旅の思い出「中村キース・ヘリング美術館」(山梨県・小淵沢) | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

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ひつぞうです。
おサル妻との山旅を中心に日々の出来事を綴ってみます。

中村キース・へリング美術館

℡)0551‐36‐8712

 

往訪日:2023年8月18日

所在地:山梨県北杜市小淵沢町10249‐7

開館時間:(不定休/HPで要確認)

9:00~17:00

観覧料:一般1500円 大高生800円 中学生以下無料

アクセス:中央道・小淵沢ICから約6分

駐車場:有(美術館前)約10台

■設計:北川原温(2007年)

※撮影可能です(性的表現が一部含まれています)

※関連グッズ多数販売しています

 

《建築自体がアート!》

 

ひつぞうです。ひと月前の盆過ぎに現代建築とアート、それに温泉という最近のマイブームてんこ盛り旅行におサルを連れ出しました。最初に訪れたのは中村キース・へリング美術館。80年代に席捲したポップアートの俊才、キース・ヘリングの世界初の美術館です。ここ、建物自体も現代の名建築なのです。以下、往訪記です。

 

★ ★ ★

 

学生時代最後の年。厭厭始めた就職活動で、最初に内定を頂いた企業の人事担当者から、入社までに読んでおきなさいと、社会人として生きるためのハウツー本を手渡された。この手の書籍を蔑視している僕だったが、意外に示唆に富む内容で最後まで通読した記憶がある。その見出しのカットに使われていたのがキース・ヘリングのイラストだった。

 

80年代後半。バブル経済只中の日本にあって、キースのデザインは街の至る処に溢れていた。画廊経営者トニー・シャフラジに認められ、一躍ポップアートの寵児となったキースは、自らの作品を“商品化”し、多面的に拡散することを企てる。画壇の権威を嫌い、信じる相手は大衆だったからだ。1988年にはポップショップ2号店が東京の青山にオープンした。

 

「だから日本でも流行ったのきゃ」サル

 

 

渋滞を避けて朝一番に小淵沢にやってきた。ここはホテルやゴルフ場を展開する小淵沢アートビレッジの施設のひとつ。キースに惚れ込んだ中村和男氏が館長を務めるオシャレな美術館なのである。

 

「八ヶ岳登山でさんざん通っているけど気づかんかった」サル

 

そんなものだよ。その時は山しか見てなかったし。

 

 

常設展と企画展の二本立て。

 

 

基本的に年中無休だが臨時休業がある。往訪の際はHPで確認しよう。

 

《無題》1984年 マーカー、オートバイ(Yamaha XT250K)

 

常設コーナーは『キース・ヘリング:NYダウンタウン・ルネサンス』というタイトルで、四つの章からなっていた。

 

 

まずは《闇へのスロープ》を進む。

 

 

サイケなデザインだ。

 

ここでおサルのおさらいコーナー。

 

「またきゃ~」サル  確かに忘れてしまったけど

 

 

キース・ヘリング(1958-1990)。アメリカン・ポップアートの代表的画家、彫刻家。地下鉄の広告板にチョークで描くゲリラ的なストリート・ドローイングで注目され、《クラブ57》で個展を開催。画商トニー・ジャフラジやレオ・キャステッリに認められる。性的マイノリティや子供など、いわゆる社会的弱者をテーマに作品を発表。ポップショップの展開により、そのデザインは多くの商品とともに世界に広がった。HIVの合併症で死去。享年31歳。

 

それでは鑑賞しよう。

 

 

1.アンダーグラウンドカルチャー

 

《闇の展示室》と名づけられた最初のコーナーだ。

 

《無題(犬の上でバランスをとる人)》1989年 磨かれたアルミニウム


最初に立体彫刻が眼に飛び込んでくる。

 

 

才能を開花させたニューヨークの地下鉄やナイトクラブの世界が展示されていた。

 

「知ってるよ。この頃のN.Y.のようすは」サル

 

 

1978年にSchool of Visual Artsに入校した彼は、ペンシルベニア州の田舎町からニューヨークに出てきた。二年後のある日ふと思った。広告板の空きスペースを使って面白いことができないか。黒い模造紙を貼って素早くチョークで描く。通り過ぎる人も最初は不信そうに見ていた。警察に掴まって青あざを作ることもあった。

 

 

しかし、彼の描く絵には唯の落書きとは異なる躍動感、メッセージ性、それに物語があった。

 

「あの頃のニューヨークはホントに汚かったし、キケンだっただよ」サル この眼で見たもん

 

《無題》1982年 チョーク、板

 

間もなくそれはサブウェイ・ドローイングとして定着する。

 

「ゲリラ的というところがバンクシーっぽいにゃ」サル

 

事実、キースの絵をモチーフにした“作品”を残しているしね。リスペクトしてるんじゃない?

