旅の思い出「逸翁美術館」 近代数寄者 美の世界(大阪府・池田) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

逸翁美術館

℡)072-751-3865

 

往訪日:2024年1月28日

所在地:大阪府池田市栄本町12-27

開館時間:10時~17時(月曜休館)

入場料:一般700円 高大生500円

アクセス:阪急宝塚線・池田駅から徒歩10分

駐車場:22台(無料)

■設計:竹中工務店

■施工:竹中工務店

■竣工:2009年3月

※館内撮影NGです

 

《燻し瓦をイメージした総タイル張りの外観》

 

ひつぞうです。小林一三シリーズ最終回は逸翁美術館です。旧美術館の開館50周年と阪急創立100周年の記念事業として新たに設立されました。収蔵コレクションの数はなんと5000点。企画展中心に通年公開されています。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

記念館を後にして、再び来た道を戻った。

 

 

竣工は2009年。今年で設立15年目にあたる。施工はもちろん竹中工務店。

 

 

美術館内部にはマグノリアホール(音楽ホール)も併設されている。そのため「やや音漏れするので耳障りかも知れません」とスタッフが申し訳なさそうに付け加えた(その通りだったあせ)。なお、小林一三記念館の半券を提示すると割引になる。

 

 

旧逸翁美術館(今の一三記念館)のスパニッシュ瓦をイメージしたのだろうか。反射を抑えた立体仕上げの燻しタイルが控え目な色調で美しい。

 

往訪時の企画展は《Theコレクター逸翁》。逸翁生誕150周年事業のひとつ。

(※終了しました)

 

 

コレクションの来歴を主題に据えた企画だ。経緯はさまざま。オークションの売立目録。馴染みの骨董商の紹介。そして友人知人(多くは茶の湯仲間)を通じて。そうしたエピソードを交えながら展示品を観るとまた違った印象をうける。(撮影NGなので文章主体のメモになる)

 

 

1章 贈り物を収蔵する

 

様々な贈り物が展示されていた。羽仁五郎作と伝わる黒中棗根津嘉一郎からの返礼品。一緒に送られた手紙に「軽井沢の別荘に招待する」とあり、その落成を祝って逸翁が贈り物をしたらしい。贈り物合戦である。

 

根津嘉一郎(1860-1940)。その蒐集品は根津美術館で観ることができる

 

根津は青山と号した茶人で、逸翁と同じ甲府の出身。東武鉄道南海電鉄を立ち上げた鉄道王だ。明治期に東京や横浜で成功した甲府出身者を総称して甲州財閥と呼び、彼らは同郷人の繋がりをバネにした。ここで言う別荘とは麗沢山荘のことだろう。のちに晴山ホテルとして人気を博したが、昭和の終りに惜しくも廃業している。

 

久保田米僊《梅鶯図》

 

《交趾黄鴨・萌黄鴨香合》白檀塗(明時代)

 

他には野村證券の創業者・野村徳七(得庵)が、昭和16年6月に催された蘭印使節記念茶会への招待への感謝として贈った向梅蒔絵平棗(越田尾山作)や、日本画家・安田靫彦が宝塚歌劇30周年を祝って贈った隆達節切(添え本附属)などが印象に残った。

 

二代目野村徳七(1878-1945)。株式相場に統計学的手法を取り入れた先駆者。

 

ちなみに隆達節とは桃山時代に堺の高三隆達(たかさぶ りゅうたつ)が興した小歌のひとつ。その端切れを軸物としたのだろう。逸翁の交際の広さを感じるとともに、往時の遣り取りが偲ばれた。

 

 

2章 お気に入りの道具を購入する

 

当時の逸翁は、斎藤利助、坂田伴治郎、小沢亀三郎を中心に、瀬津作之助、児島嘉助、土橋永昌堂など、目利きの道具屋(古美術商のこと)とつきあいがあった。(下のポスターにデザインされた)古瀬戸の花入も瀬津作之助から購入したものだ。

