旅の思い出「砥部焼伝統産業会館」(愛媛県) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

砥部焼伝統産業会館

℡)089‐962-2132

 

往訪日:2023年11月26日

所在地:愛媛県伊予郡砥部町大南335

開館時間:9時~17時(月曜休館)

見学料:一般300円 高大生200円 小中学生100円

アクセス:松山自動車道・松山ICから約15分

駐車場:150台(無料)

※📷撮影一部NGです

 

 

旅行四日目は四国カルストを訪ねる予定でした。早朝より意気揚々、仁淀川に沿って60㌔の山道を快走。ところが、最後の分岐で「11月24日から翌年3月頃まで冬季封鎖」の看板が…。嘘やろ。思わず口を突いて出ました。なんと封鎖は二日前。情報収集を怠った罰。帰るしかありません。途方に暮れながら県境を越えて、間もなく白熊のピースで有名な砥部動物園という処で“砥部焼”の文字!これはちょっと寄りたいかも。ということで、行き当たりばったりの往訪記です。

 

「どこココ?」サル ←ずっと寝てた

 

★ ★ ★

 

砥部焼はおサルが嫁入り道具に持ってきた、呉須の色鮮やかな大皿の産地として記憶していた。

 

「むかーしパパリンが買ってきたんだと思う」サル

 

国道から脇に逸れると、窯元が集積する焼き物の里になる。市の立たない焼き物の里は意外なほど人影は疎ら。こうした風情、悪くない。

 

 

会館の駐車場の脇で、高さ4㍍の聖火台モニュメントが出迎えてくれた。砥部焼の象徴ともいえる呉須の鮮やかな色が青空に溶け込むね。

 

建物に入ると、直売コーナーに続いて、奥が資料室だ。

 

 

入り口には現代陶芸の作品。マリメッコでテキスタイルデザイナーを務めた石本藤雄氏(1941‐)のオブジェ焼。1989年以降はアラビアで作陶を続けている。マリメッコと砂漠のバラのダブルミーニング?

 

 

こちらも石本氏による陶板のオブジェ。愛媛だけに柑橘。

 

「質感が出てゆ」サル

 

 

梅乃瀬窯佐賀道彦(1957-2006)の《心象》。心臓と象のダブルミーニング。自身もペースメーカーをつけていたという(背後に見える金属部品はペースメーカーを模している)。健康を損ないながらもユーモアを失わず作陶に励んだ先人の想いを感じずにはいられない。

 

 

では観ていこう。

 

 

全国の有名窯の紹介。比較サンプルがあると理解しやすい。

 

 

藩営の上原(かんばら)窯跡から出土した「安永九」の銘入り染付陶片だ。杉野丈助が磁器の焼成に成功したのが安永六年。つまり、創業僅か三年後の遺物ということになる。説明によれば、捩じれた形状から窯出し時には既に割れていたと推測されている。砥石屑を原料とするなど、まだ技術的に未成熟だった。

 

「歴史か…苦手」サル しかも焼き物

 

古砥部陶器《北川毛鉄絵松竹梅文徳利》

 

砥部焼はまず陶器から始まった。古陶磁器はほぼ撮影NGだが、これはOKだった。

 

日本の磁器の歴史は朝鮮陶工、李参平による有田泉山陶石(佐賀県)の発見に始まる。一大産業を手に入れた鍋島藩は原料や技術の流出を固く禁じた。当然だろう。他方、財政逼迫に悩む大洲藩はその生産技術が喉から手が出るほど欲しかった。藩主・加藤泰候は肥前・大村藩から陶工を招き、遂に成功。意匠性に乏しく無骨な造りだが、丈夫で日用雑器として重宝された。18世紀後期の出来事だ。

 

 

ところが、江戸後期の文政元(1818)年。向井源治が良質な陶石(川登陶石)を発見すると、砥部の磁器は格段の進歩を遂げる。しかし、大量生産を可能にしたものの、いまだ雑器の範疇に留まっていた。他方、拝領窯(上原窯)で焼成される磁器は呉須を用いた薄手の良品で、絵柄も簡素な(松や鶴などの)吉祥文様が主体となっていく。

 

「茶道とかで愛用されなかったのち?」サル

 

残念ながら。

 

下城戸窯《染付柘榴文蓋物》(明治中期)

 

明治期になると更なる革新が進む。輸入コバルトによる鮮明な青、そして、西洋式絵付、肥前の型絵染付などを導入。1890(明治23)年には愛山窯で砥部特有の淡黄磁が焼成開始。伊予ボールとしてアジア一帯に輸出されたそうだ。

 

「確かにそれまでと違うにゃ」サル

 

高級な感じだよね。

 

向井愛山窯《型絵桐文様皿》(大正時代)

 

ところが大正期になると、第一次世界大戦をはさんで、戦後不況の波を砥部焼も被ることになる。戦争から解放された欧州列強がアジア市場に自国製品を輸出するようになったからだ。その結果、多くの窯が廃業に追い込まれた。その後も太平洋戦争が終結するまで、砥部焼は軍需生産に限定され、工芸品としての命運は殆ど尽きたかに思われた。

