宝塚市立手塚治虫記念館
℡)0797‐81‐2970
往訪日:2023年12月10日
所在地:兵庫県宝塚市武庫川町7‐65
開館時間:9時30分~17時(月曜休館)
入場料:一般700円 高大生300円 小学生100円
アクセス:阪急宝塚線・宝塚駅から徒歩5分
《大人も愉しめる手塚漫画の殿堂》
ひつぞうです。あべのハルカスを訪ねた翌日、ガラリと趣向を変えて宝塚市の手塚治虫記念館を訪ねました。漫画の神様、手塚治虫(1928-1989)の生涯と偉業を紹介する記念館です。一度は訪れたい場所でした。(以下敬称略)
★ ★ ★
手塚漫画をリアルに体験した最後の世代かもしれない。凡そのエピソードは知り尽くしているつもりだが、世の中知らないことは存外多いものだ。ここはひとつ、時間をかけて鑑賞することにした。
「マンガならつきあってもよい」
阪急宝塚線で宝塚駅を目指した。清荒神を過ぎると電車は速度を落とし始め、豪華な宝塚大劇場と南欧風の宝塚ホテルが迫ってくる。実業家・小林一三が構想した娯楽施設と鉄道による相補的需要創出というビジネスモデルが生み出した街。そのお膝元で手塚少年は育った。
駅前のソリオホールと手塚治虫記念館は一直線に繋がっている。
花の道はタカラジェンヌを出待ちするファンの通い道でもある。
「ホントに出待ちしているにゃ」
男性の僕にはその感覚が判らない(笑)。
10分ほどで記念館前の交差点に出た。
正面から見ると、実は平べったい造りだと判る。
玄関前で火の鳥が出迎えてくれた。
歿後五年目の1994年に、市営の記念ミュージアムとして設立。今年で30周年を迎える。1階は常設展示室とミニシアター。2階は企画展示室と漫画&アニメーションのライブラリー。そして、地階は(主に子供向けの)アニメ工房となっている。まあ、通常1時間あれば鑑賞できる内容だ。
受付でチケットを購入する。最初にサファイア王子が出迎えてくれる。
=常設展示室=
カプセルの中に時系列にそったエピソードが資料とともに紹介されていた。当然だが親子連れが大半。しかし、今の小さい子供には手塚漫画のキャラクターは響かないようで、ちょっぴり淋しい(笑)。
「アンパンマンは大人気なのににゃ」
やなせたかしの方が10歳くらい年長(=画風も古い)なのにね。
愛用のメガネとベレー帽。鉛筆は三菱のUni(高級鉛筆)。インクはPILOTと開明墨汁。ペンはかぶらペンのみ。Gペンを使う漫画家が多いなか、かぶらペンに拘った。よく見るとペン軸の先を折っている。極度の近視だったので、原稿用紙にへばりつくようにして描いた。ペン軸を折ったのはオデコに刺さらない工夫だったそうだ。
自伝『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)でも触れられているが、とにかく小柄で非力だった。だからよく苛められたそうだ。しかも時代は太平洋戦争の真っ最中。しかし、手塚少年が描く美少女の虜になった(ヤクザの息子の)ガキ大将に一目置かれて苛めはなくなる。まさに「芸は身を助く」である。意味は少し違うけれど。
暇さえあれば漫画を描いていたが、一方で類を見ない昆虫少年でもあった。この甲虫類(コフキコガネ、ヨツボシケシキスイ、ハネカクシ、ビロウドシデムシなどなど)の精緻さに驚く。中学生の“仕事”とは思えない。
「今は写真が溢れているけどね」
自分で描くことが観察の第一歩なんだよ。
その後、大阪帝国大学附属医学専門部に進学。のちにタニシの研究で博士号を取得する。真面目にドイツ語を駆使して観察結果をメモしているようだが、新聞漫画の連載を持っていた先生は、講義中も漫画ばかり描いていた。誤って墨汁の壜を落としてしまい、見つかって大目玉を喰ったこともある。
「そりゃそうだよ」
曾祖父こそ藩医だったが、祖父は官僚、父は写真家。下るに従って無関係な職種についた手塚家。こんな環境下でなぜ医者を目指したのか。実は、戦時中に不衛生な予防注射の接種によって手塚少年はひどい皮膚病になり、危うく両手切断せざるを得なくなるが、親切な医者のおかげで回避。このことで医者を志すようになったそうだ。
