コシノジュンコ 原点から現点
℡)06‐4399‐9050
往訪日:2023年12月9日
会場:あべのハルカス美術館
所在地:大阪市阿倍野区阿倍野筋1‐1‐43
会期:2023年11月23日~2024年1月21日
開館時間:10時~18時(平日:~20時)
観覧料:一般1,700円 大高生1,300円 中高生500円
アクセス:地下鉄・天王寺駅すぐ上
※全点撮影可能
※終了しました(2月22日より新潟に巡回予定)
《モードなしではいられない》
ひつぞうです。昨年末から年明けにかけて、あべのハルカス美術館で《コシノジュンコ原点から現点》と題した最大規模の回顧展が開催されました。かつてモードに入れあげた人間として見逃す訳にはいきません。開会直後に出かけました(以下敬称略)。
★ ★ ★
三度目のハルカス美術館。どんなに人気の特別展でも直前まで混雑しないのがいい。大阪人はあわてないのだ。
今更解説不要だが、コシノジュンコといえば、岸和田出身でオカッパ頭がトレードマークのモードの女王である。姉ヒロコ、妹ミチコともどもデザイナー。朝ドラ「カーネーション」のモデルになったので、モードに興味のない層もよく覚えているだろう。その回顧展が出身地の大阪に巡回してきた。絶好のタイミングである。
(展覧会場で撮影させていただきました)
コシノジュンコ(1939‐)。大阪府岸和田市出身。文化服飾学院卒。金子功(PINK HOUSE)、松田光弘(NICOLE)、高田賢三(KENZO)など、その後のDCブランドブームを牽引する同期生と切磋琢磨する。1960年に登竜門となる紫苑賞を史上最年少の19歳で受賞。翌1961年に銀座小松ストアーにブティック出店。1966年には青山にCOLETTEを開業し、時代の寵児となる。1978年のパリコレ初出展以降、世界各国でコレクションを開催。舞台衣装でも多くの実績を残している。
ということで、ただでさえおっかない印象(すみません)のジュンコ先生なので備忘録は触りにとどめ、印象記を中心に残しておこう。
=岸和田高校時代=
《高校時代に描いたヌードデッサン》(1956~58)(複製)
高校時代は美術部に入部。真剣に画家を目指していたらしい。
《高校時代の油彩画》(1956~58)
時代を反映してのことだろう。後期印象派やフォービスムの影響が見て取れる。この頃、すでに姉の弘子は文化服飾学院に進学し、デザイナーの道を歩んでいた。ある日、偶々実家を訪ねてきた指導教師・原雅夫が順子の絵を見て感心し、デザインの道に進むべきだと背中を押した。何事も姉と比較されることをひどく嫌ったコシノだが、さすがに原の言葉に感じるものがあったらしい。油絵を諦めて、デザインの世界を目指すようになる。
=文化服飾学院時代=
そして、いきなりの紫苑賞受賞。
《紫苑賞受賞作》
コシノの恩師はパリのオートクチュール組合学校に学び、日本で最初に立体裁断を紹介した小池千絵。その小林じきじきの指導の甲斐あっての快挙だった。たしかに1960年前後のパリの雰囲気を感じる。カトリーヌ・ドヌーブの映画に出てきそうだ。
「噓をお云いでないよ」
“花の九期生”と呼ばれた同級生たちと。(左から)金子功、松田光弘、黒田明子、高田賢三、コシノ、加藤正和。すごいね。全員同期というのが。ちなみにコシノの才能に惚れて、田舎から飛び出してきたのが故・山本寛斎である。
「DCブランド流行ったにゃー」 サルは松屋派
=60年代~70年代=
(すでに記したように)受賞の翌年に銀座に初出店。その後、店を変えながら1966年に到達したのが伝説のブティック、COLETTE。
COLETTE時代のコシノ。当たり前だけど若い。唇のマークは宇野亜喜良、インテリアは金子國義。今では考えられない豪華メンバーだ。内装はピンクと黒で統一されていた。店名は“小説の登場人物の名前”らしい。てっきり『牝猫』を書いた女流作家コレットから取ったとばかり思っていた。
(左から)タカラ・ビューティリオン館、ペプシ館、生活産業館(1970年)
そして、1970年、大阪万博が開催された年に南青山に移転。JUNKOを開業する。万博のユニフォームを手掛けたのはこの頃。それぞれ特徴が出ていて面白い。他にも森英惠、芦田淳、石田謙介など錚々たる顔ぶれが参加している。
「森英惠センセの作品は判る」
青山霊園に繋がるこの道を“キラー通り”と命名したのもコシノ。霊園=殺人の連想らしい。天才は発想も奇抜。
すでに芸能人との接点豊富だったコシノは、グループサウンズの衣装も数多く手がけた。ジュリーのヒラヒラ衣装も先生のアイデアだったのか…。ちょっと感動した。ブティック(この表現をフランスから最初に取り入れたのもコシノらしい)は、さながらサロンの様相。多くの芸能人に文化人、芸術家の溜まり場だったらしい。加賀まりこ、布施明、四谷シモン、篠山紀信に金子國義。こうしたメンバーと、キャンティやムゲンを舞台に、夜ごとパーティが繰り広げられた。