 

「なかなか浮かばれんのー」サル


戦後復興期、(有田や瀬戸などの)著名窯は、いち早く工業化に踏み切ったが、砥部焼はいまだ手仕事。完全に後れを取っていた。だが、その手仕事に美を見出す一派があった。1953(昭和28)年に来町した、リーチ、柳宗悦、濱田庄司ら、民藝運動を牽引した陶芸家だった。長らく“雑器”の烙印を押され続けてきたが、皮肉にも、その出遅れによって全国区に躍り出た。唐草文様やナズナ文様で知られる砥部焼に、こうした歴史があったことは知らなかった。

 

「だから自由な陶芸もできるのかも」サル

 

だね。

 

1976(昭和51)年には国の伝統工芸品に指定。1989(平成元)年に当館が開業し、今に至っている。

 

樋渡陶六(1913-2009)《普賢菩薩》

 

砥部出身の樋渡は戸部工業高校で寺内半月に師事。ロクロ師として仕事を得るが、足を痛めて彫刻に転身。十二代柿右衛門窯で彫刻師として約20年研鑽に励み、遂には武雄に自らの窯を開いた。

 

「ごく最近まで活躍してたんだ」サル

 

 

 

ここから現代の名工の作品。

 

 

記されてなかったので作家名が判らない。

 

 

そういえば、左上から三番目と同じデザインの四角の大皿あったよね。最近見ないけど。

 

「処分した」サル

 

どーして勝手な真似すんの!

 

「おサルの嫁入り道具だし」サル 好きにすゆ!

 

 

ここから大作がズラリ。こちらはややモダンテイスト。

 

 

こちらはトラディショナル。

 

 

並んでいるのはいずれも砥部焼伝統工芸士の作品。説明によれば、伝統工芸士とは生産地での所定の実務経験を有し、㈶伝統的工芸品産業振興協会による試験にパスした者に与えられる経済産業大臣認定の称号なのだそうだ。砥部焼には現在13名(成形8名、加飾4名、総合1名)の認定者がいる。

 

「狭き門なのにゃ」サル

 

確かに総合認定者1名というのが驚きだった。
 

 

和紙染めかな。

 

 

搔き落した文様の痕に緋色と鉄錆色が浮かぶ。象嵌だろうか。

 

ここから現代作家の紹介つき(以下、敬称略)。

 

 

山田ひろみ(1957-)。佐賀県出身。九州造形短大卒。嫁ぎ先のきよし窯で絵付師に。砥部焼の女性陶芸家の先駆けであり、初の伝統工芸士らしい。和紙染色絵付けを得意とするそうだ。花や動物をモチーフにした優しい意匠が多い。余談だがご本人はとても美人である。

 

「たしかに余計やな」サル

 

 

亀田茂樹(1951‐)。砥部町出身。松田哲山に師事。嘯裂を得意とする。この青磁は躍動的な轆轤目が鮮やかな陶体に青銅器のような彫文が入っている。

 

 

白潟八洲彦(1939-)。砥部町出身。五松園窯の酒井芳人に師事。轆轤成形の大物がテーマだとか。国連本部に展示されている《生命の蒼い星》は代表作のひとつ。

 

「綺麗な楕円だの」サル

 

ロクロが命だからね。

 

 

西岡秀典(1939-)。砥部町出身。川崎重工業㈱の艦船設計技師という異色の経歴の持ち主。45歳で白潟八洲彦氏に師事。淡黄磁(たんおうじ)の再現に成功した立役者だという。こういう人もいるんだなあ。牡丹柄の浮彫りに溜まった釉薬が仄かに黄色味を帯びている。これが砥部焼のもうひとつの特徴。

 

 

二宮好史(1951-)。宇和島市出身。愛知県窯業高等職業訓練学校卒。釉象嵌の第一人者。薄く彫られた風紋のような文に、マット感のある銅釉の美しい鶯色がうきあがる。暫く見とれた作品。

 

 

白石久美(1965-)。徳島県鳴門市出身。大阪デザイナー専門学校卒。イッチン、染付、彫刻、象嵌なんでもこいの技のデパート。前出の山田ひろみさんと一緒に砥部焼の女性陶芸家集団《とべりて》を牽引している。なんとなく(唐草模様の)伝統的、古典的なイメージの砥部焼だが、実際は多様なデザインや技術を追求する女性や若手も多い。やはり、陶芸は奥が深い。

 

 

展示コーナーは終始見物客ゼロだった(笑)。愉しいのに。

 

「ヒツくらいだよ」サル ったく!

 

新しいマグカップやパスタ皿が欲しいと思うあなた。是非、松山観光のついでに砥部焼の里を訪れて欲しい。窯巡りもできる。損はしないだろう。

 

ということで、ピースに逢いたくもあったが、すでに24歳。砥部動物園はしぶしぶオミットした。こうして松山ICから一路大阪を目指すことにした。

 

「こんなところで焼き物に付きあわされるとは…」サル

 

(つづく)

 

ご訪問ありがとうございます。