う。“碧梧桐は伝統的な有季定型を脱した独創的な俳人であるため、異端として片づけられ今や知る人も少ない”と。そうかもしれない。その名前と自由律俳句(と僕らの世代は教えられた)という単語は知ってはいても。やはり文学作品も現物に触れてなんぼ。碧梧桐の書と句への愛を感じた企画展だった。このあと岡田家住宅を見て回った。

 

「一日がかりだにゃ」サル

 

うれしさのそれだけを春の朝雀

(碧梧桐二十歳の作)

 

(つづく)

 

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