=資生堂のお仕事=
資生堂のPR誌『花椿』はサントリーの『洋酒天国』と同様に、それ欲しさに客が求める文化発信装置だった。今みてもメチャおしゃれ。だいたいデザイナー志望の美大生といえば、志望は博報堂か資生堂かってほどだったものね。コシノは1972~73年の間、表紙デザインを手掛けた。
更に1974年、資生堂の主力商品「ベネフィーク」のPRデザインにコシノの衣装が採用される。ディレクターの天野幾雄と、当時人気絶頂のモデル、山口小夜子と組んだ出色の作品だ。
「覚えていないかも」
コレクションの案内状も赤と黒。対抗色好みは若い時からなんだね。
=対極=
1980年代から取り組んだのが“未来の芸術”アールフチュール。
《FUKUSHIMA PRIDE ワンピース》(2019)
まさに対極ともいえる赤と黒の対抗色に、矩形と円形、そうした対極で宇宙が演出される。
ベースは福島の伝統工芸とのコラボレーション。
「赤べこの色に似てゆ」
ショーのポスターの数々。モデルが美しい。デザインにあっている。
《POLO POLO》(1990年)
これまた宇宙的なデザイン。
エイリアンのクリエーションにも通じるね。
重ねて畳める和のデザインをモチーフにしたイブニングドレスなのだそうだ。
「提灯とか?」
でも着こなせる人いるか?これを。
「スタイル次第だの」 おサル絶対ムリ
隠れちゃうもんね(笑)。
伸びることでフォルムの美しさが際立つ。
銀色の方はともかく、黒いドレスはスケスケなんだよね。
こんな風に着こなせばいいらしい。
「次も派手な衣装だのー」
《Cuba Collection衣装》(1996)
1996年8月に外国人初のショーをキューバで開催。現地ダンサー約60人を雇い入れ、20日×8時間という過酷な練習の果てに発表に漕ぎつけたそうだ。
ジップで繋げる構造。
サルサのリズムに合わせて炎天下のなか、陽気なショーが続いたそうだ。
「サルサル」
サルサだよ。
《Spike Dress》(2010年)
コンセプトは“天衣無縫”。女が強さを増していく時代を象徴しているかのようだ。
素材はネオプレンゴムだね。
ウルトラ怪獣を髣髴するのは僕だけ?
銀のネックレスもコシノ先生のデザイン。
《2014年春夏コレクション》
極薄の化学繊維素材に空気を送り込んでいる。
LAMODEのデザイン画。
《竹細工によるビスチェとスカート》(2019)
大分県の伝統工芸とのコラボ。痛そうだな。
《2017年春夏コレクション・ワンピース》
眼回りそう。
寄せてみると判るけれど、白い部分はフェイクレザー、黒い部分はメッシュ。パンティは丸見えという構図である。
《DRUM TAO衣装》(2018年)
1993年に結成された和太鼓エンタープライズ集団のためにデザイン。
なんとなくハリウッド映画的。
和太鼓はともかくデザインが秀逸。
「あんまり太鼓には興味ないそうだす」 代弁すゆ
ヨサコイとか、あーいう系はちょっと。岸和田的ではあるけど…。
コンセプトデザイン画。
これはプロボクサー、寺地拳四朗のガウン(2020年)。先生こういうの好きなんだね。ヤンチャを自認されるだけに。
=JAPONISM 能・琳派=
いよいよ最終章。それだけに豪華絢爛!
琳派400年記念祭の呼びかけ人となったコシノは、河野元昭、高階秀爾、辻惟雄、芳賀徹といったこれまた豪華な美術評論家メンバーと組んで活動している。その延長として、2015年に京都国立博物館の特別展《琳派誕生400年 琳派 京を彩る》で、能とモードのファッションショーを披露した。
盆栽だろうか…。
パリ、ギメ東洋美術館での特別展(2017年)。
そのデザイン画。
コロナが猛威を振るった頃、外出できない先生は、原点に戻るかのように油彩を描いたそうだ。やはり琳派風。それも抽象画。
「うむ。理解できん」
2020年にはGINZA SIX内の観世能楽堂で「能+ファッション」を企画した。
演目は観世能和による《紅葉狩鬼揃》。いまでも最先端の活動をされていると知って嬉しくなった。
大層見応えのある企画展。地元開催にも関わらず、観客が少ないのは意外だった。失われた30年の結果、モードを求める気持ちが世のなかから薄れてしまったのだろうか。ちょっと心配だ。ファッションは心を豊かにする、生活に一番近いアートだから。このあと、あべのハルカス展望台を見物することにした。
「まず飯食いたい」
お腹空いたよね。
(つづく)
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