 

《無題》1982年 マーカー、紙

 

このデザインも流行ったな。発光しているような強調線が味なんだよ。

 

《パック・ホール(全員集合)、1983年》 撮影:ツェン・クウォン・チ 1990年リプリント

 

クラブに入り浸っていた頃の一枚。後列左から二人目がキース。磯崎新が設計(実質的には古い映画館の改装)したクラブ、ザ・パラディアムも活動の舞台だった。

 

《パラダイス・ガレージ記録写真》 撮影:ティナ・ポール

 

マンハッタン、ハドソンスクエア地区に存在した伝説のクラブ、パラダイス・ガレージ。LGBTQ+や様々な人種が集まり、1987年の閉店までカリスマDJ、ハリー・レヴァンがハイレベルな音響演出でプレイした。

 

グレイス・ジョーンズ 撮影:ツェン・クウォン・チ 1984年/2006年リプリント

 

男装のモデルとして活躍した。ボディペインティングが決まっている。

 

 

最奥にはキースの死の二週間前に完成した祭壇が。

 

《オルター・ピース:キリストの生涯》1990年 ブロンズ、ホワイトゴールド箔

 

幾つかの教会に贈られたそうだ。世界の美術館9館に収蔵されている。

 

 

では第二章の《プラットホーム》へ。

 

 

2.ホモエロティシズムとHIV・エイズ

 

左 《フラワーズⅠ・Ⅴ》1990年 シルクスクリーン、紙

中央 《無題》1984年 ビニールペイント、防水布

右 《バッドボーイズ》1986年 リトグラフ、紙

 

このコーナーがキース・ヘリングという人間の“核”を表しているかもしれない。

 

 

絵画のすごさは細部にある。一瞬の迷いもなく、また、一点の狂いもなく描く。その技量が伺える。

 

ザ・センターのトイレの壁画《ワンスアポンアタイム》 撮影:ツェン・クウォン・チ 1989年 ※スライド上映

 

このあたりはかなり露骨。キースの怒りのようなエモーションを感じる。ニューヨークのLGBTQ+のコミュニティセンターである《The Center》のトイレに、自動筆記のように壁画を描いた。大本になる構図はなく、思いのままに描いている。鑑賞者のアーティスティックな食慾のレベルによって、作品への印象、あるいは、好悪が分かれるかもしれない。

 

 

説明によれば当時のLGBTQ+HIVに対する偏見への批判や、遥か以前、性的におおらかだった時代をモチーフにしているそうだ。僕はピカノが《ゲルニカ》に込めた憤怒に近いものを感じた。

 

《沈黙は死》1987年/2012年再制作 ネオン管

(左)《偏見は恐怖。沈黙は死》1989年 (右)《トーク・トゥー・アス》1989年

 

他方、クラック(麻薬の一種)撲滅やHIV救済活動にも積極的だった。

 

 

3.社会に生きるアート

 

第三章と第四章が展示される大ホール《希望の展示室》だ。

 

 

壁面にはこう記されている。

 

“ニューヨークでのある夏、ブルックリンの託児所で図画工作を教えたことがありましたが、子供たちとの共同制作は私が経験した中でも最高の仕事の一つでした。(1984年)”

 

その理由として、子供の想像力をあげている。そして、何物にも阻害されないユーモアのセンスを。

 

「子供は真っ白なキャンバスだから」サル

 

《踊る二人のフィギュア》 1989年 アルミニウムにペイント

 

大型彫刻には、子供たちが安全に遊べる工夫(隅角を減らす、挟まらないなど)が施されている。

 

中央 《カーリング・ドッグ》 1987年 アルミニウムにペイント

左 《無題(腹に頭)》 1987‐1988年 スチールにペイント

右 《無題(アクロバット)》 1986年 アルミニウムにペイント

 

動く人。吠える犬。

 

既成アートシーンと交わらず、アウトサイダーとして“一般常識”を批判した。孤独であり、そして、一ときたりとも立ち止まることのなかったキースの生き方を、これらの造形は反映している。

 

《無題(ピープル)》 1985年 アクリル、油彩、モスリン布

 

彼が信じたのは大衆だった。

 