その後、先輩漫画家・酒井七馬とともに世に放ったのが、幻の描き下ろし漫画『新寶島』(1947年)だった。なぜ幻かというと、残念ながら原稿が失われているからだ。手塚18歳の作というから驚き。
続く“SF三部作”でそれまでに無かったストーリー漫画の骨子を完成させた。極めて映画的な手法が駆使されている。
例えば…
《新寶島(抜粋)》(1948年)
『手塚治虫漫画全集』のために描き直した原稿だ。瞳孔に轢きそうになる犬のパンの姿が映る。ヒッチコックばりの演出。
初版本は恐ろしい値段がつく。藤子不二雄Ⓐの漫画『魔太郎が来る!』のなかで、手塚ファン垂涎の稀覯本として描かれていたのが印象に残っている。なお、これらは単行本ではなく貸本(赤本といった。特に大阪は貸本文化の中心だった)。水木しげる、つげ義春など、赤本出身の漫画家は多い。
「おサルも幼児の頃、貸本マンガを借りてもらっただよ」 そーいえば
大阪だしね。おサルの出身地。
キャラクターを(映画俳優のように)様々な作品に登場させるスターシステムを生み出したことでも有名だ。
ディズニーに心酔する手塚の更なる野望はアニメーション進出だった。実験映画にも取り組み、14作品を制作している。この日、ミニシアターでは『村正』『PUSH』が上映された。『村正』は妖刀村正の伝説を劇画調に描いた作品。路傍で偶然刀を拾った素浪人。やがてその魔性に捕らわれ、斬れ味が忘れられずに辻斬りを続け、最後は自分自身の魂を奪われてしまう。『PUSH』はなんでも便利になってしまい、地球上から人造物しかなくなってしまう未来批判。やはり幼児には大不評(笑)。
「子供にはムリだにゃ」
1960年代はオカルトブームが全盛。映画『エクソシスト』『サスペリア』『オーメン』などが大ヒットし、国内でも水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』や楳図かずおの怪奇漫画が大ブレイクする。とにかく負けず嫌いな手塚は自分に画けないジャンルはないとばかりに、怪奇、SF調の作品を連発する。
ライフワークとなる『火の鳥』の連載もこの頃。手塚漫画のベストを問われると、やはり『火の鳥』か『ブラック・ジャック』になるかもしれない。新しい漫画表現の可能性を拓いた『COM』の創刊も見逃せない。
色調や背景の効果にも拘った。ちゃんとしたこんなサンプル集があって、出張先からスタッフに指示することも珍しくなかった。驚いたのはアメリカに招待された手塚が、揺れる飛行機の中でも原稿にペンを入れ続け、現地のホテルから背景の効果線、ビルや自動車のカットも厳密に指示したことだ。どうやったのか。それは過去の自分の作品の「これを使え」と電話で伝えたのだ。
「でもアメリカからどうやって?」 Zoomもない時代に
オフィスの本棚のどこに作品があるか、そして、その本の何ページの何コマ目に目的のカットがあるか全部克明に記憶していたそうだ…。恐るべき執着心と記憶力。
「ひー」
もちろん、公衆電話しかない時代。なので「一度しか言わない!よく訊け」と言われたスタッフは、残りの10円玉の数に戦々恐々でメモしたそうな。
これも覚えている。虫プロが制作した大人向けのお色気長編映画シリーズ《アニメラマ》だ。この『クレオパトラ』は小学低学年の頃、日曜昼のTV放送で観た。チョットだけ。物語の中のクレオパトラはすごい醜女でスタイルも悪かった。それを餅つきのように大改造したあげく簀巻きにしてシーザーの前に放り出す。今では即セクハラ表現でアウト。
「子供なりにショックだった?」
というより、アニメとはいえ、おっぱいモロダシの映画を白昼堂々放送していいのかと心配になったわけ。結果的にこのシリーズ、製作費を湯水のように使ったため大赤字になり三作で終了。エロスは手塚の秘めたる(そうでもないか)趣味。好きならカネも時間を惜しまない性質が災いしたのだろう。
