横浜開港資料館(旧英国総領事館)
℡)045-201-2100
往訪日:2023年6月4日
所在地:横浜市中区日本大通3
開館時間:(月曜休館)9:30~17:00
入館料:一般200円 小中学生100円
アクセス:みなとみらい線・日本大通り駅から徒歩約2分
旧館:横浜市指定文化財
《これもひとつの名建築》
(一部ネットより画像をお借りしました)
ひつぞうです。ちょうど一月前に、天気も良かったので横浜港周辺をグルリと街歩きしました。最初に訪ねたのが横浜開港資料館です。旧館と新館から成り、旧館は1931(昭和6)年に建てられた英国総領事公邸が母体です。以下往訪記です。
★ ★ ★
横浜には親子の名建築が存在する。キングこと神奈川県庁本庁舎。クイーンこと横浜税関。そしてジャックこと横浜市開港記念会館。帝冠様式、アールデコ、新古典主義。その特徴的な構造美を前にすれば、誰もがカメラを向けたくなる。さすがは開港の街だ。そんな一角に居ながら、やや日陰な存在がこの横浜開港記念館である。
ちょうど神奈川県庁の隣に位置している。
「旧館から入ってみるだよ」 ここは無料みたいにゃ
立派な建物だけど管理人が誰もいないね。内部の左手はかつての応接室(撮影禁止)だ。2002(平成14)年の改修以降、一般公開になった。
その壁になにやら銅板の碑文が。1863年に起きた薩英戦争のイギリス人犠牲者の鎮魂を願ったものらしい。制作者は判っていない。
「生麦事件でしょ?」
そうそう。薩英戦争の火種になった事件ね。
中央の記念ホールはかつての待合室。開港の歴史が簡単に展示されている。
開港後の横浜の市街地の模型だね。
現在の地図と重ねると判りやすい。JR京浜東北線が敷かれている場所には大岡川が流れている。そしてこの建物、かつての総領事館は海の傍に建っていたことが判る。
「横浜スタジアムは遊郭だったんだの」 なんと
そうみたいね。外国人居留地は山下公園の辺りだね。
表に出てみよう。
(標準和名:タブノキ)
「大きな樹があるにゃ」
おサル。これは歴史画にも描かれている玉楠(タマクス)の樹らしいよ。これこれ↓。
伝ハイネ画 《ペルリ提督横濱上陸之図》(1854年以降?)
「あー!この絵知ってる」 教科書に載ってた
横浜にペリー一行が上陸した図だ。右に祠と一緒に巨木があるでしょ。これがその樹なんだ。正確にはその生まれ変わり。関東大震災で一度焼失し、その株から蘖が芽を出したそうだ。ちなみに海の傍に生えているのは意味があって、昔から船の材料にされていたんだって。
日米和親条約(1854年)もこの玉楠の下で結ばれたそうだよ。
「知らんかった」 勉強になった
僕も。
建物自体は鉄筋コンクリート造のコロニアル様式。コリント式のオーダーが見事だね。
この獅子頭の水道共用栓、どこかで見たね。
「勝烈庵の玄関だにゃ」
明治の初めに、イギリスのグレンフィールド社から600基輸入されたそうな。探してみると、まだ他にもモニュメントとして遺っているかもね。
「総領事館は横浜にはもうないの?」
1972(昭和47)年に廃止されたんだよ。1981(昭和56)年の開港記念日(6月2日)に資料館として再スタートしたんだって。
中庭から新館に向かうことができる。新館は二階建てで横浜の歴史をパネルや史料で学ぶことができる(写真撮影不可)。
ここからは気になった史実を備忘録。
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=横浜開港への道=
ペリーが浦賀沖に来航するまで、ロシアを始め、多くの国が手つかずの“日本という市場”を抉じ開けようと、ちょっかいを出していたことはよく知られている。だが、一番多かったのは長崎や浦賀ではなく、北海道と那覇だったそうだ。ま、国土の一番端だし、幕府の監視の眼が届きにくいというのもあっただろうね。国籍不明船も多かったそうだ。
「で、ペリーが来た」
そう。ペリーが500人の武装水兵を連れてね。恐れをなした幕府高官は横浜の応接所で、第一回日米会談を開く。この事実は諸藩の大名を動揺させた。幕府という政体があっても、所詮は藩という“国”が政治の単位。早馬を出して国元に最新情報を知らせようとするんだ。このあたりは島崎藤村の『夜明け前』にも迫真の描写で記されている。
ところがだ。
作者不詳《黒船来航図巻》 安政元(1854)年 埼玉県立歴史と民族の博物館所蔵
その黒船や水兵たちを、民衆はどう捉えたかというと…
「煙草をふかして茶飲み話しながら見物してゆ」
そう。望遠鏡を持ってじつにのんびりとね。これは今の子安あたりの情景らしいよ。
薩摩藩や長州藩など、散々列強に反発するんだけど、簡単に捻りつぶされてしまう。「こりゃいかん。戦う相手を間違っとる」と気づいて、一気に倒幕開国に動くんだ。日本人って、時々右から左に極端に振れるから怖いよね。
=開化ヨコハマ=
■ヘボン来日
33年の間、横浜でキリスト教の布教に従事したヘボン夫妻は辞書『和英語林集成』を出版。今でも現役のヘボン式ローマ字を生み出した。また、夫人の英語塾には多くの俊秀が集まった。高橋是清や三井の大番頭、益田孝もそのひとりだ。
■運上所の設立
幕府は1859(安政6)年に、開国に向けて神奈川運上所を設立する。今の横浜税関の前身だ。税関の仕事は課税徴収や密輸防止などの働きがあるが、当時の運上所は外国人への地所貸与や、外交交渉など、守備範囲が広かったそうだ。
■日本最初オンパレード
明治3年12月8日。日本初の日刊紙《横浜毎日新聞》が横浜活版社によって発行される。そして、新橋から横浜まで18マイルを53分で結ぶ鉄道も敷設された。石鹸が最初に誕生したのも横浜。磯子村の堤磯右衛門が1873(明治6)年に石鹸工場を創業。第一回内国勧業博覧会で花紋褒賞を受賞。これで全国区の商品に成長したそうだ。殖産興業の時代だから、国も実業家もこの博覧会をバックアップしたからね。
「知ってるようで初めて知ることが多かったにゃ」
小さな資料館だけど、つぶさに見学すると1時間はあっという間だね。
これで少しは横浜市民として胸を張れるかも。生活の拠点は大阪になっちゃったけどね。このあと、もう暫くブラヒツジを続けた。
「付きあうからなんか飲ませて」
(つづく)
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