群馬県立歴史博物館
℡)027‐346-5522
往訪日:2024年1月14日
所在地:群馬県高崎市綿貫町992‐1
開館時間:9時30分~17時(月曜休館)
拝観料:
(特別込み)一般500円 高大生250円
(常設のみ)一般300円 高大生150円
アクセス:関越道・高崎玉村ICから約8分
駐車場:群馬の森 全480台(混みます)
《これ全部国宝!》
群馬県立歴史博物館の展示篇です。
★ ★ ★
まずは新春特別展のはにわ祭りから。
(※子供のための特集《昭和のくらし》も開催中でしたが、リアル世代で特別でもないので省略しました)
当館の一押しは常設展なのだが、混雑する前に企画展を観ることにした。(誰もいない瞬間を撮っているが、この後大勢の親子連れで埋め尽くされることになる)
群馬県内の埴輪つき古墳はその数2,000基!埴輪貧困エリアの北部九州出身の僕には信じられないことだ。人気グランプリの結果が公開されていた。その№1がこれ。
《笑う埴輪》(藤岡市・下毛田遺跡出土)6世紀
頭部は現物。これを発掘した人物もまた最高の笑顔になったに違いない。
全部載せると大変なので気になった物だけを。一気に飛んで第6位。
《人面付円筒埴輪》(前橋市・中二子古墳)6世紀前半
円筒埴輪に人の顔が彫られるということを初めて知った。
「不気味すぎゆ」
顔つき円筒埴輪の出土は全国に15例ほどしかなく、その全てが群馬県。いかに多様な文化を形成していたかが判る。顔面の線刻は入れ墨を表したものと推測される。『魏志倭人伝』によれば、入れ墨は特別な職能を与えられた人物に許されたもの。恐らく祈祷師だったのだろう。ということから顔面の刻印は守護札の意味があったと言われている。
第11位。
《犬形埴輪》(伊勢崎市・剛志天神山古墳)6世紀前半 複製
造成によって消失した剛志天神山古墳からは猪、鶏などの獣形埴輪が複数出土したそうだ。二体の犬の埴輪が猪のそれを挟むように発見されたため、猟犬だと考えられている。特に首輪に注目したい。犬はこの頃から人間のトモダチだったのだ。
次、第14位。
《帽子形埴輪》(伊勢崎市・波志江今宮遺跡7号墳)
初めて眼にする形だ。石棒に似ているので子孫繁栄の祭器と考えたが、鋸歯文様が施されているので間違いなく帽子らしい。高貴な身分のみに許された装身具。埋葬された人物の身分が判るそうだ。
第16位。
《帽子をかぶる男子》(玉村町・八幡原出土)
帽子の他に太刀も身に着けている。ますます高貴な証し。
「眼が怖い」
埴輪ってどこか不気味だよね。
次はおまけ。
《家形埴輪》(高崎市・神保下條遺跡2号古墳)6世紀中~後期
家形埴輪が円筒埴輪と一体になったものは珍しい。
今回一番興味深かったのはこれ。
第20位。
重文《水鳥形埴輪》(太田市・天神山古墳)6世紀前半
現在飼われている鶏よりも軍鶏に近く造形的にも美しい。
「もう朝採りお卵があったんだ」
長い付き合いだということが判るよね。
武人の装身具である弓、鞆(とも)、靫(ゆき)を模った大型埴輪もある。いずれも埋葬者のための魔除けだったそうだ。
ではお目当ての常設展示室へ。
正直言って、ここだけでもいい。
これ全部国宝!