こうして1973年に虫プロは倒産。この挫折によって“手塚は死んでしまうかもしれない”という処まで追い詰められてしまう。凝り性が招いた挫折という意味では黒沢明に似ている。好い作品を創ることと、ビジネスとしての成功は必ずしも一致しない。
「普通はみんな知っているよ」
そして“本業”の漫画も売れなくなった。ひと言でいえば時代に合わなくなったのだ。60年代後半から70年代にかけて『ゴルゴ13』や『忍者武芸帳』などの劇画ブーム、そして、手塚第二世代ともDNAの異なる、例えば『サーキットの狼』の池沢さとし、鴨川つばめ、江口寿史など、新しい才能がどんどん出現していた。
「マカロニは傑作だよ」
復活は『ブラック・ジャック』だった。漫画生活30周年企画といいつつ、手塚も秋田書店編集部も「それが駄目なら心中する」しかない崖っぷちの覚悟だった。なので連載ではなく読み切り。たしかに最初の数篇はとても内容が暗い。当初は怪奇コミックで売り出したし。しかし、次第にヒューマニスティックなドラマ性が評価されて、手塚復調の契機となった。
晩年(本人は「まだまだアイデアだけは山のように在るんだ」とやる気満々だったが)の問題作。『奇子(あやこ)』は手塚のダークサイドが好い形で結実した傑作。楳図かずおの『おろち』に対抗したと言われるが、内容は横溝正史の『悪魔が来りて笛を吹く』である。
『アドルフに告ぐ』は伝記的要素も絡めた歴史長編。一気に読ませる。こうしてみるとリアルタイムでは評価されなかった劇画作品も(多少の破綻はありながら)個性的味わいのあるものが多いことが判る。
「ヒツはエッチな漫画好き」
他方、アニメーションはどうなったか。
実は「24時間テレビ愛は世界を救う」の第一回放送(1978年)の特別枠で5年ぶりに長編『バンダーブック』が上映される。当時放送で観たがなかなか面白かった。しかも驚異的視聴率。手塚本来のデザインとは違って洗練されていないのがちょっと不満だったけれど。
以前観たNHK特集「手塚治虫・創作の秘密」(1986年放送)のなかで、手塚は「あと40年は描きますよ」と意欲的だった。つまり100歳まで現役と言いたかった。成功作かどうかは別にして『ネオ・ファウスト』『ルードウィヒB』などを掛け持ちで連載。睡眠を削り、のたうち回るように原稿と格闘した。それが仇となったのかも知れない。医者の不養生そのままに癌が見つかる。その一年後の1989年2月9日、遂に還らぬ人となった。享年60歳。まもなく僕もその年齢になろうとしている。
「人生はあっという間だよ」
ミニシアターの横ではゆかりの声優や里中満智子先生など後輩漫画家のインタビューが流れていた。
では二階へ。
企画展は浦沢直樹先生による鉄腕アトムのスピンアウト作品『プルートウ展』。直筆原稿は撮影禁止。
手塚先生の『鉄腕アトム』生原稿。史上最強の戦闘ロボット・プルートウと、アトムを始めとする平和のロボット戦士たちの死闘を描くヒューマンドラマ。手塚版のダイナミズムに比して、浦沢版はとても描写が細かい。
ということで最後にマンガ閲覧コーナーへ。
古いアニメーションも視聴できる。
結局ここで三時間漫画(『奇子』全三巻)を読んでしまった。
気がつけば間もなく閉館。
その前に地階も見学。ここでアニメ制作の疑似体験するんだね。
奥では手塚先生が格闘中。とにかく独房に籠るようにして捩じり鉢巻で仕事をした。
先生が子供の頃の宝塚周辺のジオラマ。
結局一日掛かりだった。
「日が暮れとるやん」 ガ~ン!
おサルだって漫画むさぼり読んでたじゃん。
大満足な日帰り旅だった。宝塚歌劇と身近に接し、また、昆虫に囲まれた豊かな自然のなかで暮らしたからこそ、手塚漫画は生まれたのだろう。東京生活者の印象が強いけれど、やはり先生は関西人だったのだと思う(あの一途なところが)。
「梅田の紅白で飲んでいい?」
駄目って言えんよね(笑)。
(おわり)
ご訪問ありがとうございます。