 

 

流れるような飴釉と腰位置が低く撫肩の陶体が殊のほか美しい逸品。この古瀬戸写印花飴釉瓶子花入の作者加藤唐九郎こそ昭和34年に発覚した「永仁の壺事件」の中心人物だった。

 

「どーいうこと?」サル

 

戦時中に永仁の壺なる古瀬戸の銘品が新聞紙上に突如登場。陶芸家で研究者でもあった加藤がお墨付きを与えて、戦後、重要文化財に指定された。

 

「お宝だにゃ」サル

 

ところがよ。これが全くの贋物。あろうことか加藤の作と判ってしまう。ま、公表時点から疑惑の眼が向けられていたのだけど。拙かったのは斯界の第一人者と言われた文部技官の小山富士夫が重文に推薦したことだ。小山はこの事件で失脚。加藤の白状のあと、その息子が自分がやったと言ったから話はややこしくなった。そのお騒がせ者の作品が逸翁のコレクションになっているのも不思議な縁といえる。

 

「売った道具屋さんも困っただろうにゃ」サル

 

多分ね。でも付き合いは続いたから「ちょっと失敗だったね」くらいでお茶を濁したんじゃない?

 

「さすが!お金持ち!」サル

 

《辰砂六角瓢形写花瓶》

 

《青花横瓜香合(祥瑞》》

 

他には逸翁が敬愛した数寄者平瀬露香の平瀬家伝来の野々村仁清作柚子香合や、増田鈍翁の旧蔵品の黄瀬戸梅花文鉦鉢なども眼を惹いた。尊敬する茶人に肖りたいという逸翁の純粋な気持ちが透けてみえる。蕪村の桃山騎馬図画賛も、敬愛する子規が蕪村に心酔していたことが縁でコレクションに加えた。背景を知ると骨董も面白い。

 

一方の墨蹟三行は一時惚れこんだ一休禅師の作。しかし、鈴木大拙の自戒集を読み、“愛すべき親しむべき坊主ではない”とその人柄に失望。以来愛玩をやめた。まさに坊主憎けりゃ袈裟まで憎しだ(笑)。

 

「一回厭になるとなかなかね」サル

 

 

3章 茶会のために収集する

~歌劇茶会記より~

 

茶会用に収集した黒樂茶碗の了々斎(銘「シメ太鼓」)など、墨蹟、花入、茶杓などが展示されていた。

 

 

4章 縁あって収蔵品となる

 

この章で印象的だったのは、慶應義塾の先輩で三井銀行の上司だった高橋義雄からの書簡。箒庵と号し、茶人でもあった高橋は逸翁を可愛がった。だが、岩下清周の誘いにのって辞職すると知った高橋は、思いとどまらせるべく書簡を送り、その中で「貴下ハ我儘なる人物なりとの評あり」と戒めている。(結局逸翁は三井を辞職。しかし、新会社は白紙となり、浪人生活に陥ったことは、記念館のくだりで記したとおり。)

 

「趣味に走る人間はワガママだにゃ」サル 身近にいるし

 

“我儘”こそ通したが、自分を想ってくれる高橋の言葉に感動した逸翁はこれを表装し、事あるごとに眺めたという。それが《小林一三宛書簡 明治30年1月19日》である。

 

重文 伝 小野道風《継色紙 あまつかぜ》

 

掛軸は茶会のテーマにあわせて主が選ぶ。《小林一三宛書簡》が掛かった茶会は、高橋ゆかりの日だったに違いない。

 

以上で小林一三をめぐる旅は終わり。阪急宝塚線の沿線、殊に池田から雲雀ヶ丘一帯は関西経済を牽引した実業家や趣味人ゆかりの地。まだまだ訪ねる場所は多い。休む暇はなさそうだ。

 

「偶にはゆっくりしようぜ」サル ぜんぜん暇がにゃい!

 

(おわり)

 

ご訪問ありがとうございます。