「え!ただの埴輪が!」
ただの埴輪じゃないよ。
歴史博物館のすぐ近くに綿貫観音山古墳があるんだ。この日は忙しくて行けなかったけど。
(公園として整備される前。周りは畑ばかり)
古墳群の中でとりわけ大きなもので6世紀前半に築造された上毛野(かみつけの)一帯を治めた大豪族の墓と言われる。昭和42(1967)年から一年間、群馬県教育委員会が発掘。未盗掘だったため大量の副葬品と円筒、具象の埴輪が発見された。
既に大和政権が倭の国の代表として、南北朝時代の中国や三国時代の朝鮮半島諸国(百済・新羅・伽耶)と頻繁に交易をおこなっていたと言われる。
身分の序列も確立していたのだろう。兜や太刀から判断すれば武人かと。
国宝《銅水瓶》6世紀
国内最古。また古墳出土品の完全品としても唯一の銅製水瓶。酷似する法隆寺旧蔵品とともに、中国北斉の影響をうけたもの(あるいは伝来品)とされる。因みにすべて文化庁の所蔵品という位置づけ。
国宝《突起付冑》6世紀
これも国内に4例しかない貴重品。朝鮮半島の影響がみられるそうだ。
国宝《金銅大帯》6世紀
これらは橿原考古学研究所附属博物館に所蔵されている藤ノ木古墳のそれと酷似しているが、鈴つきはここにしかない。
国宝《獣帯鏡》6世紀
中国伝来の鏡を粘土に写し取ったいわゆる“踏返し鏡”。
国宝《金銅製花弁形鈴付飾金具》6世紀
これも…
国宝《金銅製心葉形杏葉》ほか6世紀
これも…そして…
国宝《金銅製鞍橋表飾板(前輪)》6世紀
これも馬具装飾品。細かい手仕事に唸るばかり。
国宝《須恵器 壺》6世紀
須恵器は死者に食物を捧げるための器だった。こうした思想は元は日本人の先祖にはなかったもので大陸から伝わったものだ。
国宝《須恵器 蓋杯》6世紀
朝鮮半島の影響が見て取れるね。
「ほんと?」 ←俄仕込みと思って信じてくれない
ホントだって
ここから旧石器時代から現代までの群馬県を追う。まさにリアル県民SHOW。
でも全部紹介すると大変なので気になったものだけメモ。
伊勢崎市《石製垂飾》縄文時代前期(6000~7000年前)大上遺跡
「またヘンなものに興味持って」
だってこれ翡翠じゃない?糸魚川周辺と交易があったってことでは。(後から思ったがグリーンタフかも。それとても交易なくしては存在しない。)
伊勢崎市《岩版》縄文時代晩期(3000年前)北米岡遺跡
祈りの道具と言われる。謎の遺物。
太田市《注口土器》縄文時代後期(4000年前)新屋敷前遺跡
革袋のような形は珍しい。赤城山麓は名水が湧き出る場所だったから。
桐生市《土製耳飾》縄文時代晩期(3000年前)千網谷戸遺跡
非対称な流紋の意匠もいいが、こんな大きなものを耳につけたことがスゴイ。
次はずっと時代がくだって浅間山噴火の歴史から。
1108年旧暦9月5日。浅間山が大噴火した。折からの風に乗って大量の火山灰が上州の田畑に積もり、前橋、渋川あたりで20㌢。もう野菜も米もダメ。
「大変なことだにゃ」 もうあかん
しかし。ピンチは最大のチャンスともいう。
当時、この地を治めていた河内源氏系の新田氏(義国・義重親子)は荘園開発を進め、巨大な荘園領主としてのちの繁栄の礎を築いた。ちなみに鎌倉幕府を倒して建武の新政を果たした戦国武将の新田義貞はこの七代後になる。
前橋市の公田池尻遺跡の剥ぎ取り標本。降り積もった粘土と軽石を練り合わせて格子状の畦を造り、復旧作業が行われた。
交通の要衝であり、戦国武将が群雄割拠した群馬は様々な信仰が齎され、また石材に事欠かなかったため、多くの石造物が建てられた。石仏、宝篋印塔に角塔婆など、その種類の多さは全国的に比類がないそうだ。
もちろん戦乱抜きでは語れない。
上州といえば鎌倉公方(足利持氏)が室町幕府(京都の将軍家)に嚙みついた享徳の乱である。と云っても持氏が戦いを挑んだのは、幕府に関東の監督権を与えられた関東管領の上杉氏だけど。
「全然わかんない」 だから歴史はキライ!
日本の戦乱って、ワシもワシもと沢山の武将が参戦するからね。学生の頃覚えるのタイヘンだった。
こんなこともあったのだと判ればいいんじゃね。
戦争のおかげ(と云ったらヘンだけど)武具甲冑の工芸の技がここ群馬で磨かれた。
そして明治維新と文明開化。
世界遺産認定当時はタイヘンだったけれど最近は落ち着いたそうな。訪れたのは2016年7月。
「もう8年もたったのきゃ」
時間が経つのは早いね。
スバル(富士重工業)の前身が中島飛行機であることは自動車、航空ファンによく知られているが、その中島飛行機が誕生したのが今の太田市だ。1958年発表のスバル360は優れた居住性と斬新かつコンパクトなデザインで人気を博した名車のひとつ。生産終了した今でも愛好家は多い。
そして群馬で忘れてならないのはこれだ!
そう。“グンキョウ”こと群馬交響楽団だ。戦後の物資難、交通難の時代に、山を越え谷を越えて戦後の疲弊した人々に音楽の喜びを伝えた市民オーケストラの存在は今井正監督の映画「ここに泉あり」(1955年)で知った。
おっちょこちょいなマネージャー役の小林桂樹さんに、ちょっと澄ました感じのピアニスト役の岸惠子さん。良かったなあ。一度は絶対に群響の演奏を聴かねばね。ということで岩宿遺跡からスバルまで群馬の“歴史”は奥深かった。
機会があればお隣の群馬県立近代美術館を訪ねよう。
「ひつの鑑賞は長すぎるよ」 せめて二時間以内にして!
すまん。
(おわり)
ご訪問ありがとうございます。