この造形。やはりマティス晩年の仕事、ヴァンス礼拝堂の円形装飾《聖母子像》の線とフォルムの影響をみるんだけど。

 

(参考資料・非展示)

 

マウント・サイナイ病院のための壁画 1986年 アクリル、ビニール製壁紙

 

日本初公開の大作。ニューヨーク最大規模の病院の小児病棟に描かれた。当院のアートセラピスト、ダイアン・ロードの申し出を受けて、キースは持ち前のインスピレーションを画面いっぱいに表現した。1989年に建物は取り壊されて、作品だけが30年以上保管され続けていた。

 

 

4.ニューヨークから世界へ

 

 

殆どがポップショップ東京で販売された商品。

 

「あったねえ。こういうの」サル

 

最初は誰が描いているのかと思ったけど。

 

《アポカリプス》 1988年 シルクスクリーン、紙

 

キースが学生の頃から敬愛していたウィリアム・S・バロウズとのコラボ。新約聖書の黙示録に材を取ったバロウズの詩10篇にインスパイアされたコラージュ主体の版画だ。

 

(左) 《アブソルート・ウォッカ》 1986年 (右)《アンディ・マウス》 1986年 ともにシルクスクリーン、紙

 

有名なシルクスクリーン二点。スウェーデンのリキュールの広告と、アンディ・ウォーホルをミッキーに仕立てた《アンディ・マウス》。ウォーホルやバスキアなど、当時最先端のアーティストと深く交流した。

 

 

アフリカのプリミティブアート風も。

 

 

キースの才能を認めたトニー・シャフラジレオ・キャステッリの名前が並ぶ。

 

1982年、シャフラジ画廊での個展を皮切りに、1984年のヴェネチア・ビエンナーレ、1986年のアムステルダム美術館での個展と、名声は急速に広まっていく。同時にポップショップもオープン。ファインアートが毛嫌いする大衆化とマスプロダクトは、彼ら画廊主とキースによる“共犯行為”だった。だが、彼自身は、ただ生き急いだだけだったのかも知れない。

 

「31歳だもんね…」サル

 

 

ここから企画展会場へ。

 

 

その前に二階の広場へいこう。

 

 

造詣的に美しいでしょ。北川原温氏の意匠性溢れる設計だよ。ちなみに日本建築大賞、日本芸術院賞、村野藤吾賞、アメリカ建築家協会JAPANデザイン賞など、多数受賞している。

 

「さすが権威主義者」サル 賞に弱すぎる!

 

そー言うわけではないけど。

 

 

ベンチコーナーが中世の城塞の砦みたいだね。

 

ということで企画展へ。

 

 

ハウス・オブ・フィールド展

 

では最後の《自由の展示室》へ。

 

 

映画『プラダを着た悪魔』やドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』の衣装デザイナー、パトリシア・フィールド(1942‐)が半世紀をかけて蒐集したアートコレクションの特別展だ。

 

 

アルメニア系の父とギリシャ系の母の間に生まれたパトリシアは24歳でニューヨークにブティックを立ち上げる。その後ブティックには《ハウス・オブ・フィールド》と呼ばれるアフリカ系やラティーノを中心としたLBGTQ+のコミュニティが1970年代以降、形成されていったそうだ。

 

「なかなか濃い内容だにゃ」サル

 

夏休みだから、ちびっ子連れの家族が結構いた。質問されたらどう答えるのか考えてしまう、際どい作品もある。気になるね。

 

「余計なお世話だよ」サル

 

アーティ・ハック《イマジネーションを呼ぶあなたのための鏡》 2008年

 

ま、子供は子供なりに消化して、吸収してるんだよね。

 

右正面上 ポール・チェルスタッド《シー・ペイ・プー》 1987年 クライロンスプレー塗料、キャンバス

 

まったく聞いていない。

 

「サルは自由」サル スキに生きゆ

 

 

知らないアーティストばかり…。無知って悲しい…。

 

「ペコちゃんとハイジは?」サル

 

これもジーニーっていうアーティストの作品らしい。著作権に抵触しないのかね。
 

 

なんか凄まじい熱気だけは感じた。ということで、結構ハードな内容だったね。

 

 

円形広場に出ると、青空が広がっていた。昼からの雷雨が当たり前の季節だけに運がよかった。

 

 

青臭いアートを吹っ飛ばせ!

 

 

このあと近場で食事して、温泉宿に向かう予定だった。しかし…。

 

「ヒツ!大変な電話が入ってゆ!」サル

 

(つづく)

 

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